利用するつもりの養い子に心を奪われていた冷血大公が、幸せなくちづけを交わすまで[R15 BL]
「あなたを愛しています」
そう告げる君の手の中には何かを飲み干した残骸が握られていた。
「ふぅん、惚れ薬かい?」
空の瓶を取り上げてみれば、そこそこ値が張るはずの魔法薬だった。
わざわざ空瓶を持ったまま、夜更けに私の部屋まで来たということは、コレを飲んだ事を隠す気はないのだろう。
「良い判断だね」
私は小さく頷いて、熱心にこちらを見上げてくる華奢な少年に目を向ける。
「流石私の見込んだ子だ、ラン」
「お褒めの言葉、嬉しゅうございます、閣下」
花が綻ぶように笑うのは、養い子のランだ。
生まれながらの貴族のごとく優雅に振る舞うこの子は、十年前の大飢饉の折に、路傍で行き倒れていたところを拾った平民の子だ。
当時は、目鼻立ちは整っていたものの、骨と皮ばかりに痩せ細った、今にも死にそうな哀れな子供だった。
けれど今や、我が養い子は深窓の貴族令息のような気品あふれる美少年へと成長した。
前皇帝の異母弟であり、大公爵と呼ばれる私の恋人として相応しいほどに。
「皇帝陛下は、寝取り好きの方だからね。さぞ喜ばれるだろうよ」
蔑むように薄く笑って、私は瓶を屑籠に投げ捨てた。パリンと砕けた音がしたが、まぁ使用人が掃除してくれるだろう。
振り返れば、汚れなど目にしたことがなさそうな澄んだ夜明けの色の瞳が目に入る。まろやかな頬やしなやかな肢体にはまだ幼さが残り、こんな子供を後宮に送り出そうとする己に対して、僅かな自己嫌悪を抱いた。けれど、今更そんなことを言っても仕方ない。私には、目的があるのだから。
「後宮入りの準備は整ったかい?」
「はい、侍女長がのちほど閣下にご確認頂きたいとのことでした」
「そうか。……君自身の心の準備はどうだい?覚悟はできたかい?」
なんとも言えない不快感を押し隠して、あえて軽い口調で問うと、ランは意外なことを聞いたかのようにパチリと瞬きをした後で、ふわりと笑った。
「僕の覚悟は、ずっと前から定まっております。ようやっと、閣下のお役に立てると思うと、ただひたすらに嬉しゅうございます」
揺らぎない声音に少しばかり驚いて、真正面から養い子の顔を見ると、ランはあたかも恋するような目を私に向けていた。
「僕は恐れも躊躇もございません。後宮に入るのは、敵の身の内に入ること。このような重大なお役目を任せて下さり、誇らしく嬉しいばかりでございます。僕は、閣下の大望のお役に立てることを心より望んでおりますので」
「……そうか。君を利用しようとする私に対して、忠義なものだ」
皮肉まじりに言えば、ランは何故かふわりと嬉しそうに目を細めて、柔らかな表情で首を振った。
「お優しい閣下、どうかそんな風に考えないで下さいませ」
そっと私の近くまでやってきて、するりとその場に膝をつき、ランは両手で私の手を捧げ持った。そして神に誓言を述べるかのように、私の手を額に押し付けて静かに告げた。
「あのままであれば野垂れ死ぬより他になかった幼い僕を拾い育てて下さったのは、閣下なのです。閣下のお役に立てることこそが、僕の喜びなのですから。どうか……僕の心をお疑い下さいませんように」
顔を上げたランは、まっすぐに私を見た。
己の真心を訴えるかのように。
「閣下の御心のままに、如何様にでも僕をお使い下さいませ」
「ラン……」
私を見つめる濡れた瞳は、忠誠や恩義だけとは思えないほどに、甘く切なく、そして熱い。
ぐっと瞳の奥を覗き込めば、私への欲情すら潜んでいそうな気がして……。
(……馬鹿馬鹿しい)
幼い頃から育ててきた子供に何を考えているのかと、自分の発想に苛立った。
この子は、そんな目的で手元に置いたわけではないのに。
自分の中に生まれた愚かな思考を握り潰し、私はあくまでも『怜悧冷徹な仕事の鬼』と名高い、冷血大公の顔を取り繕った。
「随分と熱い眼差しで、火傷しそうだよ、ラン。なかなか効く薬のようだね」
「…………お恥ずかしゅうございます」
私が揶揄うように言えば、ランは恥じらうように頬を染めて目を伏せる。
まるで本当に私に恋い焦がれているような瞳と仕草にどうしても胸が騒つき、私は己の動揺に戸惑った。
「…………後宮いりは、もう十日後か」
「はい」
親子ほどに歳が離れた子供に見つめられて動揺していたなど信じたくなくて、私は目の前の少年から目を逸らした。内心の揺らぎを押し殺して、私は淡々とした口調で言葉を続ける。
「精一杯、閣下に頂いた役目をつとめさせていただきます」
「まぁ、あまり気負わずとも、君を手に入れただけで陛下は満足されるだろうから」
慎ましやかに頷く養い子のランに、私は皮肉げに口角を引き上げて、首を振った。
「陛下は私のことを大変嫌ってらっしゃるからね。さぞご満悦だと思うよ。憎い叔父の恋人を奪ってやった、とね」
前皇帝アリの異母弟である私は、現皇帝レイの叔父だ。
そして、酷く憎まれている。
異母兄アリの即位時、私はまだ幼く、母の身分も低かったために、当時の帝位争いには関わりがなかった。
けれど長じるにつれて、皇族の中でも群を抜いた有能さを認められ、既にアリには世継ぎのレイがいたにも関わらず、皇太子候補として名を挙げられていた。
レイが立太子してからも、私こそが皇帝となるべきだという声は消えなかった。そしてその声はレイが即位した今もなお、根強く残っている。
彼らの声を抑えるには、レイは愚昧すぎたのだ。
だからレイは私を酷く疎み、嫌っている。
何度も政略で私を陥れようとして失敗し、うまくいかないと考えるや、凶手を送り込んでくるほどには。
「あの惚れ薬の効力は、まぁこの品質なら半年程度だろう。それまでには片をつけるから待っていなさい」
「はい。……その時機をお待ちしております。閣下の計画のお役に立てるよう、精一杯頑張らせて頂きます」
にこりと年相応の笑顔を見せながらも、過剰なほどの決意を漲らせるランに、私は「気負いすぎないように」と何度目かの忠告をする。
「後宮では、むしろ、なるべく目立たぬように心がけなさい。目をつけられると危ないからね」
「はい。仰せの通りに致します」
「よろしい」
素直に頷くランに私は苦笑して、自分を落ち着かせるようにひとつ息を吐く。
「……寝首をかかれる心配なく過ごせるのはあと暫くだ。今のうちに十分体を休めなさい」
ポン、と軽く頭を叩いて、私は熱い瞳から背を向ける。
おかしな考えに取り憑かれる前に。
しかし。
「……どうしたんだい?」
背中から抱きつかれて、一瞬だけ動揺した。
「抱いて下さらないのですか?」
「……なぜ?」
一呼吸の後で、私は微苦笑を浮かべた。困った子供を見るように、つとめて穏やかに言葉を返す。
荒れ狂いそうな内面を押し隠して。
「閨の勉強はもうしただろう?」
「はい、一般的なことは。……でも」
ランはうっとりと私を見つめながら、そっと手を伸ばして抱きついてきた。
酒に酔っているかのような陶然とした表情は、この子を育ててきた十年でも見たことのない、艶めいたものだ。
眼差しに魅入られた私が固まっていた一瞬に、ランはするりと私の夜着の中に手を滑り込ませた。
