逆鱗
お礼状書きのアルバイト3日目。
コツのようなものを掴み、初日に比べてだいぶスラスラと書けるようになり、終わりも近づいてきた。このままいけばきっと明日には終わるだろう。
(……だが油断するなっ……!一瞬の気の緩みで積み上げてきたものが崩れるんだっ……!)
ふと父親の言葉が頭をよぎった。
『最初は緊張しているからみんなミスはしないものだ。怖いのは慣れてきてからだ。気をつけんといかん』
一代で財を築いた父と母を「所詮は成金」と下に見る人たちがいることは知ってはいるが、私は2人を心から尊敬していた。
筆を止め、外を眺めた。雲ひとつない青空。
今日もこの街のどこかで(まぁ会社だろうけど)従業員さん達の尻を叩いて鬱陶しがられているのだろうと思うと笑ってしまった。
「何を笑っていらっしゃるんですか?」
「ん?え、あ、湊斗さん!!」
突然響いた優しい声に驚き、ばっと振り向いた。
そこにいたのは恋人・湊斗さん。
朝会ったというのに、病院で会うのはまた新鮮だ。
というか、ここ2日ほどは加賀山さんとばかり話していたので(そしてその冷たさにむきー!となっていたので)、湊斗さんの優しい声音は砂漠の中突如現れたオアシスのように感じられた。
「さぼってないですよ?ちゃんとやってます」
「あはは、わかっていますよ。休憩時間なので、ちょっと様子を見にきただけです。……うん、きれいなお礼状を書いてくださりありがとうございます。本当に助かります」
優しさがしみるぜこのやろー!
「そう言っていただけると嬉しいです。書き甲斐があります」
「加賀山くんも喜んでいますよ」
いやそうは思えないんですけど?
「そうでしたか。よかったです。順調にいけば明日には終わりそうです」
「……そうですか……」
湊斗さんが急にしゅんとした表情になった。
「?」
「あ、すみません、えと、芹香さんいらっしゃるのが明日までかーと急に寂しくなりまして……」
「あはは、いつまで働かすつもりですかー!」
かわいいセリフに笑いながら、軽く肩を叩いた。湊斗さんも微笑み、私に向かって両手を広げた。
おいで、ということだと解釈しそっと胸に寄り添った。
湊斗さんの温もりが私を包み、その穏やかさになぜだか少し泣きそうになる。頬に手が添えられ、優しいキスが降ってきた。
「めっ、職場ですよ」
「すみません、無意識で……。今日だけは大目にみてください」
そう言ってまた唇が重なった。
柔らかくて甘いキス。
その甘さに何もかもがとろけそうになってしまう。
そのままついばみ合っていると、湊斗さんの手が私の服をまさぐりはじめた。
ちょっ……と、ストップ。
「こらこらこら……どうしました職場ではだめですよ」
「だめですか?」
だめに決まってます。
「キャラ変わってますて」
「……多分本音と建前が逆になってますよ」
くすくす笑いながら湊斗さんが言った。
「失礼しました、その気になってしまいまして」
そう言いながら私の衣服の乱れを整えてくれた。
私はと言うと、湊斗さんの男'性'を目の当たりにして、ーーーー顔が真っ赤になっていた。
「顔が赤いですよ」
湊斗さんの手が私の頬を包み、ふんわりと唇がふれた。ちゅっ、という音で我にかえる。
「けけけけしからんですよなななんですか急に」
「あはは。なんですか、と言われても。なんでしょうね?」
湊斗さんが笑った。
仕事ではしっかりしていることは知っていたけれど、それ以外ではどちらかというとぼうっとしていて、穏やかで、ゴールデンレトリバーみたいなイメージだったのだけれど。
(そうか……湊斗さんも男なんだよね……。なんか……すっかり忘れててごめん……)
湊斗さんの手を取りぎゅっと握手をした。
「なんですか、これは。ふふふ……」
「なんでしょうねぇ……」
くすくす笑い合いながら繋いだ手を離せずにいると、まるで終わりを告げるベルのように湊斗さんの電話が鳴った。
すみません、と短くことわって電話に出る。
「鈴木です。……あぁ、これから行くから。はい後ほど」
ピッ、と電話を切る音がした。
「芹香さんすみません、ずっとここにいたいのですが会議の時間です。行ってきます」
「忙しいですね」
「予算の件が大詰めで。今日は帰りが遅くなりそうです。先に寝ていてください」
「はーい」
家でそうするように、ネクタイが乱れていないかチェックし、左右の肩を払うと湊斗さんがなんだか幸せそうに微笑んだ。
「……芹香さん」
「うん?」
「…………………………」
無言で目を閉じている意図を理解し、そっと唇を合わせた。湊斗さんが相好を崩した。
「行ってきますね」
「うん。気をつけて」
「あはは!院内です」
そう笑いながら、湊斗さんは会議へ向かっていった。
・・・
湊斗さんの訪問でテンションが上がった私は、その情熱をアルバイトにぶつけていた。
うぉぉぉぉ、と仕上げていき今日のノルマはあと1枚となったところで加賀山さんが「失礼します」と部屋に入ってきた。
「あ、加賀山さん。お疲れ様です。このままいけば明日にでも終わりそうです」
私の言葉は無視して、テーブルに並べてある完成品を1枚1枚点検している。
はいはい、どうぞどうぞ。
今日だったら、全部書き直しでも書き直しますわ~。
そんなことを考えながら、上から下までじっ…と確認している加賀山さんを眺める。
「……はい、結構です。明日には終わりそうなのですね。よかったです」
聞いてんじゃねーか。
「加賀山さんが準備してくださったおかげです」
にこやかに言うと、
「そんなお世辞は結構ですよ」
いつも通り冷たい返事が返ってきた。ただし、続きがあったという点で、常とは違う展開だった。
「湊斗先生にも、うまく取り入りましたね」
「……はい?」
場の雰囲気が凍った。いや、最初から凍っていたことに改めて気付いた、というべきだろうか。
頭の中で「このまま進んではいけない」という警鐘が鳴り響いている。
「どういう意味でしょうか」
「そのままの意味です」
「……何か誤解があるようですが」
「そうは思いません。今のような、思ってもいないであろう上っ面の言葉、そして ーーーー
加賀山さんが私を値踏みするように見据えた。射るような鋭い視線に、背筋がぞっとした。
「体を使って誘惑したんでしょう。汚らわしい」
苦々しく、吐き捨てるようにそう言われ、彼はもしかしてお昼の一連の出来事を見ていたのではないか、という疑問が頭に浮かんだ。
「あの、加賀山さ
「成金が、由緒正しい医師家系の血が欲しくなりましたか?」
眉をしかめて、はっきり言った。
あまりに失礼な言葉に、すぐには何を言われたのか理解できなかった。
え?なんて??
