薮から小姑
※芹香さん視点です
優雅なピアノの旋律が、鼓膜を揺らす。目を閉じてうっとりと聞き入っている聴衆。最後の音が鳴らされると、少しの静寂の後、余韻を味わっていた人々がゆっくりと目を開け、手を打ち始めた。じわじわと拍手の波が広がっていく。
それににっこりと手を振って応えているのは ーー斗真くん。私の恋人・湊斗さんの弟だ。
そしてここは、鈴木病院。湊斗さんや斗真くんの勤務先。
『入院患者さん達の暇つぶしに、斗真が演奏会をするんです。ギャラリーは多い方が気合が入るそうなんで、芹香さんも都合がつけば観に行ってやってくれませんか』
『えー!斗真くんあの見た目でピアノも弾くの?すごいね!できないことあるのかな?』
『……それは斗真にきいてください……』
『あっはっは!またいじけてる!大丈夫、私は湊斗さんの鼻歌好きだから!湊斗さん歌うまいよねぇ!』
『……ありがとうございます』
『わ、こらこら、明日も早いんでしょ、きゃ~~!』
ーー
ー
演奏会が終わり、さて私も帰ろうかと思っていたところ、斗真くんが大きく手を振りながらこちらにやってきた。
「ねえさん!来てくれたんだ」
「あ、うん、まぁ……」
周りの視線が痛い。皆がちらちらこちらを伺っている。
斗真くんにはそれが目に入っていないのかもう慣れっこなのか、構わずに話を続けた。
「どうだった?」
「うん、すごくよかった。プロみたい。よくあんなに器用に指が動くね!」
私の言葉に斗真くんが「感想そこ!?」と吹き出す。
その笑顔に私の気持ちもほぐれ、話すタイミングがあったら言おうと思っていたお礼を伝えた。
「そうだ、ネイルありがとうね。早速使ってる」
そう言いながら、爪を見せた。
「よかった。俺よりねえさんの方が似合いそうだと思ったからさ。……うん、いい感じ」
斗真くんが私の手を取り、ネイルの塗りを確認するようにしげしげと眺めた。
医療人というものは人に触れるのにためらいはないらしい。少し照れくさく思っていると、斗真くんがハッとしたように慌てて手を離した。
「ごめん。何も考えてなかった」
「あ、いいの、全然。職業柄そうだと思うから」
「そう言ってくれるとありがたーい。兄ちゃんいないよね?またケンカになったら嫌なんだけど」
そう言って不安そうに辺りを見渡す斗真くん。亀が甲羅の中から恐る恐る顔を出しているような様子に笑ってしまった。
「あはは。大丈夫、私は湊斗さん以外見えてないって伝えてるから」
私の強気なセリフを聞いて斗真くんは目を丸くし「あっはっは!!」と、豪快に笑った。
「そっか。それは失礼しました」
「いえいえ。日を追うごとに湊斗さんに沼ってる。好きなアイドルと付き合えたファンてこんな感じなのかな」
「それは大げさでしょ!」
ひー、腹いてーと笑い続ける斗真くんに、聞いてみたいことを思い出した。
「けどさ、不思議なんだよね」
「何が?」
「湊斗さん、見た目も中身もイケメンじゃん」
「兄貴はほんとに幸せ者だなー」
「なんで今まで浮いた噂もなかったのかなーって…」
斗真くんがきょとんとした後、ぽん、と手を打った。
「そっか。ねえさんまだ会ったことないんだ」
「?」
わけがわからないという顔をしている私に、にやっと笑って言った。
「そのうち会うことになると思うよ…。腹心の部下に…。ふふふ…」
「ちょっとちょっと、なんか怖いな~!」
ぶるぶる震える仕草をすると、斗真くんが楽しそうに目を細めた。
斗真くんと分かれ、エレベーターを待っていたときに後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
「芹香さん!」
湊斗さんが私を見つけて、満面の笑みを浮かべていた。
その様子に通りすがりの職員さん達が動きを止めた。皆さま、多分私も同じことを思ってる。
「あわわわわ白衣を着てそんな素敵な笑顔を振りまかれた日には私はもう……じゃなくて湊斗さん。会えると思っていなかったので嬉しいです」
しゃん、と姿勢を正しにっこりと微笑んでみせた。
「芹香さんに会えるかと思って早目に切り上げてきました。その甲斐がありました。今から休憩なので、一緒にお茶でも飲みませんか」
「いいんですか?」
「もちろん」
丁度エレベーターが来たので2人で乗り込んだ。湊斗さんが上の階のボタンを押し、扉がすうっと閉まった。
自然と手を繋いだ。湊斗さんがその手にキスしてくれる。
「湊斗さんってほんとにロマンティスト」
「嬉しいんですよ。自分の職場に芹香さんがいることが」
くすくす笑いあっているとすぐに目的階についた。
とことこと湊斗さんの後をついていくと副院長室と書かれた一画についた。
中に入るとすぐ右側にウォルナットの机があり、その上には秘書、というプレートがあった。書き物をしていたその人物が、顔を上げた。
「芹香さん、紹介します。私の秘書の加賀山です。加賀山くん、こちらは夏目芹香さん。私の、こ、恋人だ……」
そう言いながら赤くなってしまった湊斗さんに構わず紹介された加賀山さんが無言で立ち上がり、ぺこっとお辞儀をしてくれた。
「加賀山と申します。よろしくお願いします」
「あ、夏目と申します。こちらこそよろしくお願いします。お仕事中にお邪魔して申し訳ありません」
私もお辞儀を返し、一言謝罪を添えた。ーーーーだって、
(目が……めちゃくちゃ怖い……!!)
私を見た瞬間、上から下まで値踏みするような視線、射抜くような鋭い目に、たじたじになってしまう。
「お茶をご用意いたしましょうか」
「あぁ、よろしく頼む」
表情は一分の隙もなく整い、眼差しは氷のように冷たい。
朗らかな笑顔の湊斗さんの隣に立つと、そのコントラストがいっそう鮮やかに浮き彫りになった。
加賀山さんは隙のない神経質そうな男の人で、彼の第一印象は誰が見ても「厳しそう」と答えることだろう。
湊斗さんは厳しさはあれど、どこかぽや~っとしているところがあるのだが、
(加賀山さんは……ただ厳しいのみ!って感じ……)
お茶を淹れてくださったが、私が湯呑みをとる仕草、茶を飲む仕草全てを審査されているようで、控えめに言ってとても怖かった。
茶道のお茶会のような緊張感。
震える手でお茶を頂きながら、ああそういえば最近お稽古行ってねぇわ、と場違いなことを考えていた。