「ラン?何をするんだい!」
「閣下」
慌てて引き剥がそうとすれば、ランは静かに私を呼んだ。強引さはないけれど、かけらの躊躇いもないランの細い手が、私に触れる。
しっとりと汗の滲んだ肌に、瑞々しい掌が触れた。
「閣下の恋人としてどう振る舞えばよいのか、僕は、何も存じ上げません」
熱帯夜のように熱く潤んだ瞳が、甘くねだる。
「どうか教えて下さいませ」
「……随分と成長したね。素晴らしい誘惑だ。その調子なら、きっと皇帝陛下も籠絡できるだろうよ」
あえて空気を読まず、茶化すように言ったが、ランは動揺もなく、ゆったりと微笑んで私を見つめ続ける。
「僕の全ては、あなたが教えて下さったのです、閣下」
言葉と共にぺったりと重ねられた体から伝わる、上昇したランの体温。
自分とは異なる華奢な肢体、薄い夜着越しに伝わる熱い吐息。
そんなものに興奮してしまいそうになる自分が憎らしい。
どうこの場を切り抜けようかと考えて無言になった私の体の線に、ランは自然に手を添わせる。
そして、情欲を誘い出そうとするように、ゆっくりと腹筋を撫であげた。
「ねぇ、閣下。きちんと僕を、あなたの恋人にして下さいませ」
そぉ、っと小さな手がさりげなく私の太腿に触れる。くすぐるような手つきの愛撫に、表情は変わらずとも、内心の動揺は激しかった。
「……君は私の養い子で、私は養い親だよ。子を抱く親などいないだろう」
「世間では僕はあなたの恋人だと言われておりますよ?そもそも、皇帝陛下は僕が閣下の恋人だと信じて、僕を後宮に召し上げるのでしょう?」
苦し紛れの台詞は、あっさりと論破されてしまった。
論戦は百戦百勝と謳われる鉄壁の冷血大公が聞いて呆れる。
「ラン、しかし……っやめなさい!」
「ふふ、閣下のそんな顔、初めて見ました」
会話の間にも、ランの手はゆるゆると私を煽り続けている。
つい声を上げてしまった私の些細な反応に、ランは嬉しそうに笑って、ますます眼を潤ませ、頬を紅潮させた。
「ラン、やめなさいと……っ」
「何故でございますか?奉仕の技巧は合格を頂いておりますので、閣下には十分に気持ちよくなって頂けるかと」
「それは、そうなのだけどね……っ」
これも私が手配した閨房術の勉強の成果であるのだから喜ぶべきなのだろうが、幼い子供の手練手管に簡単に煽られる、自分の体は憎らしい。
そもそも私は、これまで殺伐とした人生を歩み過ぎて、陰謀術数は得意でも、色恋沙汰の駆け引きや甘い睦言とは縁遠い人間なのだ。
商売女の巧みな閨房術とはまた違う、真心からの熱心な奉仕に、反応してしまうのは仕方のないことであった。
私は、愛のというものに不慣れなのだ。
「何をお迷いなのですか?これは閣下の計画の成功のために、必要なことでございましょう?どうか躊躇わず抱いて下さいませ」
苦虫を噛み潰したような顔をしている私にクスリと笑って、ランはコテンと首を傾げた。
「そうでないと皇帝陛下にバレてしまいますよ?僕は誰の癖のついていない、綺麗なカラダなのだと。……ですから、どうかお願い申し上げます、お優しい閣下。僕にお慈悲を」
余裕ある笑みを浮かべて誘惑するランの愛らしい懇願に、私は降参した。
「……参ったね」
まだ幼い少年の口車に乗って、小さな体を抱え上げると、ドサリと自分も一緒に体を寝台に投げ出す。
「可愛らしい顔をして、まるで夢魔のように見事な誘惑だ」
「閣下のおかげで、最高級の師に教えを受けましたので」
いたずらげに笑うランに苦笑する。
散々閨房術を実地で特訓させたのは私だ。それが必要だ、と言って命じた。
今更私がこの子の純潔を守ろうとして、何の意味があるのだ。しかも十日後には、この子はどのみち皇帝に喰われてしまうというのに。
私の自己満足のために、計画に余計な不安な種を残すのは、ランの言う通り確かによろしくないだろう。
内心でそんな言い訳を自分にしながら、私はしどけなく押し倒されている少年の顔を見下ろした。
「君は本当に見事に育ったね」
「僕は、あなたのお望み通りになれましたか?お役に立てますか?」
「……ああ、もちろん」
悔し紛れの私の台詞に、健気な言葉を返すランに、私は途端に罪悪感が押し寄せる。
乱れる感情を押し殺して、私は小さく唇を覆うように口付けた。
「君は外見も内面もとても美しい。きっと陛下もお気に召すだろうよ」
幼いランを拾った雪の日が、昨日のことのようだ。
何年もかけて教養と立ち居振る舞いを叩き込み、私好みに仕上げた逸材だ。
ひたすら美を磨かせ、処世と社交の術を学ばせ、手練手管を仕込んだ。
百花が繚乱する後宮でもきっと、一際美しく輝くだろう。
「皇帝陛下が、僕に目をつけてくれて良うございました。これでやっと、大恩ある閣下のお役に立てます」
「陛下は、私が嫌いだからね。私のものならば、全てを奪い、壊したがるんだよ」
「では、閣下の計画通りでございますね」
「……そうだね」
その通りだ。
あいつなら私が大切にしているものほど、私から奪おうとするだろうと考えた。
だから、あいつの後宮に送り込むために、私は君を、あたかも掌中の珠のごとく大切に育てたのだ。
誰から見ても明らかに、まるで何よりも愛しているかのように。
「……計画、通りだよ」
愛しているフリのはずだった。
けれど日常的に君を慈しみ愛でるほどに、己の言動に精神が侵されてしまった。
最近では、うっかり本当に君を愛しているかのような気がしてきたところだ。
早めに計画を実行しなくては。
このままでは、間諜なんて危険な真似、させられなくなりそうだ。
「壊されないように、注意なさい。君を私への切り札にしようと考えるならば、殺しはしないと思うけれどね。用心に越したことはないから」
「お心遣い、ありがとう存じます」
本心を隠した部下への指示のような言葉にも、ランは心底嬉しそうに表情を綻ばせた。
(……可哀想な子だ。こんな言葉に喜んで)
私の胸に、なんとも言えない感情が込み上げる。
もどかしさ、切なさ、申し訳なさ、哀れさ……そしておそらく、愛おしさだ。
駒として育てたはずの拾い子に、情けないことに私は随分と肩入れしてしまったようだ。
「もう幾つかの夜を越せば輿入れだ。……それまでに」
自分の感情を切り替えるように、私はいかにも偉そうに、もったいぶって口を開いた。
「陛下をきちんと騙せるように、きちんと私の『愛し方』を覚えておきなさいね。……君は賢い子だから、出来るね?」
「はい、閣下」
素直に頷く君の目には、きちんと愛情と欲情の炎が灯っている。
魔法薬のおかげだろう。
「魔法薬は経費だからね。全部が終わったら君への褒賞に上乗せしておくよ」
「……ありがとう存じます」
自分の感情の揺らぎを誤魔化すように言って、私は綺麗に微笑む君に覆い被さる。
そしてあらんかぎりの情熱で、小さな恋人を愛した。
全てが終われば、この子に自由を与え、私から解放してやらねばならないのだ。
そういう約束で、私は君を拾ったのだから。
「あなたのために、きちんと私はお役に立ちますよ。誰よりも愛しい、私の閣下」
耳元で囁く声に苦笑する。
