9 因習の村①
美雨は高校時代の苦い思い出や、周りの友達よりも発育が良く、胸が大きかったこともコンプレックスで軽い男性恐怖症だ。
けれど初対面の悪樓に抱き寄せられ恥じらいを感じても、彼に対して嫌悪感などは全くなかった。
それどころか、初対面で初キスまで奪われてしまったというのに、この得体のしれない人物の屋敷で世話になっている。
むしろ、広い胸板に顔を埋めるとどこか懐かしささえ感じられ、このままずっとここでこうして、彼に抱きしめられたいとさえ思ってしまった。
(悪樓って、不思議な名前だよね。この島ではよくある名前なのかな? 聞きたいこと、いっぱいある)
真夏とは思えないくらい、夜の空気は澄んでいて、小さな虫の声が庭から聞こえる。巫女の姿をした八重という老女と、孫らしき中学生くらいの少女が、彼の身の回りの世話をしているようだった。
この屋敷はずいぶんと広いのに、住み込みの彼女達以外は住人はいないようで、彼は天涯孤独なのだろうか。
三人の会話を偶然聞いた美雨は、彼女たちは悪樓の親族でもなく、雇われているわけでもないようで、ずいぶんと位の高い目上の人と話し、世話をしているような不思議な印象を受けた。
美雨は、ちらりと前方で正座をして食事をする悪樓を見る。佇まいから、食事マナーまで完璧で上品に見える彼は、まるで一枚の絵のように美しい。
美雨も対面するように畳に正座し、足つきの和膳で用意された、会席料理のような豪華な夕食に、まるで高級旅館にでも泊まったような気分になっていた。
「――――美雨、食事の方は進んでいないようだが、味付けは大丈夫か? 外界の島や陸とは異なるのでは? 八重に言って、口に合うものを作らせよう」
「い、いいえ! すごく美味しいです。本当に豪華なお食事で。ちょっと色々と考えごとをしてたんです。この島はなんて言うんだろうとか、悪樓って不思議な名前だなとか」
悪樓は、心のままに答えた美雨が、慌てて赤くなる様子を見ると柔らかく微笑んだ。心臓に悪い、魅力的な微笑みはあまり直視できず、美雨はうなだれる。
「ここは、小嶌という。この村は古くから『真秀場村』と呼ばれておるな。貴女の故郷の言葉を借りて言えば、素晴らしい、素敵な場所ということになるだろうか。他に質問は?」
悪樓の説明だと、ここは皆で行く予定だった無人島ではなく、小嶌という場所に流れ着いたらしい。
美雨の所持品は、全部波にさらわれ、連絡手段も断たれてしまった。 このままでは、旅行途中に海難事故に遭って、家族に死んだと思われるかもしれない。
電話があれば、とりあえず無事は知らせることがてきるだろうが、この屋敷には電話はおろかテレビすらもなく、まるで時間が止まっているようだった。
「あの、とりあえず家族に電話して、私が生きている事を伝えたいです。ずっと、ここでお世話になるのも申し訳ないですし、迎えの船を……」
「――――美雨。漁師から聞かなかったか? 異界入りには船を出すなと。異界を越えてきた者は、外界には戻れない。吉備穴渡神の怒りを買えば、海に放り出され、故郷にたどり着けるかもしれないが、その時はもう死んでいるだろう」
悪樓の瞳が鈍く光ったような気がして、背中が寒くなった。この島にたどり着いたら最後、もう二度と出られないような口ぶりだ。
神様の怒りを買えばこの島から追い出されるが、それは同時に死を意味するなんて、とても恐ろしい。
「美雨、貴女はこの屋敷に身を寄せるといい。貴女は私に選ばれたのだから、もう逃げられない……逃がす気はない」
「え……選ばれたって……?」
悪樓は答えず、妖艶に微笑む。
美雨の頭の中で、その刻が来れば貴女も理解するだろうという、夢の中の台詞がよぎった。
怖いと思うと同時に、悪樓の妖艶でどこか威厳のある顔を見ると、夢の中と同じように抵抗する気持ちが失せてしまう。
勝己の船で、この島を脱出すれば良いという、簡単なことさえも頭に浮かばないくらい、美雨は素直に受け入れてしまった。
美雨も、建前のように彼に質問したが、この空間はとても居心地が良く、まるで現実から隔離された、アクアリウムの中にいるようで気持ちが落ち着く。
目を閉じて、再び開いたらきらきらと光る透明な水底にいて、色とりどりの美しい魚たちが蝶のように舞って可愛らしいのだろうなどと、他愛もない妄想をした。
「それにもうじき、酷い雨が降る。残念だな、今日は美雨と美しい月が見られそうにない」
「あ……本当だ、雨の香りがしますね。私、水の匂いには敏感なんです。あの……お世話になります」
「嗚呼。それにしても……本当に貴女は可愛らしい嫁御寮だ」
冷たい低音の声に、わずかな優しさや感情が籠められると、それだけで美雨は耳まで熱くなって赤面する。
(ヨメゴリョウって、お嫁さんっていう古い言葉だよね。お嫁さん……お嫁さん……。つまり、えっと、恋人を通り越して、いきなりこの人の妻になるの……?)
美雨がそんなことを思っていると、ポツポツと屋根にあたる雨音がし、庭に咲いた鬼灯の、赤く色付きはじめた実に雨の雫が落ちた。