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やり直しの恋  作者: ゆり
23/30

加賀山くん

「ぎぼぢわるい……」


 朝の光が差し込む院内、ガンガン痛む頭とムカムカする胸焼けに胃の辺りをおさえながら、私はよろよろと自分のデスクへ向かっていました。


『ラーメン一杯だけ、ね?』


 昨夜斗真先生にお供したのが運の尽きでした。

 ラーメンを食べた後、


『あーーなんか飲みたくなってきたーーがっちゃん!行こうよ』


『順番が逆じゃないですか。それに私は明日出勤です。飲まれるなら先生だけどうぞ』


『おっ!ということは一緒に来てはくれるんだ。オッケー!行くぞ~~~~!!』


『え、ちょっ、そういう意味じゃ』


 引きずられて行ったお姉様方のお店でちやほやしていただいた後、まだ飲みたいという斗真先生のお部屋にお邪魔し、お酌をしておりました。

 その頃には私もだいぶ酔いが回っておりまして、頭の片隅でもう帰らないとと思いつつも今夜はここに泊めていただけないだろうか、と甘える心が出てきておりました。


『せんせ、今病院から電話かかってきたら対応大丈夫なんれすか……』


『何年医者やってると思っれんの!電話かかってきた瞬間に酔いなんて吹っ飛ぶよあはははは!!』


 ぷるるるる


『はい鈴木です…………ってがっちゃんじゃーん!!何やってんのもーーーー!!』


『すみません実験れしたあははははは』



 ーー


 ー



 気がつくと朝になっていて、フェイスマスクをお顔に乗せた斗真先生に「がっちゃん朝だよー起きてー」と揺り起こされました。熟睡していたのでした。



「…………………………」



 なんという不覚。


 そして、私をこんな状態にした張本人の斗真先生が何事もなかったかのようにけろっと出勤されているのがなんとも解せません。



『……歩ける?乗っけてくから一緒に行こーよ』


『お願いしていいですか……』


『あはは!素直でよろしい!はい、袋。気持ち悪かったら吐いちゃっていいからね』


『(こんな高級車で吐けませんて……)』



 ふらふらしながらも自分のデスクに辿りつき、まるで学生時代のように机に突っ伏して目を閉じました。

 それでも世界がぐるぐる回り、私は己の失態を心の底から悔やんでいました。






 コト





 気付かぬうちに眠っていたようです。

 机に何かを置かれた音がして、ばっと頭を上げました。


 爽やかな緑茶の香りがしました。



「加賀山くん、おはよう。気分はどうだ?」



 湊斗先生が面白そうに微笑んでいらっしゃいました。










「あ、えと、申し訳ありま……」


 慌てて立ち上がろうとしたのですが、眩暈に阻まれ叶いません。中途半端な中腰で私は込み上げてくる吐き気を我慢しました。

 それを見た湊斗先生が笑いながら続けます。


「あぁ、楽な姿勢で構わない。炭酸でも買ってこようか」


「いえぞんな……」


「あっはっは!斗真が引っ張り回したみたいで。迷惑かけてすまない」


 あぁそうだ、と何かを思いついたようです。どこかに電話をかけています。「手が空いたときに炭酸買ってこい」と聞こえたので相手はきっと斗真先生でしょう。


 ピッ、と電話を切った湊斗先生にお詫びをしました。


「申し訳ありません。このような失態を晒しまして……」


「構わない。昨日は会議もうまくいったから気が抜けたんだろう?」


 完全に面白がっていらっしゃいます。


「申し訳ありません」


「あはは、本当に構わないから。気にしないでほしい。……ははっ、いつもと立場が逆だなあ」


 湊斗先生が笑みを深めました。


 私の脳裏にこれまでの思い出がさぁっとよみがえり、どちらが夢か現実なのかわからなくなりました。



『先生、風邪を引きますよ』


『こちらの数字の訂正をお願いします。役員の方々にはこれから話を通しにいきますので』


『先生、何日病院に泊まっていますか。お部屋をお借りください』


『先生』


『先生』……。


 湊斗先生と共に歩んだ日々。


 それらが昨日のことのように鮮やかに思い出され、胸をしめつけます。


 しっかりしろ、私。


 今生の別れでもなければ、秘書を解任されたわけでもない。

 二日酔いでぼろぼろなところに、温かいお茶を淹れてくださっただけではないか。


 少し震える手で湯呑みをとり、口に運びます。

 丁度良い濃さのお茶が喉を通っていきました。


「……おいしゅうございます。ありがとうございます」


「うん。よかった。後から斗真が炭酸を持ってくるから。それと、気分が優れなかったら早退しても構わない」


「お気遣いありがとうございます。けれど今日は夏目様がいらっしゃる最後の日なのでお礼も申し上げたいものですから……」


 私がそう言うと、湊斗先生が困ったように微笑まれました。


「あぁ……今日で……終わればいいのだけれど」


「?」


 片手で口を覆い、笑いを堪えています。


「加賀山くんに言っていいのかわからないが……芹香さん、昨日なぜかバッティングセンターに行ったそうだ。そこで打ちすぎて今日は手が痛いとーーまともな字をかけるかわからないそうだ」