薬の力も借りて、きちんと私の望む役になりきってくれている。
私よりずっと幼いのに、驚くほど賢くて弁えた子だ。
人の心を持たぬ冷血大公と呼ばれるこの私が、うっかり愛しくなってしまうくらいに。
ランの体は、美しかった。
真っ白な肌が興奮に色づき、夕焼けに染まる。
甘く潤んだ瞳は悦びの涙を零し、夢見るように私を見た。
細い腕が縋るように私の背中に回され、離れまいと言うようにきつくしがみつく。
「閣下……っ」
まるでそれしか縋るものがないかのように、ランはただひたすらに私の名を呼んだ。
最初に見せた余裕が嘘のように、ランは容易に乱れる。けれど、快楽に怯えるかのように身を仰け反らせながらも、ランはこの情交のひとつひとつを忘れまいとするかのように、食らいついてきた。
私から与えられる愛撫も言葉も、私が見せる表情ひとつ見逃すまいと、快楽のたびにキュッと閉じそうになる目を必死に開けていた。
この情交を、記憶に刻みつけようとでもするかのように。
「あぁ、閣下……愛しています!愛しております、あなたを!」
「……っ、ランッ」
悲鳴のような声が綴るのは、私への愛の言葉だ。快楽に溺れながらも叫ばれるそれは、神への懇願か、もしくは宣誓にも似ていた。
まるでランの本心のように思える言葉に、「それは惚れ薬のせいだ」と理解していながらも、私はどうしようもなく煽られた。
「ラン……ラン、可愛いラン、私のラン……」
私も熱心に何度も名前を呼び、渇いた獣のようにその肌を舐め、目尻に溜まる涙を吸いとった。
「……ラン」
私は万感の思いを込めて、ランの細い体を抱きしめる。
どれほど抱いても飽きることはなく、抱き足りない。
日頃、欲望の発散のために呼び寄せる商売女を抱く時とは比べ物にならないほど昂揚する。いまや、私は目の前の白い体にのめり込んでいることを自覚した。
あの乱暴でがさつな皇帝が、少し腹を立てて力を込めたら、ポキリと折れてしまいそうな細い首を、下からすぅっと舐め上げる。
巨漢の男にのし掛かられたら潰れてしまいそうな華奢な肢体を、指と唇で隅々まで大切に愛でる。
ランの体は、どこもかしこもが美しく、そして気の狂いそうになるほどに甘やかだった。
(この子を、私はあの愚かな男の後宮に送り込むのか)
この手の中に隠してしまいたい、そう考えた自分に愕然とした。
私はそのためにこの子を育ててきたというのに。
(私は、愚かだな……)
綺麗な耳朶、形の良い額、長いまつ毛、まろやかな頬、優美な紅唇、すらりと伸びた手足、曇りのない澄んだ瞳と、そして私を呼ぶ涼やかな声。
ランの全てが私を惹きつけ、魅了し、惑わせた。
「ラン……可愛い私の拾い子……」
「かっか……」
ぼんやりとした焦点の合わない目で、ゆっくりと私を見つけて、さも幸福そうに笑むランに、私は稲妻に打たれたような衝撃を受けた。
(あぁ、そうか)
私にとってランは、まさしく掌中の珠と言うべき存在なのだ。
そのことを私は、この時になって痛いほどに理解した。
そして同時に、全てが今更だということも理解していた。
「……ラン、君にはもう少し、『恋人』としての勉強が必要だね。後宮に入るまでの間は、私と閨を共になさい」
「はい、閣下。嬉しゅうございます」
私の身勝手な言葉にランは従順に頷き、嬉しそうに笑って、すぅっと目を閉じた。
「……あぁ、そうだ。皇帝をきちんと騙すためには、やはりきちんと『恋人として振る舞う』ための勉強が必要だ。あと十日、しっかりと学びなさい」
私はもっともらしく頷き、誰にともなく言い訳を呟く。そして、ランの美しい髪の一房に口づけた。
「おやすみ、ラン。……この十日間だけ、恋人の君を愛しているよ」
まるで、大人が子供に繰り返し言い聞かせるように、何度も『この関係は十日間だけ』と口にする。疲れ果てて眠りに落ちたランに聞こえていないことなど分かっていた。あれは、自分の中に潜む、我儘な子供に対する言葉だった。
それから十日間。
私は、これは恋人との別れを惜しむ振りだと、皇帝を完璧に騙すために必要なのだと言い張って、初めて公務を休み、溺れるようにランを抱いた。
***
「全てが終わって、世が落ち着いたら、君は故郷へ帰るのだろう?」
後宮に送り込む前夜、私は腕の中のランに問うた。
「……そうですね」
少しの躊躇いの後で頷くランは、悲しげな光を浮かべている。
「両親の墓に参ってから、ゆっくり先のことを考えようかと」
先の飢饉のせいで、この子の身寄りはもういないのだと思い出す。静かに目を伏せた君の頭をそっと撫でて、私はぽつりと呟いた。
「そうか……寂しくなるね」
「え?」
驚いて顔を上げた君に微笑んで、私は優しく告げた。
「全てが終われば君は自由だ。穏やかな暮らしが出来るように祈っている。元気で暮らしなさい」
これまでこんなに柔らかく、この子に話しかけたことはなかっただろう。
人前ではあからさまに甘やかして、けれど人の目がない時は、いつも厳しく接していた。限られた時間でこの子になるべく多くのことを教え、少しでも多くの技を仕込もうと、そればかりを考えて。
哀れなことをしたと思う。
ほんの小さな幼子だったのに。
最後の夜だからか、つい心が溢れてしまった。
「今更だけれど、すまなかった。私は君の人生を酷く乱してしまったね」
「そんな!あなたのお陰で僕は生きてこれたのです」
慌てて否定する君に苦笑する。
確かに衣食住は与えた。でもそれ以上に苦しくて辛い日々だったはずだ。ただの美しいだけの平民が、皇帝の後宮に入れるようになるのは並大抵の努力ではなかったのだから。
私を見つめる愛情に溢れた優しい瞳が苦しい。
冷血大公と呼ばれる私は持ち合わせていないはずの無意味な感情……罪悪感やら憐憫やら後悔とかいう名の苦い感情が、じわじわとこみあげる。
「君はきっと優しい人生を歩めるよ。とても素敵な子に育ったからね」
明日後宮などという魑魅魍魎の跋扈する魔窟に放り込もうとしているくせに、何を言っているのだろうか。そう自分を嗤いながら、私は決意を込めて呟いた。
「後宮は危険な場所だが、私の力の及ぶ限り君を守ろう。君を害する者から」
「嬉しゅうございます。けれどどうか、僕などのために、ご無理はなさらないで下さいね」
心配そうな表情と私を思いやる言葉に、私はくすっと笑った。
「平気だよ、皇族たる私に文句を言えるのは皇帝くらいだ。それに、『最愛の恋人』を守るために全力を尽くすのは当然のことだからね。皇帝を騙すためにも有意義だ」
「……そうですか。それならば、ようございました」
ふわりと微笑を浮かべた顔が、どこか寂しげで、理由も分からず胸が苦しくなる。
まだ幼いとも言える子供の表情ではない。
悲しみも苦しみも知り尽くした者が、かすかな幸せを噛み締めるかのような、大人びた顔だ。
普通ならまだ親が恋しい年頃なのに、私はこの子を悪意渦巻く後宮内に放り込み、挙句の果てに間諜なんて危険な真似をさせようとしているのだ。今更ながらに自分の非道さを自嘲する。
「大変な役を任せてすまないね」
今更で無意味な懺悔の言葉にゆるく首を振るランは、本当に優しい子だ。
