不穏
『寂しい思いをさせましたね。すまなかったね』
そう言いながら俺の背を優しく撫でてくれた芹香さん。
斗真と初対面とは思えないほどの仲良くなりっぷりにいじけていた俺の心は、その穏やかな抱擁ですっかり癒されていたーーはずだったのだが。
劣等感の種は、長い時間をかけて栄養を蓄えていたようだ。
その小さなもやもやは日を追うごとに大きくなっていく。
先日の一件以来、今までは気にならなかったことが気になるようになっていた。
具体的に言うと、病院スタッフの態度。
斗真に対するものと比べて、自分に対してはよそよそしいように感じてしまう。
芹香さんの口から斗真の名が出るたびにびくびくしてしまう自分も嫌だ。
「斗真くんは元気?」
そう聞かれると得体の知れないものがざわざわと体中を巡った。
「……元気ですよ。あいつも医者の端くれです。体調管理はしっかりしていますよ」
「あはは!そういうことじゃないって~」
じゃあどういうことですか?
喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
馬鹿げている、弟に対してこんな ーー嫉妬のような感情を持つなんて。
自分の中で鬱々としたものが蓄積されていくのを感じる。発芽した劣等感は、どんどん枝葉を伸ばしていた。
・・・
病院の経営に参加するようになってから、外来にしろ入院にしろ、いわゆる「現場」からはすっかり遠ざかってしまい、医者としての勤務は週1回、以前から担当していた患者さんの対応や軽傷の患者さんを診るのみだった。
「ーーではまた痛くなったら受診してくださいね。お大事に」
「はい。よろしくお願いします」
深々と頭を下げてくださる患者さんに、俺も頭を下げた。診察室の扉が完全に閉まるのを見届けて、ほっと一息つく。
伸びをして、横にいる医師事務補助の男性がパソコンの入力を終えるのを待ち「お疲れ様。お先に」と声をかけ、席を立った。「お疲れ様でした」と少し固い声が追いかけてきた。
入院患者さんの情報を確認しようと、そのまま入院棟へ向かう。ナースステーションに入ると皆が姿勢良くそれぞれの作業に打ち込んでいた。
「お疲れ様です」
「あ、はい、お疲れ様です」
挨拶を交わし、電子カルテを眺めていると聞き慣れた声が聞こえた。
「お疲れ様~」
「斗真先生。お疲れ様です!」
「も〜ほんとに疲れた〜」
「あはは」
場の雰囲気が一気に和んだのを感じる。
皆が斗真を歓迎しているのがわかる。
…………俺のときは?
俺のときは、どうだった?
穏やかな様子で談笑している斗真たちを横目に、ハンマーで殴られたような衝撃に襲われていた。
気にしなくていい。自分はあまり来ないから、親密度に差が出るのは当たり前だ。気にしなくていい…
頭ではそう理解しているのに、沈んでいく気持ちはどうにも止められなかった。
読まなければいけない文字も目を滑っていく。
なんとか自分を奮い立たせカルテの確認を終え、楽しそうな笑い声を背中で聞きながら、逃げるようにその場を後にした。
「湊斗せんせ~~~~!!」
エレベーターを待っていたところで斗真が追いかけてきた。ちょうどエレベーターが来たので一緒に乗り込む。
順に点灯する数字をぼーっと眺めていると「兄ちゃん」と、斗真がポケットから小さな袋を取り出した。
「これ、芹香ねえさんに渡して。欲しがってた限定カラーのネイル」
芹香さんの名前が出てきて一瞬びくっとしたが、斗真はそれには構わず続けた。
「未開封だから安心してって伝えてね」
「……よくわからんが、渡しておく」
「喜んでくれるといいけど。俺芹香ねえさん好きだな~。今度また3人でお茶でもしよう」
「!」
ハッと顔を上げたときにタイミングよくポーンと扉が開き、斗真は「じゃね~」と鼻歌をうたいながら出ていった。
「ーーーーーーーー」
呆然としている俺に構わず、エレベーターの扉が規則正しく閉まった。
渡された小さな瓶が、妙に重たく感じた。
・・・
渡して、と託されたものを捨てるわけにもいかず、夕飯後に芹香さんに渡した。とても喜んでいた。
「これ欲しかったの~~!パソコンの画面で見るより綺麗な色~~!」
「…………………………」
「斗真くんにありがとうって伝えてね。何かお礼したいけど何がいいかな」
「……あいつは人にプレゼントするのが好きですから。多分これからもいろいろ押しつけてくるので、その度にお礼してたら大変なことになりますよ」
「そうなの?」
「そうです。受け取るだけでいいと思います」
「そっか。あんなに美形で明るかったら相当モテそう。人生楽しいだろーなー」
「はは」
俺の前で楽しそうに斗真の話をする芹香さん。
なんなんだ、これは。
どうしてそんなに幸福そうなんだ?
「そうだ、また3人でお茶しましょう」
芹香さんの言葉が、量刑を告げる裁判官の声に聞こえた。
「ーーーーーーえ?」
「この間すごく楽しかったので。またおしゃべりしたいな~と思いまして」
無邪気に笑う芹香さん。
胸の奥で何かがガラガラと音を立てて崩れていった。
全ての音が、景色が、ぐにゃっと歪んでいく。
スロー再生のように重苦しい声が頭に響いた。
『とうま』ーー
『とうませんせい』ーー
『とうまくん』ーー
もう、うんざりだ。
「湊斗さん?」
すっと立ち上がった俺を心配そうに見つめる芹香さん。
「……すみません、仕事が残っていることを思い出しました。病院に戻りますね」
笑ってみせたつもりだけれど、うまくできたかはわからない。
芹香さんの髪をなでて頬にキスを落とし。
俺は部屋を辞した。