「……おいこら、てめぇ今なんつった」
「何度でも申し上げます。成金の娘と湊斗先生では釣り合わないと言っています」
「その'成金'という言葉、訂正していただけます?ひどい侮辱の言葉ですよ」
「存じております。しかしながら他にあてはまる言葉が思い浮かばず」
唇の片方を上げ、バカにしたように笑う加賀山さん。
『まーた成金ってバカにされたわい』
『あなた、元気出して』
『芹香はちゃんと勉強するんだぞ。学がないと大人になって悔しい思いをするぞ』
そんなことを言いながら夫婦2人で勉強会をしていた両親が頭をよぎった。
涙がこぼれそうになる前に ーー頭に血がのぼった。
「あのさぁ!!!!」
私の声が部屋中に響いた。頭の中では冷静になれ、冷静になれ、と響いているのだが、止められなかった。
「私のことはいくら嫌ってもいいけどさ!!親のことまで言うのは違うだろ!!今すぐ訂正してよ!!」
「……お静かに。ヒステリックに叫ばれるとうんざりします」
「…………………………!!」
叫ばせてるのはどこのどいつだよ。まじで殴りてぇ。
掴みかかりそうになる手を必死で抑えた。
「おっしゃる通り、私はあなたのことが嫌いです。湊斗先生にはもっと相応しい女性がいると確信しています」
私が書いた礼状を手に取った。
「ここまでの教養を努力で身につけたことは賞賛します。けれど世の中にはお小さい頃から、こういったものを自然と身につけてこられた方々がいらっしゃいます。そのような方こそ湊斗先生の、将来的にはこの鈴木病院の院長の配偶者に相応しいと思いませんか」
「……そのような方がいるのですか」
あまりに現実離れした話に逆に冷静になった。
「今はいません。けれど、これからどうなるかはわかりません」
「加賀山さん」
なんということだ。思わず彼と肩をくみそうになった。
「秘書として、あなたが湊斗先生を、鈴木病院を思う気持ちはわかります。けれど、ーー身を引けと迫るようなことは、秘書として越権行為なのではないですか?」
私の言葉に今度は加賀山さんが下唇を噛んだ。
「……成金の娘のくせに、越権行為なんて難しい言葉を知っているのが生意気ですね」
「殴っていい?」
自分の低い声に驚いたが加賀山さんはにやっと笑っただけだった。
「そうしてくれれば話は早いのですが。おそらくしてくれないでしょうし。まったく、下賎の者は一度食いついた獲物は離しませんねぇ……」
「いつの時代を生きてるの?」
彼の中にある前時代的なヒエラルキーを感じ、反吐が出た。
私の質問には答えず、加賀山さんは「あぁ」と言った。
「今日もお疲れ様でした。ではひとまず明日まではよろしくお願いいたしますね」
失礼いたします、と礼儀正しく頭を下げ、加賀山さんは部屋を出ていった。
残された私はまだおさまらぬ怒りを持て余し、わなわなと震えていた。
(あいつまじむかつくわーーーー!!泣かす!!絶対泣かす!!!!)
今日は帰りにバッティングセンターに寄ろうと心に決め、帰り支度をはじめた。
カラスがかーと鳴いて外を横切っていった。
・・・
1日が終わり、照明が落とされた院内ラウンジで1人コーヒーを飲む者がいた。
だらだら歩きながらコーヒーを買いにきた斗真がその人物に気付き、近寄って声をかける。
「がっちゃん、お疲れ」
「その呼び方やめてください」
加賀山が嫌そうに眉をしかめたが、斗真は構わずに椅子を引き隣に座った。加賀山は少し距離を取った。
空調の音だけが聞こえる無言の時間。
斗真がおもむろに、加賀山を気遣うように言った。
「うん。……大丈夫?」
「…………………………」
問いには答えずに、彼は静かに缶を傾けた。




