少し昔の話を
※加賀山さん視点です
加賀山と申します。
私は大学卒業後、医療機器メーカーの営業として働いた後、鈴木病院の総務課に勤めることになりました。
総務課とは雑用課でして、簡単にいうと、人事・秘書業務・院内の事務作業(医療事務を除く)など、これといったやり手がいないものを引き受ける課でございます。まぁ、何でも屋といったところでしょうか。
営業とは違い正に裏方の作業でございますが私の性に合っていたようで、日々業務に邁進しておりました。
気がつけば一年が経ち、次の年度の新入職員が入ってきました。その中に、湊斗先生はいらっしゃいました。
歓迎会の挨拶では、
『院長の息子だってー!』
『えーイケメンー!彼女いるのかな?』
『いたとしてもまだ結婚してないんだったら大丈夫だって!頑張りなよ~!』
院内の女性たちが浮き足立つ中、それを意に介さず『ご指導よろしくお願いします』と礼儀正しく頭を下げていらしたのが印象的でした。(ちなみに数年後にあった斗真先生の入職の際はアイドルのコンサートかと思うくらい黄色い歓声が飛び交っておりました。それに手を振って応える斗真先生を見て本当に湊斗先生の弟なのかと愕然といたしました)
話を戻します。
その後の湊斗先生との接点といえば、先生の結婚式のお手伝いをしたときにお礼を言われたことぐらい、そして離婚をされたときに総務課まで足をお運びくださり『お手伝い頂いたのに申し訳ない』とご挨拶をお受けしたことぐらいでした。
真面目な方だな、と好印象を持ちつつお互い顔は知っているくらいの関係だったものが一変したのは、あの事件がきっかけでした。
鈴木病院での大規模な不正の発覚。
一部の医師と、私たちの総務部長による収賄・院内での横領。
捜査への対応、マスコミへの対応、患者さまへの説明などで皆が疲弊していきました。
退職する職員が後を経たず、その応対が大変だったことをよく覚えています。
そして騒ぎもようやく落ち着いてきたと思われた頃、私は院長室へ呼ばれました。(そのころの総務課は暫定的に院長の指揮下にありました)
きぃ、とウォルナットの扉を開いた時の音、ドアノブのひんやりとした感触は今でも覚えております。
『し、失礼いたします。加賀山、参りました』
『……あぁ、加賀山くん。呼びつけて悪かったね』
しゃがれ声の院長。この騒ぎですっかりやつれてしまい、目が少しうつろなご様子でございました。
そしてその横にはーー湊斗先生が。
院長とそのご子息の前に立ち、心臓が縮む思いがいたしました。
え?なんだろう。まさか私も何か疑われているのだろうか。
私の疑問に、院長はすぐに答えをくださいました。
『……まだ内定の段階なのだが、湊斗を、経営に参加させようと思っている。………………。』
『いつかは、と思ってはいたがこんなに……早くなるとは思っていなくてな……』
院長の唇が震え、目から一筋涙がこぼれました。湊斗先生がさっとハンカチを渡し、院長が目元を押さえました。
『すまん。……加賀山くんは経済学部を出ているだろう。総務課での勤務も非常に真面目だ。……だから、湊斗の秘書になって助けてやってくれないか』
『!』
思ってもいなかった辞令に私の頭はフリーズしました。
確かに物事の段取りを整えたり、根回しをすることは嫌いではありませんが、それはある程度相手も習熟しているからスムーズにいっていただけで……医業一筋でいらっしゃる方 ーー失礼ながら、それ以外は何もご存知でないであろう方をご指導・お支えする立場など、私ごときでは力不足だと思ったのです。即刻お断りいたしました。
『大変ありがたいお話ですが、私ではとてもとても……。他に適任者がいるかと』
『そう言うと思った。君と湊斗は年も近い。仲良くやっていけるだろう。引き受けてくれないか』
尚もしぶる私に、院長が苦々しく言いました。
『……新しく募集する気にもなれない。誰も信用できないが、課の者を見渡してみると君はなかなか信用できそうだと感じた。だから、頼む』
深々と頭を下げられ、私は慌てました。
『私ごときにそのようなことはなさらないでください。わかりました、お引き受けします。お役にたてるかは分かりませんが……』
私の言葉に、今まで一言も発せず静かにやり取りを聞いていた湊斗先生が柔らかく微笑みました。院長も安心したように頬を緩めました。
『そうか、ありがとう。君ならそう言ってくれると思った』
『早速だが1週間後からよろしく頼む。デスクは副院長室前の秘書スペースを使ってくれ』
『……かしこまりました』
