雨降って
積もり積もった劣等感が爆発し、いじけて殻に閉じこもっていた日々。
恋人の言葉によって前を向くことができた俺は、ある決心を固めていた。
斗真に、会おう。
そう心に決め電話をかけたのだが、何度呼び出し音が鳴っても『もしも~し』とあの明るい声が聞こえることはなかった。
当たり前か。
散々逃げ回って。
自分が会いたいときだけすぐに会えるわけがない。
ふぅ、とため息をつき、もう少し時間を置いた方がいいのだろうかと思案する。
けれど『今』を逃せば何か決定的なタイミングを逸してしまう気がして、臆病な自分を奮い立たせた。
斗真個人の電話がダメなら ーーと、医師たちの詰所に電話をかける。
『……はい』
ワンコールで、整形外科の中で群を抜いて無口な医師が出てくれた。よかった、物静かな彼とは話がしやすい。
「忙しいところすまない。斗真に連絡したいのだけれど、つかまらなくて。どこにいるか知ってたら教えてほしいのだが……」
そう言うと、少しの沈黙の後
『多分ですが、屋上ではないでしょうか。考え事をしたいと言ってふらふら出ていったので』
「そうか、ありがとう」
『……いえ』
受話器を置き、立ち上がって白衣をまとった。
「少し院内を散歩してくる。何かあったら院内phsを鳴らしてくれ」
秘書に告げ、屋上へ向かう。
途中、自動販売機で斗真がよく飲んでいるコーヒーを買った。
きぃ、と扉を開けると、予想通りの後ろ姿が見えた。
フェンスに腕を乗せて景色を眺めている。
コツコツと近付くと振り返って俺をみとめ、すぐに目を逸らした。
小さいときから変わらない、怒っているときの仕草。
まだこどもだった頃の残像が重なり、少し笑ってしまう。
横に並び、同じ景色を眺めた。
遠くに見える稜線が夕陽に染まり、とても綺麗だった。
こうしてやってきたはいいものの、何を話すかは特に考えていたわけではなかった。沈黙が続き、街の音だけが聞こえている。
しばらくそうしていたけれど、いつもの明るさはなりをひそめ、しょんぼりとしたけれども虚勢を張っている弟を見ると、自然と言うべきことがわかった。
「斗真」
「……何」
こちらを見ずにぶっきらぼうな返事が返ってきた。
俺ももう一度景色を眺めながら、言った。
「悪かった」
「…………………………!」
斗真がばっとこっちを見る気配がした。
俺も斗真を見やり、2人しばらくお互いの顔を眺めていた。
斗真が口を開いた。
「ていうか、なんなの?俺が芹香ねえさんと仲良くしたのが気に入らなかったってこと?」
「…………そうじゃない。いや、それは大きなきっかけではあったが」
「は?意味わかんないんだけど」
斗真が不愉快そうに眉をしかめている。
オレンジ色に染まった空が、斗真の漆黒の髪を染めていた。
「ーーーーはじめて言うが、俺はずっとお前が羨ましかった。みんなから慕われて、愛されて。俺にないものを持ってるお前が、」
「本当に、羨ましかった」
斗真を見ると、少し泣きそうになりながらこちらを見ていた。
真正面から見ると、眉の横にうっすら縫い跡が残っていることに気付いた。
斗真がうつむいて、泣くのを堪えているような震える声で言った。
「なんだよそれ。意味わかんねぇ。俺のことずっと嫌いだったってこと?」
「そうじゃない。俺はお前ほど社交的じゃないし人付き合いもうまくないから。勝手に比べて勝手に羨んで、勝手に落ち込んでいたって話だ」
「ーーーーーー」
斗真が困惑したように頭をぐしゃぐしゃとかいた。
何かを考えている様子だったが、やがてぼそっと言った。
「ーー俺だって、兄ちゃんが羨ましいよ。病院の不祥事があったとき、父ちゃんたちが真っ先に頼ったのは兄ちゃんだし。経営も立て直してきてて。湊斗先生すげぇって言われてるの聞くたびに俺ちょー嬉しかった」
「患者さんだって、兄ちゃんにしか診てもらいたくないって人多いし。俺は逆に担当変われって言われることがある」
それは知らなかった。はじめて知る事実に驚いていると、斗真が苦笑いした。
「誰とでも仲良くなれるって言うけど、裏を返せば浅い付き合いしかできないってことだし」
「……友だちって言えるの片手で足りるし」
実際に指折り数え「あ、やば。ほんとに足りる」と言ったのに笑ってしまった。
斗真もぎこちなく微笑んだ。
「はは、なんか、俺たちないものねだり?」
「…………………………そうかもな」
空を見上げると、雲が夕焼け色に染まっていた。
病院の建物も同じ色に染まり、周りの風景が絵画のように美しく思えた。
「あ」
ポケットに缶コーヒーがあったことを思い出し、斗真に差し出した。
「飲め。好きだろ」
目を丸くした斗真が、ぬるいんだけど、と笑いながらも受け取り、蓋を開けた。
「ていうか兄ちゃん、怒ったら無視するのやめてよ。ガキの頃からそうじゃん」
「そうか?」
「そうだよ。俺と絢斗で、泣きながら『兄ちゃんごめんね』って言い続けたの覚えてるもん」
そうだっただろうか。全く覚えていない。記憶を辿れば、確かにわんわん泣いている弟2人がいるような気はする。
「それは、いや、それも?悪かったな」
斗真が笑った。
「……でも最後にはジュース持ってきてくれてさ『飲め』って言うの。『それだけ泣いたら喉乾いたろう』って。いや、誰のせいっていう」
これも、全く覚えてない。気まずさに片手で顔を覆った。
「そもそもお前たちが謝罪をしないといけないようなことをするのが悪いんだろ」
「ははっ、そうなんだけどさ。……変わってないね、俺たち」
「…………………………」
ずずっと缶コーヒーをすする音が響いた。
「兄ちゃん」
「どうした」
「これからもよろしく」
「……あぁ」
夕焼けに染まった空。
2人で飛行機が遠くへ飛んでいくのを眺めた。
飛行機雲が残らないのを見て、明日は晴れるかな、なんて思った。