そっと額に口づけて、私は祈るように囁いた。
「君はただ与えた役割を果たすことだけを考えなさい。無理はしなくていい。自分の身の安全を第一にしなさい」
私の珍しいまっすぐな優しさに困惑する気配の後で、控えめに頷く気配がした。愛に慣れない子供の憐れさに胸が締め付けられる。
「蜂起する直前に、君は死んだことにして後宮から出してあげるから。その時に、これから生きるのに十分な褒賞と馬を渡す。そのまま逃げなさい」
「えっ」
初めて告げた『未来の指示』に、ランは目を見開いて飛び起きた。一人で放り出されることに困惑し、心細さを隠せないランに、私は安心させるように微笑む。
「君は馬に乗れるだろう?教師からは乗馬も上手だと聞いたよ?」
揶揄うように言えば、ランは戸惑いの中で頷く。
「乗れ、ます、けど…………じゃあ、閣下にはもう、お会い出来ないのですか?」
そして問われた言葉に、私は小さな体を抱きしめて、そっと耳元に囁いた。
「私と関わりがあると危険だからね。後宮から出た君に、私はもう二度と君には関わらないと誓うよ」
「そんな……」
ポロポロと落ちる涙を指で拭って、私は柄にもなくヨシヨシと小さな頭を撫でる。まるで気心の知れた家族か、もしくは恋人のように。
「大丈夫、今君が寂しいとか悲しいとか思ってしまうのは、惚れ薬のせいで君が私を好きだからだ。全てが終わる頃には、ただの怖くて厳しいだけの他人に戻っているよ。もうその頃には私に会いたいなんて思いやしない。……君はちゃんと、優しい道を生きなさい」
言い聞かせるように囁いて、私は笑う。
「自由になった瞬間から、私は君を守れなくなるが……私の可愛い拾い子は賢いから、一人でも大丈夫だろう?」
そう育てたはずだよ、と見つめれば、君は何か言おうと口を開き、閉ざした。
「はい……」
感情を押し殺した複雑な目で唇を噛み締めて、君は綺麗に笑んだ。
「褒美に一つ追加しても良いですか?」
「あぁ、もちろん」
珍しい、いや、初めてのランからのおねだりに、私は内容も聞かずに頷いた。私の了承に慎ましく「ありがとう存じます」と微笑んで、ランはひとつのお願いを口にした。
「忘れ薬が欲しいのです。惚れ薬の効果が切れなくて、あなたを忘れられなかった時のために」
「ああ、わかったよ」
効果がちゃんと切れないと大変だからね、ずっと私を想ったまま生きていくことになってしまう。
茶化すように言えば、君は泣くのを我慢しているような顔で、「そうですね」と笑った。
***
ランの死を聞いたのは、私が皇帝を弑し、玉座に就いて、半年も経ってからだった。
「……え?」
信じられなかった。
たしかにランの死は、後宮に記録されていた。
けれど、それはそう仕組んだからだ。彼はうまく逃げ出せたのだと、そう思っていたのに。
「なぜだ!?」
普段は声を荒げぬ私の怒声に、側仕えの者が震え上がる。しかし、私にランの死を今更伝えた目の前の男は静かに返した。
「私もその場には居合わせておりませんので、伝聞でしかありませんが……前皇帝の前で、あなたに操を立てて、自害したとのことです」
「馬鹿な!何のために!?」
バンっと机を叩けば、書類が何枚か床に落ちた。怯えて震えていた側仕えの者は皆、既に男によって下がらされている。
激昂する私と面と向かって向き合いながらも顔色ひとつ変えず、淡々と話す男ーー乳兄弟であり、戦場では背中を預けてきた腹心の現宰相は、いつも通り静かな表情で私を見た。
「お前……まさか、あの子に死ぬように命じたのか?」
常に私と、そしてこの国のためだけを考えて動く男だ。それくらいはしかねない。
私がギリギリと奥歯を噛み締めながら睨みつけると、宰相は「いえ」と短く否定した。
「私はただ、少々助言を申し上げただけです」
「何をだ!あの子に何を言った!?」
私の怒りを全く恐れぬ冷静な声が、淡々と告げる。己の行いは正しかったと、疑いもしない様子で。
「君の存在は、あの方の弱みとなりうる。……畏れ多くもあの方を愛しているのだと言うのならば、きちんとその身を処すように、と」
「なっ!?」
思いもかけない言葉に、私は激しく混乱した。
宰相の言葉は『私を愛しているのならば死ね』ということだ。
「あの子が、その言葉に従ったというのか!?」
惚れ薬の効力など、とうに切れていた時期なのに。
「さぁ、私に彼の本心など分かりません。分かるのは、事実だけです」
宰相は満足げに笑って、頷いた。
「さすがは我があるじ。あなたの育てた子供は、平民の孤児にしては随分と立派に育ったようですね。最高の時機に最良の状況下で死んでくれました」
普段は笑みなど見せない男が、満足そうに笑う様を、私は呆然と見ていた。男が語るあの子の最期を、私は言葉もなく聞く。
「あの子供をあなたへの人質としようと、連れて逃げようとしたあの愚帝の手を振り解き、彼はあなたの名を唱え、その御代に栄えあれと笑って胸に短剣を突き刺したそうです。彼が皇帝を後宮に留めてくれたおかげで、その混乱に乗じて、我々は前皇帝を追い詰めることができたのですから、子供ながら見事な功績です。天晴というものでしょう」
朗々と語られても、私はただ黙っているしかない。珍しく本心から褒め称えているらしい男の言葉も、私の耳には入らない。
「なぜ……自害など」
呆然として同じような台詞を繰り返すばかりの私に、男はつまらなさそうに口を開いた。
「なぜって、そりゃあ、愛していたからでしょう」
「あ、い……だと……?」
宰相の言葉を理解できない私が顔を歪めて頭を抱えているのを、うんざりしたように眺めて、宰相は言った。
「それくらいは理解してあげて下さい、あの子も浮かばれませんよ」
「だが……ランが飲んだ惚れ薬は……もう切れていたはずで……」
「惚れ薬?あの子が?」
呆れた顔の宰相が、完全に顔色を失っている私に「やれやれ」と呟いて首を振る。
「あの子が、そんな高価なものを自力で手に入れられる訳がないでしょうが。自由になるような手持ちの金もないのに」
私の鈍感さと無関心を非難するかのように宰相はため息をつく。
「よしんば手に入れていたとしても、彼が死んだのは惚れ薬の力などではなく、きちんとあなたへ捧げた忠愛ですよ。それは受け取ってあげて下さい」
言い切ると、執務机にガチャリと小さな袋を置いた。無造作に置かれたそれは、上等だが質素な作りで、小さく旅の無事を祈る刺繍が入っている。ひとりで城から放り出されるあの子のために私が用意したものだった。
「こちらはあの子が遺した品と、あの子に渡せなかった忘れ薬です。ご自由にお使い下さい」
「え?」
戸惑う私に、男は笑って言った。
「あの子を忘れたいのならばどうぞ」
「……お前ッ」
こちらの感情を逆撫でするような言い方に、苛立つ。試すような笑みが憎らしい。この男はあの子の感情も、あの子の死も、全部知っていて黙っていたのだ。気づかなかった私が悪いと分かっていても、怒りは抑えられなかった。
「いやぁ、この薬を所望されたと聞いた時は、耳を疑いましたね。でも、あなたがさっぱり理解されていないものだから、あの子が気の毒になりましたよ」
