あの日の決着II
※暴力の場面があります。嫌悪を感じる方は閲覧をお控えください※
────正直なところを白状すると。
離婚した当時は、雪丸が心を入れ替えて『芹香、僕が悪かった』『やり直したい』と土下座なんてして頼んでくる様子を想像したことはある。
自信を失って、鬱々とした気持ちを抱えて過ごしていた日々。
時が経つにつれてそんな思いも薄くなり、やがて湊斗さんに出会い、雪丸のことなんてすっかり忘れていたのに。
『僕たち、やり直さない?』
どうして今さらそんなことを言うの。
……どうして。
・・・
「芹香」
雪丸が顔を近づけてくる。ハッと我に返り、ガシッと雪丸の顔を鷲づかみにした。突然の反撃(?)に雪丸が「ふごっ」と呻いた。
「芹香」
「あ、ごめん」
謝りつつも腕の中から抜け出そうともがいた。が、雪丸に両腕を包み込むように抱きしめられ、身動きが取れなくなった。本当に怪我人なのかと疑った。
「……雪丸さん。この体勢はよくないです」
「なんで?」
「なんでじゃねぇよ、はなせこの野郎」
じたばたと暴れてみたが、効果はなかった。
あ────くそ────殴りたいけどなんだかんだでギブスが気になって殴れねぇよ────!
ぎぎぎ、と奥歯を食い縛る。
「芹香が僕とやり直すって言ったらすぐはなすよ」
「それは、ない」
「なんで?」
だあああさっきからなんでなんでなんなんだよ!!
「……自分の胸に聞いてみてください。私はもうつらい思いをするのはまっぴらごめんです」
「心を入れ替えたよ」
「信じられません」
「困ったなぁ。どうやったら信じてもらえるかな」
「仮に信じたとしても、あなたとやり直すなんて絶対にあり得ません」
私の一言に、今まで笑っていた雪丸がすっと真顔になった。────そして、気づいた時には私は天井を見ていた。シーツから雪丸の香りがした。あ、ベッドって意外に固いんだと場違いな感想が頭をよぎった。
「…………………………」
お互い無言で睨み合う。
先に口を開いたのは雪丸だった。
「僕がこんなに頼んでるのに、駄目なの?」
「……『僕』にどれほどの価値が?」
雪丸が顔を歪め、吐き捨てるように言った。
「本当に変わってない。芹香は人を苛立たせる天才だよ」
辛辣な言葉に、胸がずきんとした。
無言になった私に追い討ちをかけるように、雪丸がたたみかけた。
「こっちが下手に出てればいい気になりやがって。ちょっと頭がいいからって人のこと馬鹿にするのは違うだろ」
思ってもいなかったことを指摘され、衝撃を受けた。
誓って、人のことを馬鹿だなんて思ったことはない。自分の能力をひけらかしたりなんて、していたつもりもなかった。
目の奥がじんとし、視界が涙で滲んだ。
ちくしょう。こいつの前で泣きたくなんかない。涙、止まれ!!!!
