あの日の決着
湊斗さんの病院に元夫・雪丸晃が入院するというハプニング(?)から数日が過ぎた。
病院内の治安はきっとめちゃくちゃになるだろう、そのときは私が元夫を引きずってでも他の病院にぶちこまねば──と腹を括っていたのだが、意外にも湊斗さんからSOSが発せられることはなかった。
私は拍子抜けし、そして『ま、元夫もいい大人だしな』と、少し見直してさえいたのだけれど。
この性善説に寄り過ぎた考えがやはり誤りだったと、加賀山さんからの電話によって知ったのだった……。
読書に勤しんでいた静かな時間。
その静寂を初期設定のままの着信音が切り裂いた。
画面を確認してみれば、そこに表示されているのは見知らぬ番号。
「?」
誰だろう、と思いつつもスマホを耳に当てた。
「もしもし」
「加賀山です。夏目様のお電話でしょうか」
芯が通って張りのある声に思わず背筋が伸びた。
「加賀山さん!お久しぶりです。どうされたんですか?」
「私個人の電話で失礼いたします。湊斗先生に聞かれたくない話題でしたので、席を外してまいりました」
声を潜める様子に悪い予感がよぎった。
知らず知らずスマホを持つ手に力が入ったのか、ミシッと音がした。
「どうしたんですか」
「湊斗先生には言わなくてよいと言われているのですが────雪丸様のことです」
その一言で事情を察した。
「わかりました、今から向かいます。私が雪丸に話をしますので」
「……ありがとうございます。先生は『少しの間だから』と笑っていらっしゃるのですが、お立場上あまりよろしくはありませんので……」
「……ちなみに、どんな無礼を働いているのでしょうか」
こめかみがびきびきする。
急いで外出の準備をしながら、聞いた。返ってきた言葉に眩暈がした。
「お昼とおやつの時間、先生を病室に呼び出して一緒に召し上がっているようです。それで終わればよかったのですが、包帯の交換を先生にして欲しいとナース達を困らせ、弱った看護主任から私に相談があったり、主治医を先生に代われと駄々をこねたりしているようです」
「……もう、ほんっと、怪我人だけど殴っとくから。申し訳ないです」
深々と頭を下げた。てっきり嫌味を言われるものかと思っていたけれど加賀山さんが困ったような声音で言った。
「いえ、湊斗先生は本当に気にされていないのです。『コミュニケーションを取ることができて嬉しい』とおっしゃっているのですが、やはり周囲はそう見てはくれないといいますかなんといいますか……」
想像はできた。
きっと雪丸と湊斗さんはどういう関係なのか勘繰る人たちがいるのだろう、当然だ。
今の恋人の元夫と知られれば、噂の格好の餌食になるだろう。
私に電話をくれたのは、そうなることで湊斗さんを傷つけたくない、という加賀山さんの心遣いなのだろうと感じた。
ヒールを引っ掛け、玄関を開けながら伝えた。
「お騒がせして申し訳ありません。今家を出ます。まっすぐ雪丸の病室に行きますから。……加賀山さんから電話を頂いたことは内緒にしておきます。安心してください」
加賀山さんが小さく助かります、と言ったのが聞こえた。お礼を言って、電話を切る。
バッグに乱暴にねじ込んで、先を急いだ。
・・・
院内を早歩きで歩き、雪丸の病室の前に着いた。
大きく深呼吸をして、呼吸を整える。院内は少し消毒のにおいがする。
ドアノブに手をかけるが、どうしても横に引くことはできなかった。
『僕だって我慢してるんだよ?あはは』
遠い昔の記憶がイバラのように心に絡み、血が滲んだ。
雪丸は、自分を否定されることの悲しさを教えてくれた人。好意も善意も、踏みにじられることを教えてくれた人。
病室のドアノブとあの家のドアノブが重なり、湧き上がってきた恐怖に手が震えた。
「せーりか。やっぱり来てくれた」
ふわっと後ろから抱きしめられ、一瞬何が起こったのかわからず慌てた。
飛び退くように距離を取ると、雪丸がおもしろそうにけらけらと笑った。
「そんなに驚かなくてもいいじゃん」
「…………………………」
にらみつける私に、持っていたビニール袋を掲げてみせた。
「丁度コーヒー買ってきたとこ。一緒に飲もう」
「結構です。話があってきました」
「うん。まぁとりあえず中に入ろうか」
「え、ちょっ……」
ぐい、と腕を取られ強引に部屋に連れ込まれた。
ドアが閉まるガチャンという音が妙に大きく響いた気がした。
雪丸はベッドに腰掛け、私は彼から少し距離をとってパイプ椅子に腰掛けた。
豪華な個室。
これを1人で使うなんて少々贅沢に思った。────長居は無用、さっさと用件を言わねば。
「雪丸さん」
「芹香だって雪丸だったじゃん」
「……その話はなし」
「そんな遠くじゃなくてここに来ればいいのに」
ぽんぽん、と自分の隣を示す雪丸に、『そうだ、こいつはこういう奴だった』と既視感を覚えた。
真面目な話はこんな風に茶化して聞かない。
まったく、以前と全然変わっていない。
思わずため息をついてサイドテーブルに目をやる。そこにあったのは……
それをじっと見つめる私の視線を追って、雪丸が照れくさそうに笑った。
「あぁ、これ?ちゃんと読むようになった」
そこにあった経済新聞を手に取った。
「最初は何書いてんのかぜーんぜんわかんなかったけど、少しずつ勉強した」
「……そう」
「芹香が口酸っぱく言ってたもんな~。『経済新聞は読め』って。ようやく意味わかってきた」
「…………………………」
脳裏に、まだ結婚していた時の映像が流れた。
『読んだ方がいいよ』『はー?今どきそんな人いないって』『同世代はともかく、年上の経営者の方と話すときに必ず役に立つから…!』『うるさいな~も~』…。
あの時のことを覚えていたのか。胸の中に甘酸っぱい嬉しさのようなものが広がり、緩みそうになる頬を引き締めた。
しっかりしろ、私。
ほんの少しの『いいこと』で今までのことがチャラになるわけじゃない。ほだされてはいけない。
背筋を伸ばし、言った。
「よい習慣を続けてくださいね。今日話したいのはそのことじゃなくて
「芹香、僕が悪かったよ」
突然はっきりと言われ、面食らった。
雪丸は真剣な顔で、私をじっと見つめている。
「僕が馬鹿だった。許してくれ」
そう言って深々と頭を下げた。
「ちょっと、いきなりなんなの…。頭を上げてよ」
私が家を出ていくあのときですら、そんなことしなかったのに。
思ってもいなかった事態にすっかり慌てた私は自分でも気付かぬうちに雪丸にかけ寄り、腕を掴んでいた。
顔を上げた彼と目が合ったと思うと、怪我をしていない方の腕で腰を引き寄せられ、抱きしめられていた。
耳元で雪丸の声がする。
「……芹香がいなくなってわかった。僕は、芹香のことが好きだった。『金のため』なんて周りには嘯いていたけど、本心はそうじゃなかった」
「浮気相手とも別れた。再婚を考えたこともあったけど、なんとなくしっくりこなくて」
「思えば色んな女と付き合ったけど、結婚したいと思ったのは芹香だけだった」
雪丸が私の頬に手を添えた。まるで傷つけないよう細心の注意を払っているかのように、そっと頬をなでる感触がした。
「……僕たち、やり直さない?」
信じられない言葉に、私は硬直した。