心底同情しました、と言いながらも事態を面白がるような軽薄さで、目の前の男は淡々と私を愚弄する。
「まったくあなたは罪深いお方だ。鈍感にも程があります。でもまぁ、遅まきながらご理解なさいましたか?あの子の素晴らしく情熱的な愛の告白を」
芝居がかった言い方で語られる言葉に、苛立ちもあらわに私は吐き捨てた。
「何が素晴らしいと言うんだい?忘れたいと望まれて……!」
「おや、まだ分かっていないのですか」
馬鹿にするように言って、宰相は疲れたように首を振った。あの子への憐憫と私への非難を瞳に浮かべて、宰相は私を真正面から見て言った。
「忘れたいほど愛されていたなんて、なかなか素敵ではないですか?……だって、覚えていたら生きていけないくらい、愛していたってことでしょう?」
「……っ、な」
言葉もなく、空気を求めて喘ぐように口をはくはくとさせる私を見て、やっと理解したと考えたのか、宰相は満足げに頷いた。
「では、御前失礼いたします、陛下。良い夜を」
私を揶揄うように笑いながら、男は退去の礼をして去っていった。たった一人の部屋で私は呆然と薬を見つめた。
「……君は、惚れ薬を、飲んでいたのだろう?」
記憶の中の君に問う。
熱く潤んだ瞳で、私を見つめていた君に。震える声で、まっすぐ愛を告げていた君に。本物の恋人として振る舞うために、私に愛されたいと手を伸ばした君に。
「……この薬を私に遺したのは、忘れろということかい?」
私の育てた賢い拾い子ならば、それくらい考えていただろう。自分の死後、この薬が私の元に届けられるだろうと分かっていただろう。
「忘れないと生きていけないくらい愛していたということ、か…………なるほどね」
苦笑しながら薬の瓶を手に取り、中身を窓から外に捨てた。
「馬鹿な子だね……それに随分と図々しい子だ。大丈夫だよ。私はそんなに君のことを愛していないから平気だよ」
優しいあの子はきっと自分の死を私に気に病んでなど欲しくなくて、さっさと忘れてくれと願ったのだろう。
あの子はよく言っていた。
自分のような人間はいくらでもいる。
関わらなければ知らないだけで、いつだってあちらこちらで罪のない血が無駄に流れているのだ、と。
この薬は彼からの伝言なのだろう。
自分ひとりの死など気にしないでくれと。
拾い子の死など気に病まず、前だけを向いてこの国を導いてくれと。
そんな悲しくて温かい意図だったんだろう。
でも私は、そんな優しすぎる気遣いには気づかないふりをする。
「心配しなくていいよ、ラン。……私は、君を忘れなくても生きていけるからね」
君を忘れずに、きちんと生きていけるから。
私に、忘れ薬はいらないのだ。
***
「いやぁ、ほんと良い時代になったわ」
「昔のことが信じられんなぁ」
国の外れにあるのどかな村の、真っ青な空の下。
呑気な顔の農民達が茶を飲みながら、楽しそうに昼飯を食べている。
広々とした田畑は色鮮やかに、実りの季節を謳歌していた。
「精が出ますね」
大樹の木陰で憩いつつ、休んでいた農夫達は、頭の上から聞こえてきた澄んだ声に顔を上げた。
「お、先生じゃないか」
「村長の娘さんのところからの帰り道かい?」
「ええ」
土手の上を歩いているのは、質素だが清潔感のある装いに身を包んだ、農村には似つかわしくない麗人だ。農夫達に『先生』と呼ばれる青年は、柔らかく笑みながら、日差し除けの帽子を後ろにずらして汗を拭う男たちに挨拶した。
「先日は美味しい野菜や果物を、どうもありがとうございました」
「なに、気にするな。今年は豊作で、たくさん採れたからな、おかぁが持ってけ持ってけってうるさいんだ」
壮年の男が短髪をかき上げながら豪快に笑うと、横から小柄な男もケラケラと笑い声を上げながら頷く。
「うちも、しょっちゅう母ちゃんが『先生んとこにお裾分けしてこい』って言うぞ。先生はエエ男だからなぁ」
「うちは五歳の娘が『このお花、先生にあげたい!』ばっかりだ。この女心泥棒め!」
次々と向けられる温かなからかいに、青年は苦笑して肩をすくめる。
「よそ者が珍しいだけですよ」
「んなことあるかい!」
「そうだそうだ、謙遜も過ぎると嫌味だぞ?」
「ははは」
数人の農夫達が皆からからと気持ちの良い笑い声を立てると、鳥達が笑い声の大きさに驚いて一斉に大樹の上から飛び上がった。
「おぉ、びっくりした」
ピヨピヨピヨ、ピヨピヨピヨ
青年達が目を見開いて上空を見上げると、小鳥達はうるさい人間達に向けて非難がましく鳴いてから、土手に並ぶ木々の方へと飛び移っていく。
「ははっ、鳥にうるせぇって叱られたや」
「笑いすぎたなぁ」
「そりゃ先生が面白えから仕方ねぇ」
「笑いすぎですよ、皆さん……」
居た堪れなさそうな顔で、困ったように小さくなる青年の世慣れていない振る舞いに、農作業で鍛えられた男たちはまた「はっはっは!」と腹の底から大笑いする。
「まぁ、冗談はそんなもんにして。……ワシらも、感謝してるんだよ」
ひとしきり若い青年を弄った後。
柔らかい目で青年を見て、そこにいた一番年上の男が口を開いた。
「子供達に文字や計算を教えてもらえて、ありがたいと思ってるんだ。だから、あんまり気にせんで貰ってくれや、先生」
「そうだよ、先生の塾のおかげで、足が悪くて農作業ができない息子も、隣町で商人の見習いになれたんだ。ありがとうな」
心のこもった感謝の言葉に、青年は恥ずかしげに頬を染め、嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ、嬉しいお言葉です。ありがとうございます」
「……ほんと、綺麗な顔をしてらっしゃるなぁ、先生は」
青年の天女もかくやという微笑に、一瞬呑まれて惚けていた農夫達は、しばらくしてから呆れたように言った。
「そういやぁ、先生、あんた、村長にとの婿にならんかって言われてるんだろう?」
「あー、はい。昨日言われました……よくご存知で」
朝の話が夕暮れには村の外れまで広まる、この狭い村の情報網に苦笑しながら、青年は頷く。
「良い話じゃあないかぁ。なんで受けないんだ?」
「もういい年だろうに、なんでまた」
農村では、十代半ばで身を固める者が多い。
「先生は、もう子供の一人や二人いても良い年頃だろう」とお節介を焼く親切な村人達に慣れている青年は、いつものように柔らかく断りの文句を口にした。
「僕は、心を捧げた方がおりますのでね」
「うーん、先生はいつもそれだねぇ」
断られることにも慣れている農夫達は、気にする様子もなく首を傾げる。
これほど美人で気立が良くて博識で、ついでに多分良いお家の出だろうと思われる気品に満ちた青年が、若い身空で生涯を捧げようと思うのは、一体どんな相手なのだ、と。
「そりゃあ都のおひとかい」
「都人には敵わんだろうけどね。村長の娘もいい子だよ?まぁ、アンタほど綺麗じゃないけどね」
茶々を入れるのが好きなお調子者の男が、若い娘が聞いたら泣き出しそうな台詞を言えば、他の者たちもケラケラと笑いながら同意する。
「そりゃそうだ!」
「男でも女でも、先生より綺麗なひとはなかなかいないだろうさ」
