8 まほろばの小嶌②
(…………なんだろ…………気持ちいい)
畳の香りがして、心地よい涼風が吹いている。幼い頃、高熱を出した美雨に母がそうしてくれたように、冷たくて心地よい大きな手が額を覆った。
美雨が、ゆっくりと目を覚ますと目の前に黒髪の『あの人』と、そっくりな男性が優しく微笑んでいた。
「あ…………っ」
けれど、彼は夢の中のような銀髪ではないし、どこからどうみても普通の人間に見える。体を起こそうとして、その人に寝ているようにと促された。
「目が覚めたか、美雨。もう、心配ない。大丈夫だ」
連れて来られた場所は、旧家の屋敷のようだ。彼はこの島の村長や、地主の息子なのだろうか。
「え………あ、あの。わ、私……海に落ちて……それで、貴方に助けられた……んですか? あの、どうして私の名前を」
「嗚呼。貴女が島に来る途中に波に拐われたのが見えたので私が助けた。名は、貴女の友達が『美雨』と……そう呼んでいたから」
それが本当なら、あれはやはり夢なのかと思ったが、青年は掴みどころのない表情でそう言うと、愛しげに頬を撫でて美雨の髪を梳いた。
その一連の動きに、美雨は鼓動が高鳴り、耳まで熱くなる自分に戸惑っていた。初対面の異性にこんな事をされたら、普通なら怖いと思うはずなのに、あまりにも自然な素振りだった。
美雨はまるで『初恋』の相手に出会えたような気持ちになり、胸がざわめく。
ずっと昔から逢いたくて恋い焦がれていた相手に、再会できたような感覚だ。
(海の中で見たのは……幻覚だったのかな。だってこの人は普通の人だよね。あれはただの夢だし、この人はきっと、そっくりさんなだけ)
冷静になるようにと、美雨は心の中でそう何度も繰り返し、赤面してうなだれた。まるで彼女の内面を見透かすように、青年は口の端で笑みを浮かべている。
その時初めて、美雨は自分が浴衣を着ている事に気付いた。誰かが濡れた服から着替えさせてくれたのだろうか。
「あ、あの。誰か着替えさせてくれたみたいで……ありがとうございます。貴方のお名前を教えて下さい。助けて貰って本当に感謝していますっ。あ、そうだ……! みんなは無事ですかっ」
「無事だ。私が貴女を風呂に入れて、着替えさせた」
「えっ!」
「八重では貴女の体を支えられない。嗚呼、そうだ。私とした事があの時、名乗っていなかったな。誰がそう呼びだしたのか忘れたが、私の名前は悪樓と言う。私はこの名前を、けっこう気に入っている」
彼の言動に混乱する美雨を抱きしめた。
美雨は真っ赤になって、悪樓の胸板を押し返した。心臓の音で、全ての音が遮断され聞こえなくなりそうなくらい恥ずかしい。
悪樓は、美雨の手首を掴むと、彼女の耳元で笑った。
「すまぬ。少々、性急すぎたか。私は、貴女の事を何百年も待っていたからな」
「どういう……事ですか?」
「婚姻の儀が終わるまで、私との夢通いの事は、友人たちに告げぬように。彼らを殺さねばならなくなる」
「婚姻の……儀?」
悪樓の言葉に、美雨は一瞬にして甘い時間から冷水を浴びせられたような気持ちになった。その瞳が、一瞬黒から薄い銀色に光ったような気がして、美雨の体が硬直すると、悪樓は溜め息を零してそっと美雨を抱き寄せた。
「そう、怖がるな。貴女に恐れられると傷つくよ。明日には友人に逢うと良い。あくまで普通にしていれば良いだけだ。美雨、今日は体を温め、食事を取るように」
「は…………い」