唇を強く噛む。
雪丸がにやっと笑った。
「へぇ……。お高く止まった女でも泣くときあるんだ。離婚届書くときも平然としてたのにね」
「違う……」
「何が?」
まっすぐ目を見て伝えた。
「雪丸さん。私は、離婚するとき悲しかった。あなたには、伝わってなかったみたいだけど」
雪丸が目を見開いた後「ふん」と言った。
「……わからなかった僕が悪いって?」
「そうは言ってない」
「……つくづくむかつく女だよ、芹香は」
雪丸がさも当然の帰結のように私のブラウスのボタンを片手で器用に外し始めた。さっと血の気が引き、必死に抵抗した。
怪我も何もお構いなしに暴れていると、ちょうど雪丸のギブスに私の腕が当たった。
彼が痛みに悶絶している間に体を起こすと強く髪を引かれ、また押し倒された。雪丸が私に馬乗りになり、手を振り上げた。
頬に強い痛みが走った。少し間を置いて、もう片方の頬も。
突然の痛みに、抗議するように雪丸を見上げると彼の血走った瞳と目が合った。呼吸が荒い。ぎりぎりの細い糸で持ち堪えているような均衡が危うく、瞳の奥の仄暗い炎に本能的な恐怖を感じた。
「……晃」
「芹香が悪いんだ。芹香が僕を受け入れないから。芹香が」
そう言いながら首筋に顔をうずめてきた雪丸に、恐怖を超え怒りが湧き上がってきた。それは一気に間欠泉のように吹き出した。
「いい加減にしろ!!!!」
病室の外に聞こえるとか人の目とかそんなものはもうどうでもよくなっていた。ただただ目の前の甘ったれの坊ちゃんを殴りたかった。
「こんなことして何になるの!!馬鹿なことやってないで、1日でも早く退院して会社に戻りなさい!!」
雪丸がひるんだ。
「前妻の情にすがってる姿なんて社員が見たらどう思いますか!!」
「人間ですからメソメソするときもあるけど」
「もう少ししっかりしなさい!!!!」
私の声の残響がだだっ広い個室に響いた。
目を離した方が負けとばかりに、2人一歩も譲らず睨み合い続けた。
やがて、雪丸がくしゃっと顔を歪め、私の上からゆっくりと退いた。その隙にさっとベッドから降り、身なりを整えた。
うなだれた雪丸が、涙声で絞り出すように言った。
「……芹香、……助けて……。僕、芹香がいないと銀行と交渉もできないよ……」
「借入金の返済が間に合わないんだ……。僕もうどうしたらいいか……」
それらの言葉に全てを察した。
────まったく、本当に、全然変わってない。
突然の求婚の答え合わせができ、ほっとしたような、失望したような、複雑な感情が心を揺らした。
やっぱり、そうだったか。
天井を仰いで、そっと目を閉じた。
『芹香のことが好きだった』
ほんの少しだけ嬉しく思っていた自分を、心より恥じた。
うん。まぁ、こんなもんだ。
ーーー
その後。
怒鳴り声を聞いた看護師が主治医の斗真くんを連れて様子を見に来たところでこの雪丸劇場は幕を閉じた。
斗真くんは私たちの様子を見て一瞬固まったものの、すぐに事情を察したようでてきぱきと指示を始めた。
「あなたはこちらの椅子におかけください。雪丸さーん腕の状態チェックしてみましょうか。あはは、激しい痴話喧嘩だったみたいですね。君、消毒持ってきて」
指示を受けた看護師が部屋を出て行こうとした時に引き留め、いたずらっぽい笑顔を浮かべて言った。
「あぁ、このことは他言無用でね。俺と君の、2人だけの秘密」
人差し指を口に当て、片目をつぶると、看護師は真っ赤になってバタバタと走っていった。
「……さて、と」
斗真くんが私たちに向き直り、ぐいっと乱暴に雪丸の手を取った。
「いたい!!」
「はぁ?このぐらい我慢しろよ、元々こんなたいそうなギブス必要ない怪我なのにこんな処置させやがって」
斗真くんが心底めんどくさそうに包帯を外していく。
「女を殴るなんて男の風上にも置けねぇよ。姉さん、大丈夫?」
そう聞かれてはじめて口の端がちりちり痛むことに気付いた。
見てわかるくらいの傷なのだろうか。湊斗さんになんて説明しようか頭が痛くなった。
「……大丈夫。ありがとう」
「よかった。念のため消毒はさせてね。──で、あんたも異常なし。ていうか諸々検査も異常なしだから明日退院。オメデトウゴザイマス」
「…………………………」
雪丸は無言だ。不貞腐れているように下を向いていた。
誰も何も話さないしんとした病室に、やがて遠くから消毒のカートを押す音が聞こえてきた。
気付けば窓の外は夕方に差し掛かっていた。