「そうそう!帝様の後宮にだって、いやしないさ!」
「前の帝様は、美人なら男も女も喰っちまったって言うからなぁ。先生みたいな美人が後宮にいたら大変だったろうなぁ」
「いやいや、いまの帝様だって、先生みたいな美人がいたらきっとお喜びになるだろうよ」
「……いえ、そんな」
田舎者達の飾り気のない心からの賛辞に、青年は居心地の悪そうな顔で否定する。
「……きっと後宮には、僕などおよびもつかない色とりどりの花が咲き乱れていることでしょう。董が立った僕のような雑草は、景観を損なうと引っこ抜かれて捨てられてしまいますよ」
淡々と謙遜する青年の声には、わずかに陰りがある。けれど、朴訥な農夫たちは気にすることなく、知る限りの言葉で青年の美貌を讃えた。
「んなことないだろうよ、先生は天女みたいだからな!」
「そこらのお貴族様に見つかって、うっかり攫われねぇかって心配してるくらいさ!」
「帝様の後宮だろうと一番綺麗だと思うぞ?わしらは後宮の中なんぞ見たことがないけどな!」
あっはっは、と何度目かの大笑いの後で、口数少なく複雑そうな顔をしている青年の様子に、農夫たちは「やりすぎた」と反省した。ちらちらと視線を交わす男たちに呆れた目を向けながら、年嵩の農夫が静かに口を開いた。
「まぁ、そもそも先生は立派な男だ。お前らの言いたいことは分かるが、先生への賛辞に相応しい文句でもなかったわなあ」
ちょっと失礼な発言も混ざっていたことを示唆されて、先ほどまでペラペラと喋っていたお調子者が慌てて頭を下げた。
「違いねぇや。許せよ先生、純粋に褒め言葉のつもりだったんだ!」
「いえ、そんな、怒っているわけでは……」
常に穏やかな青年だが、珍しく気分を損ねたかと、気のいい農夫たちは次々と、慌てた様子で手を合わせて謝る。
自分より年上の男に頭を下げられて困惑する青年を見て、年嵩の男は目を細めて呵呵と笑った。
「はっはっは!まぁ、とりあえず先生は、理想を下げて、さっさと結婚するがいいさ」
「村長の娘が醜女みたいな言い方よせや、この村一の別嬪だぞ?」
「そうだそうだ!だがまぁ、先生が美人すぎるのが全部悪いな!」
悪気の欠片もない農夫たちが、けろりとした顔で肩を揺らして笑い合う。青年は苦笑して、眉を下げながら視線を逸らした。そして、都のある方角に顔を向けた青年は、痛みを堪えるような、懐かしむような目でぼんやりと眺める。
「……まぁ、いつか。忘れることが出来たら考えます。当分は無理でしょうけれど」
あっさりと、けれどキッパリと言い切る青年に、農夫達は苦笑いを浮かべる。
「まぁ、今は良いご時世だからな。ゆっくり考えるがいいさ」
「昔はみんなが生き急いでいたけどなぁ」
しみじみとした発言に、苦い声で過去を振り返る男の声が被さる。農夫たちへと視線を戻した青年は、無言で話の続きを待った。
「そうだなぁ……あの頃は明日が見えなかったからなぁ」
「家族揃って冬を越せることなんて考えられんかった」
「うちは、上から三人の子はみんな冬が越せなかったよ」
次々と悲しげな言葉が重なる。今は陽気で日々楽しげなこの村も、かつては悲痛な嘆きに満ちた場所だったのだ。青年は傷ついた顔で眉を寄せ、唇を噛んで目を伏せた。
「でもなぁ、今は良い」
年嵩の男ののんびりとした声が、暗い空気を払う。男はゆっくりと穏やかな風景を見回してから、長年の農作業で日に焼けた皺の多い顔をくしゃりと崩して笑った。
「帝様が変わってから、本当に良い時代だよ。今は税の取り立てに怯え、冬を恐れなくて良い」
「そうだなぁ。明日の不安がなく、幸せに暮らせる」
「新しい帝様のおかげだぁなぁ」
「俺たちゃあ、ついてるぜ!」
笑顔の戻った者たち達の前向きな言葉に、青年は目を丸くした後で、嬉しそうに微笑んだ。
「……そうですね。今は、良い時代です」
噛み締めるように言う青年に、農夫達は「おぉ、そうだなぁ」と頷き破顔する。そしてまた、和気藹々と噂話に興じ始めた。
「悪い貴族はみんな、帝様が倒しちまったしなぁ」
「ここ数年で、良い貴族のお家から嫁がれたお后様との間に、何人もお子様がお生まれだしな。良いことばっかりだぁ」
「都に出稼ぎに行った奴らの話だと、皇子様たちも健やかにお育ちだそうだぞ。時々祭りの時にお顔を観れるらしい」
「あの帝様のお子様なら、きっとそんなひどいことはなさるまいよ」
「そうだそうだ、未来は明るいぞぉ!」
「あっはっは」
調子の良い掛け声にみんなが笑い合い、そしてそれぞれが昼食を片付け始める。
「さてと、作業に戻るかぁ」
「先生、引き止めて悪かったな」
「いえ、こちらこそ」
気のいい農夫達の言葉を合図に、青年も地面に置いていた荷物を肩にかけ直し、にこりと微笑む。
「僕も楽しい時間が過ごせました。ありがとうございました」
***
農夫達と手を振って別れた後、僕はいつものように家路を急いだ。
この村では、当然だが自分のことは何から何まで自分でしなければならない。今日は朝から村長の家に呼ばれてしまったために、洗濯も食事の用意も出来ていないのだ。早く帰って取り掛からなければ。
五年前に移住したこの村は、気のいい村人が多い。よそ者にも親切でとても住みやすく、この村を紹介してくれた相手には今も心から感謝している。
村人たちは、外からやってきた、なよなよした使えない痩せっぽっちにも、笑って仕事をくれた。今では「先生」なんて呼び慕ってくれる。
「幸せ、だね」
ポツリと呟いて苦笑した。まるで自分に言い聞かせるように響いたからだ。
「……後宮、か」
きっと今上帝の後宮には、柔らかく美しい花が、たくさん咲き誇っていることだろう。
その光景を思い浮かべようとして、ずきりと胸が痛む。
一つ首を振り、愚かなことだと自嘲した。
どこまでも気高く美しいあの人が、相応しい場所で、正しく振る舞っているのだ。
喜ばしいことのはずなのに。
なぜ僕は、喜べないのだろうか。
「きっともう、あの人は、僕のことなんか忘れている」
あの人の肩には何千何万の民の生活とこの国の未来がかかっているのだ。道端で拾った孤児のことなど、そしてその孤児を死なせてしまったことなど、さっさと忘れてしまうべきだ。そう思った。だから、僕は。
「ーーっ!」
物思いに耽っていたら、背後でざわりと風が騒いだ。
首を傾げて周囲を見回しても、特に普段と変わりはない。村はずれの我が家はもう目の前で、朝出かけた時のままの姿だ。
「……特に何もない、よね」
気のせいだ、と思いながらも、違和感を消し去れない。僕の何かおかしいという勘は、残念なことに大抵当たる。後宮で食事に毒を混ぜ込まれた時も、使用人に間者が紛れ込んでいた時も、僕はこの勘のおかげで難を逃れたのだ。ただ、不思議なのは、……危機感を感じないこと。
「いや。考えるのはやめよう。ここは都ではないのだから、何も起きるはずはない」
そう自分に言い聞かせて、僕は胸のざわつきを振り切るように後ろを向く。申し訳程度につけられた鍵を開けて、息を吐く。泥棒もいない田舎の村で何が起こるというのだ。不安なのか、それとも平穏に飽いて、何かを期待しているのか?