とは言ったものの、今まで役員の方々のスケジュールは総務課で共同管理していていわば全員秘書のような状態だったので、専属の秘書など私は務めたことがございません。
おふたりに礼をして院長室を辞し、具体的にどうしたらいいのか考えながら、エレベーターを待っていたところ、
『加賀山くん!』
後ろから湊斗先生が追いかけてきました。
『湊斗先生』
会釈すると、
『急な話で申し訳ない』
『……いえ、あ、まぁ驚きはしましたが……』
エレベーターに乗り込み、せっかくだから副院長室を見に行こうということになり、部屋に向かいました。
院長の奥様のご趣味だという、重厚で静謐なインテリア。外国のお部屋にお邪魔しているような感覚に陥りました。そして、そのインテリアに湊斗先生はよく馴染んでいらっしゃいました。
窓を開けながら先生が言いました。
『お察しのとおり、私は医業以外は、まぁ医業もまだまだだが、何もわからない人間だ。一生懸命勉強するつもりではいるが、力及ばない場面が多いと思う。迷惑かけると思うが、よろしく頼む』
礼儀正しく頭を下げられ、私は再び慌てました。
どうして皆さまこのように礼儀正しいのでしょうか。経営者一族ならばもっとえらそうにしているものではないのでしょうか。
『どうか頭をお上げください。私の方こそどのようにお役に立てるかはわかりませんが、精一杯努めますのでどうぞよろしくお願いいたします……』
『あぁ、いやいや……』
膝と頭がくっつくのではないかと思うくらい深々と頭を下げた私に、湊斗先生が困ったようにそばにいらっしゃいました。
そして、私の手を取り、固く握手をされました。
『最初からこうすればよかったな。はは』
その瞬間、私の全身に雷に打たれたような衝撃が走りました。
そして、湊斗先生にお伝えしなければならないことを思い出しました。
それは私を構成する特徴ではございましたが、同時にふつうの人間ではないと告白するようなものでして、お伝えするのに少しばかりの勇気が必要なものでした。
しかし黙っているのも不誠実だろうと思い、勇気を振り絞って口を開きました。
『あの、先生』
『うん?』
部屋の点検をしていた湊斗先生が振り返ります。
お部屋の濃厚なウォルナット色に先生の青のスクラブがよく映えていました。
『お伝えしておかねばならないことがあります』
私が硬い声でそう言うと、湊斗先生は笑みがすっと消え、警戒するようなお顔つきになりました。
気まずい沈黙を破り、申し上げました。
『実は、私は、恋愛対象が男性なのです』
『うん?』
湊斗先生が鳩が豆鉄砲を食ったようなお顔になりました。伝わっていないと判断し、率直に言いました。
『私は、その、いわゆるゲイなのです』
『ゲイ』
『……はい』
沈黙が流れます。
その間、私の頭の中には前職での出来事が鮮やかに蘇っておりました。
私に好意を寄せていてくれた女性に私の恋愛特性をお伝えすると、その時はご了承頂けたのですが、次の日には社内中に広まっておりまして、私は好奇の視線に晒されました。
特に男性からのからかいはついに看過できないものになり、営業職に向いていないことと相まって私は退職を決めたのでした。
ごめんね、こんな風になるなんて思わなくて、と女性が謝りにきたのは良心の呵責に耐えられなくなったからのようです。
もしかしたら湊斗先生も気持ち悪いと思っていらっしゃるのかもしれない。
そう思うとなんだか泣けてきましてこの場から逃げ出したいと思ったときでした。
湊斗先生が優しくおっしゃいました。
『……そうか。何か配慮することはあるだろうか』
予想外の言葉に、今度は私が豆鉄砲に打たれました。
『私も気付かぬうちに失礼なことを言うかもしれない。そのときは遠慮なく指摘してほしい』
『あ、いえ、そうじゃないんです、何かしてほしいとかではなく……』
『?』
わけがわからないというように眉をしかめました。
『後からわかって、先生がお気を悪くされたらいけないと思い申し上げた次第で…、あの、お嫌でしたら秘書は解任していただいて構いませんので……』
消え入りそうな私の声とは逆に、湊斗先生が明るい声で笑いました。
『あはは!そんなことは全然気にならないから加賀山くんも気にしないでくれ。恋愛の相談にも乗るから気軽に話してほしい』
ーーーー 私の中で、何かが変わった瞬間でした。
薄いガラスがパリンと割れたような音が聞こえ、私は自分が受け入れられたことの喜びで、体が震えました。目の奥がジンと熱くなりましたが、深く息を吸い、涙をこらえました。
この人のために、身を粉にして働こう。どんなときでもお支えしよう。
そう心に誓ったのでした。