「!」


 きっと私との言い合いが原因でしょう。なんとわかりやすい行動でしょうか。

 そして今の湊斗先生のセリフから察するに、口論のことは先生に伝えていないようです。

 夏目様のさっぱりとしたご気性を目の当たりにした気がして、少し印象が変わりました。


「ふふ、昼までには治してくるそうだが、まぁ今日は早目にあがらせることも検討しておいてくれ」


 そうしたら君も早退しやすいだろう?、と笑う湊斗先生。お心遣いに泣けてきて、私もぎこちなくですが笑ってみました。


 先生が不意におっしゃいました。



「……加賀山くん、いつもありがとう」


「え?」



 穏やかな笑みを浮かべ、私を見つめています。


「君みたいな優秀な秘書に恵まれて、俺は幸せだなと思って」


「────────」


 突然のお言葉に頭がついていきません。ただただ恐縮しました。そして、涙が出そうになるのを必死に堪えました。


「も、もったいないお言葉です。どうしたんですか、急に」


「ふふ、いや、なんでもない。さぁ、仕事だ」


 副院長室に入っていく後ろ姿を眺めながら、私はまた懐古の念に駆られました。


 弓道をされていた賜物なのか、姿勢よく伸びた背筋。

 いつ見ても清々しいお姿ですが、室内にあるポールハンガーに掛けたスクラブを見ながらため息をついていたこともございました。


 たまらず声をかけてしまった私に、寂しそうに微笑まれたこともございました。


 あのスクラブは今どこにあるのか、私にはわかりません。



「……先生!」


「うん?」



 先生が振り返ります。朝の光が眩しくて、思わず目を細めました。


 互いに見つめ合うこと数十秒。


 先に笑い出したのは湊斗先生でした。


「どうした、今日は何か変だぞ」


 私もそう思うのですが、身体中を駆け巡るこの感情の名前がわからないのです。


「いえ、こんな私ですが、これからもよろしくお願いします」


 ぺこりと会釈すると、湊斗先生が私の方へいらっしゃいました。そして私の手をとり、あの時のように力強く握りました。



「俺の方こそ。これからもよろしく頼む」



 その瞬間でした。


 私の中にあった感情のいくつかに名前がつきました。


 夏目様が現れたことにより、自分の秘書としての地位が脅かされるのではないかという不安。


 先生をとられてしまうかもという焦り。


 湊斗先生のことを誰よりもわかっているのは私だという自負。


 けれど先生の瞳に映るのは自分ではないというーー嫉妬。


 渦巻く感情に翻弄されるだけでしたが、少しでも正体がわかり、私はほっとしました。


 そして、パンドラの箱の最後に残っていたものにも気付きました。





 私は、先生のことを ────





「加賀山くん?」


「あ、はい。わ、すみません、いつまでも」


 いつまでも手を離さない私に困惑したのかもしれません。すぐに手を離しました。


 心の奥底にあった──恋慕の情を自覚したとて、それがどうにかなるわけではありません。

 すくい上げて優しく一撫でしたあと、そっと元の位置に戻して箱を閉めました。


 それは指先が離れる瞬間と不思議とリンクし、私は、この想いを生涯誰にも明かさないようにしようと思いました。


 先生から目を逸らしました。


「…………………………」


「はは。加賀山くんがこんな風になるなんて珍しいな」


 私の心の内などご存知ないくせに。


 ほんの少し恨みがましく思いました。


「まぁ今日は無理せず。それと、髪を下ろしていると随分幼く見えるな」


 先生が末弟にそうなさるように、私の髪をぐしゃぐしゃと撫で回します。今日は斗真先生のおうちのお風呂と洗面所をお借りしたので、いつもの整髪料がなかったのでした。


 その穏やかで誠実な瞳と目が合います。



 ──これからもよろしく。



 先ほどのお言葉に、私の秘書人生の新たな章が始まった気がいたしました。

 そしてその新章は、明るく、あたたかく、穏やかなものである、と確信にも似た予感がいたしました。

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