「馬鹿馬鹿しい。もしそうだとしたら、この平和を作り上げたあの人に、申し訳が立たないじゃないか」
愚かな自分に怒りすら感じる。もう考えるのはやめよう。夕食も作らねばならないし、今日はまだやることがたくさんあるのだから。
「穏やかな日常の尊さを、忘れないようにしないと」
自分に言い聞かせながら、さっさと家に入ってしまおうとした、その時。
「ーーーーンっ、ーーランッ」
「……え?」
どこかから、僕の名前が聞こえた気がして、息を呑む。慌てて振り返って、僕は必死に声の主を探した。
聞こえたのだ。
呼ばれるはずのない僕の名前が。
あの時、胸を刺し貫いて、「僕」が死んだ時に。
捨てたはずの、僕の名前が。
必死に目を凝らしていると、都へと繋がる山道から、数頭の馬が姿を現した。馬の背は高く、こんな田舎町にはありえない、立派な軍馬のようだった。
「……え?」
戸惑っているうちに、その馬の中の一頭だけが、勢いよくこちらに駆けてきた。真っ黒な軍馬を見事に駆けさせるのは、背の高い軍服の男だ。
「そ、んな」
見覚えのある背格好、美しく馬を走らせる人馬一体の姿。
僕はバクバクと何かを予感して飛び跳ねる心臓を抑えようと、胸に手を当てた。そんな馬鹿な、ありえない。でも、あの人は、まさか。
「……やぁ、ラン」
僕の目の前で止まった黒馬。
その馬上の人に目を奪われ、僕は呼吸すらも忘れた。
「やっと見つけたよ」
「…………閣、下」
懐かしすぎる顔が浮かべた優しい笑みに、これは死の間際に見る夢なのかもしれない、と逃避じみたことを考えながら、僕は呆然と立ち尽くした。
呆然とする僕に笑いかけ、僕が焦がれ続けている人は、ひらりと馬から飛び降りた。
「久しいね。元気そうで何よりだ」
嬉しそうに破顔する今上帝に、僕は動揺しながらも跪拝の礼を取ろうとした。しかし、地に足をつく前に腕を取られて、本人に止められてしまった。
「必要ない、今はお忍びだからね」
視察にきた官吏のふりをしているんだ、と笑う現皇帝に、僕は喘ぐように問うた。
「どうして、ここが」
「私に嘘をついていた裏切り者が教えてくれたんだ。不穏分子は全てが落ち着き、国も安定し、世継ぎも生まれたから『そろそろ良いでしょう』と、ふざけたことを言ってね。……それまで僕は、君は死んだと聞かされていた」
どこか情けなさそうな顔で、賢帝と名高い彼は言う。
「会いに来るのが遅くなって、すまなかったね。刺されたなんて、さぞ痛かったろう」
まるで、可愛がっている養い子に言うように、いたわしげに。離れていた年月がなかったかのように、親しげに。
「傷は、まだ痛むかい?」
僕の困惑も動揺も頓着せず、彼は眉を下げて首を傾げた。
「……い、え。もう、すっかり良くなっておりますので」
「そうかい。あまり無理をしてはいけないよ」
「……はい、ありがとうございます」
気遣わしげな言葉に僕はやっと苦笑する。この人は、昔から変わらない。彼は他人の、それも平民の孤児の痛みにすら、心を痛めるのだ。
「なんにせよ、君が元気そうでよかった」
路傍の石にすら価値の劣る僕の無事を、彼はさも嬉しそうに、顔を綻ばせて喜ぶ。怜悧冷徹な冷血大公と呼ばれていた日々が嘘のように。
そうだ、この人は元から優しいお方なのだ。
だからこそ、僕はあの時、きちんと消えなければならなかったのだ。
この人の憂いとならないために。
良き皇帝として立つべきこの人の足枷とならないために。
大公爵の恋人であった『僕』という存在は、死なねばならなかったのだから。
それに。
「……ご側近の方の言葉は、嘘ではございません。僕は、一度死んだのです」
「え?」
戸惑う彼に苦笑を返し、僕はぽつりぽつりと『あの日』のことを語った。
「あの日、後宮に立て籠ったレイ様を討ち、城を制圧されたご側近の方……宰相様が虫の息だった僕を連れ帰り、看病して下さりました。半年ほどして、やっと話せるところまで回復したのですが……けれど僕は、過去のことを何もかも忘れてしまっていたのです」
自嘲するように笑って、僕は彼を見上げた。『僕』は本当に、一度死んだのだ。
「忘れ薬も飲んでいないのに、流した血とともに、記憶も流れ出してしまったかのように」
せっかく高価な薬を取り寄せて頂いたのに、必要ありませんでしたね、と肩をすくめてみせたが、彼は表情を緩めることもなく、真剣な顔で僕の話を聞いている。離れてからの、僕の生活を。
「……体が回復してからは、この村に移り住みました。ご側近の方のご厚意で住処と仕事を用意して頂けまして、最初は老婆や子供に混じって糸紡ぎをしておりました」
大の男が情けないことで、と笑ってみせても、彼は穏やかな表情を変えずに笑む。
「君は器用だし、仕事も丁寧だから、喜ばれたろうね」
「い、え、それほどでも……」
かつての記憶にもないほどに、あまりに優しく接されるから、僕は落ち着かなくて、みっともなく視線を彷徨わせてしまう。
「今は村で家庭教師をしているんだって聞いたよ」
淡々とした、けれど情愛に満ちた温かい声が僕を包み込む。
「君はさぞ優秀な教師だろうねぇ」
「ふふっ、そんな……それに、最初はただの穀潰しでしたし」
「そうか。苦労して……いや、この地に受け入れてもらうために、頑張ったのだね」
「かっ、か……」
ふざけて誤魔化そうとしても、何を言っても柔らかく頷く彼のせいで、僕は潤む瞳を隠すために俯くしかなくなってしまう。
この数年、胸にポカリと空いていた穴が静かに満たされてしまう。平穏だけれど埋まらなかった悲しみの闇が、穏やかに晴れてしまう。彼の声は、昔から僕の全てを簡単に癒してしまうのだ。
「……このしずかな村で、数年かけて、少しずつ思い出しました」
「……そうか。動揺は、しなかったかい?」
「はい」
優しく問いかける声に、僕はなんとか微笑を浮かべて答えることができた。動揺はしたけれど、でも、本当に絶望はしなかったのだ。
「あぁ、そうか、と妙に納得しました。村人達は、僕のことをどこぞの貴族の落胤だと思っているみたいですけれど、元々根っからの平民なのだな、と。馴染むのが早かったはずです」
「……そうか」
きっと、僕に辛い過去を背負わせた、と彼は思っていたのだろう。僕が本気でそう言っているのだと分かると、安堵したように目を細めた。
「今、幸せかい?」
「……はい。しあわせ、です」
静かな問いかけに、僕は少し躊躇い、けれど小さく頷いた。
正直、『幸せ』かは分からない。僕は彼の言う『幸せ』というものが、どういう定義なのか分からないから。
けれど、もし満ち足りてはいることが幸せだと言うのならば、僕はずっと『幸せ』だ。
閣下の役に立ちたくて、必死に苛酷な訓練や勉強をしていた時も。
閣下のお役に立たんと、憎悪と呪詛が沈澱して血と毒に塗れた、後宮という名の伏魔殿に死を覚悟して乗り込んだ時も。
閣下が作り上げて下さった、この幸せな安寧の時代を、国の片隅から見つめることができる今も。
辛く苦しくもあったけれど、でも、この人のために生きる日々は、いつだって満ち足りていたのだ。
「この地で、今はただただ穏やかに暮らさせて頂いております」
柔らかく笑いながら、背の高い人を見上げる。
遠くからこの人の幸せを祈り、この人の治世の平穏を信じて暮らす、変わり映えのしない日常。
これは、僕が求めていたものかもしれないと、最近思う。
決して手に入らない人を、僕だけのものには決してならない人を、すぐそばで恋焦がれている日々は、本当はとても苦しかったから。
そう思いながら、今や陛下となった僕の閣下を見上げていると、愛しい人は悪戯っぽく笑って、ゆるりと目を細めた。
「ねぇ。君は、都に『心を捧げたひと』がいると聞いたけれど、誰のことか聞いても良いかい?」
『心を捧げたひと』
なんで、そんなことを、あなたが知っているのですか。
「っえ、っと、……あ、の」
僕の心臓は大きく音を立てて跳ね上がり、あからさまに狼狽えた。
「妬けてしまうなぁ」
面白そうに笑う目の前の貴人に、僕は涙を目に浮かべながら、喘ぐように呟いた。
「意地が悪うございます、閣下」
「ふふふっ、そうかなぁ?」
きっと分かっているはずなのに、僕に言わせようとする意地の悪さに、僕は深々とため息をつく。目を伏せて唇を噛み、僕は言葉を絞りだした。
「僕が捧げたのは心だけではございません。……閣下、あなたは僕がこの世で最も敬愛するお方。僕が、僕の心と命と魂と、全てを捧げたお方です。どうか僕の心をお疑いになりませんように」
泣きそうな掠れ声の僕の懇願に、彼は嬉しそうに破顔した。
「それを聞いて安心したよ。君が私以外に何かを捧げているだなんて、許せないからね。嫉妬に狂って、賢帝の名を返上してしまいそうだから」
「……え?」
あまりにも予想外の言葉に、僕は固まってしまった。何を言われているのか分からなかった。困惑する僕を優しく見つめて、焦がれ続けた人は、穏やかに笑った。
「私も君を愛しているよ、ラン。私の可愛い愛し子」
「……か、っか」
田舎の日差しに焼けて、美しさすら損なわれたはずの僕を、閣下はまるで眩しい宝のように見つめた。
「私は鈍感だから、なにもかも気がつくのが遅くて、申し訳なかったよ。それに、かつて君にした『二度と君には関わらない』という誓いも破ってしまった」
「そんな!僕はもう一度お会いできて、本当に嬉しゅうございます!」
己を責めているかのような口調の閣下に、僕は慌てて否定する。そこだけは誤解してほしくなかった。
「僕はずっと……ずっと、お会いしとうございました」
「……そうかい。よかった」
涙声で絞り出す僕に、優しい瞳が細められる。
「ねぇ、ラン。君は惚れ薬を飲んでいなかったのだろう?」
「……はい」
「では、君は私を愛しているのだね?」
「……はい、閣下。この世の何にも代え難いあなたを、僕は心からお慕い申し上げております」
「…………ありがとう」
瞑目して、閣下は何か満たされたように穏やかな表情で、唇を綻ばせた。ふぅ、と小さく息を吐くと、再び僕を見つめて、自虐するように笑った。
「私は……皇帝、だからね。君に全てを捧げることはできないんだ」
そんな当たり前のことを、さも申し訳なさそうに呟いてから、閣下はじっと、真摯に僕を見つめてくれた。
「この体も命も、そして愛も、この国と民に捧げるべきものだから。けれどね、……私は、私の恋心の全てを君に捧げよう」
「……ぅ、え?」
瞠目したまま固まっている僕に笑いかけ、閣下は優しく僕の頬に手を当てた。
「ねぇ。私の恋は、生涯かけて君のものだよ、ラン」
まるで少年のように無邪気に、賢帝と名高い彼は、僕に囁く。まるで現実味がない。
そんなの、ありえない。
そんな奇跡のような幸運が、この世にあるはずがないのに。
「命を賭けてくれた君に対して、私にはこれ以外に君に渡せるものがなくて、申し訳ないけれどね」
「か、っか……」
自嘲するように苦笑する人に、僕は呆然と戸惑うことしか出来ない。
あまりに衝撃的な言葉を与えられて理解が追いつかず、けれどとんでもないことを言われているということだけは分かった。僕はきっと、さぞ青ざめて、みっともない顔をしていただろう。僕の表情をどう読み取ったのか、閣下は苦笑を深めて口を開いた。
「安心しなさい。君をあの魔窟に連れ戻すつもりはないよ」
「え?」
後宮という名の悪鬼の巣。
閣下が帝となった今では、きっとかつてのように恐ろしく悍ましい場所ではなくなっているのだろうけれど。
「君はもうここで、新しい人生を歩んでいるのだからね」
「閣下、あの、そんなっ」
それならば、もう二度と会えないのかと、僕の目の前は真っ暗になる。幸せの絶頂から絶望の底に叩き落とされた気分で、今や皇帝と呼ばれる人を見上げた。
「閣下、僕は……」
あなたが望んでくれるのならば、どこにでもついていくのに。
そう伝えようとして、言葉が喉に絡まった。
「ぼく、は……」
本当は、この人の後宮に入りたいわけではないのだ。
あなたが他の人を愛する姿を見たいわけない。
でも、こんな幸せを知ってしまったのに、もう二度と会えないなんて耐えられない。
そんな僕の逡巡を柔らかく見守ってくれていた僕の閣下は、僕を宥めるように髪を撫でて囁いた。
「大丈夫、分かっている。君にとってあそこはとても恐ろしい場所の象徴だろうからね。君を私の後宮に入れる気はないよ。君の正体が露見したら、あまりにも危険すぎるから。でも……」
一瞬だけ躊躇った後、閣下は僕を抱きしめて、恥ずかしそうに眉を下げた。
「たまには君に会いにきてもよいかい?私の可愛い養い子」
「…………っ、もちろんです、私の閣下」
乞うように尋ねてきた閣下に僕は勢いよく頷く。
わざわざあなたが訪ねてきてくれるなんて、信じられないけれど。
あなたがそんな約束をくれるならば、その逢瀬がたとえ十年に一度でも、二十年に一度でも、僕はその日を待ち望んで日々幸福に暮らせるだろう。
「この世の誰よりも何よりも、あなたを永遠に愛しております」
涙声で祈るように愛を伝える僕を、滲む視界の向こうで閣下が笑った。
「あぁ、私も、いつも何よりも誰よりも、君を恋しく思うよ。私の可愛いラン」
抱き寄せられて、顎を持ち上げられる。
次々と涙の伝う頬を優しい掌が覆った。
塩辛い口づけは、どこまでも幸福の味がした。