美少女名探偵☆雪獅子炎華 (14)ダモクレスの剣
☆1☆
「見てユキニャン。渋谷109の夜空をジャンボジェット機が飛んで行くわ。まるで、客席がのぞけるぐらいに低い位置を飛んでいるわね」
「ウニュン!」
炎華にうながされるまま、我輩も夜空を見上げる。
まさしく目と鼻の先にジャンボジェット機の巨体が悠々と飛んで行く。
赤いテールランプが長く尾を引いている。
真冬の清涼な空気に向かって、炎華が白い息を吐きながら、
「さあ急ぎましょう、ユキニャン。カイザー航空、午前二時発の深夜便に間に合わなくなるわ」
炎華が豪華なリムジンに乗り込む。
音も振動も、まったく感じさせずに、すべるようにリムジンがスタートする。
目指すは羽田空港国際線ターミナルである。
深夜の午前二時にカイザー航空のジャンボジェット機が出発し、ロンドンまで十二時間の飛行を続けるのである。
長い旅になりそうである。
☆2☆
「あら珍しいわね。こんな遅い時間に、こんな所で、いったい何をしているのかしら? 鬼頭警部?」
張り込み中の鬼頭警部を偶然見かけた炎華がたずねる。
鬼頭警部が焦りながら、
「や、き、奇遇なのだ、ほ、炎華くん。しかし、今は大事な張り込みの真っ最中なのだ。あ、痛、たた」
鬼頭警部がお腹を押さえる。炎華が心配しながら、
「張り込みの最中に申しわけないけど、どうかしたのかしら? お腹を押さえて? 腹痛か何かかしら?」
鬼頭警部が額に脂汗を垂らしながら、
「いや、ちょっと、最近飲みすぎで、胃の具合が良くないのだ。どうやら、昨日の忘年会で、決定的に胃を痛めたらしいのだ。普段のワシなら、飲み屋のハシゴぐらい屁でもないのだが、あ、痛たたた」
炎華が憐れむように、
「年なのに無理するからよ。胃の調子は年齢にもよるけど、普段の食生活も大きく影響するものよ。いつも同じように胃が機能するとは限らないわ。人によってその調子は大きく変わるし。いくら頑丈な臓器といっても、油断はしないほうがいいわね」
鬼頭警部がうめく、
「ううむ、それは、わかっているのだ。しかし、公僕には、付き合いというものがあるのだ。そこでしか聞けない重要な情報があるのだ」
炎華が呆れ顔で、
「自分の体より仕事が大事なんて、付き合いきれないわね。あら、もしかして、あれが張り込みをしている対象の人物かしら。マスコミに囲まれながら、誰か近づいて来るわよ」
鬼頭警部がうなずく。
「その通りなのだ。警察でマークしている人物なのだ」
洒落たスーツを着こなした年若い男である。
苦労知らずで、我がまま、絵に描いたようなお坊ちゃん、といった感じである。
炎華が微笑を浮かべながら、
「カイザー航空、社長の一人息子。階座巣回ね。今、話題の人物じゃない。悪い意味で」
鬼頭警部が諦めたように、
「炎華くんの目は誤魔化せないのだ。その通りなのだ。階座巣回は、カイザー航空社長の御曹司。今はカイザー航空、部長のポストに就いているのだ。ところで、カイザー航空は昨今の不景気のせいで、すでに経営が傾きかけているのだ。ぶっちゃけ、赤字で倒産寸前なのだ。にもかかわらず、階座巣回は銀行に融資話を持ち掛け、数千億の金を借り出す事に成功したのだ。返すアテのない、いわゆる不正融資という奴なのだ。そのうえ、その金の一部を、スイスにある自分の秘密銀行に送金した、という資金横領の疑いがかかっているのだ。今のところ証拠不十分で逮捕に至っていないのだが、ともかく、階座巣回は限りなく黒に近いグレーなのだ。そこで、警察は目下、彼を捜査、尾行している真っ最中なのだ」
炎華が瞳をこらし、
「こんな時間に羽田に来たということは、深夜便で海外に高飛びする、ということかしら? 鬼頭警部も階座巣回と一緒に同乗するの?」
鬼頭警部が悔しそうに、
「残念ながら警察の尾行はここまでなのだ。奴はこのままロンドンに高飛びするつもりなのだ」
炎華が目を丸くし、
「あら意外ね。私と同じ目的地よ。とんだ偶然だわ、逮捕令状は出ていないのかしら? 犯罪者と一緒にフライトを楽しもうって気分にはなれないわ」
鬼頭警部が忌々し気に、
「証拠不十分なのだ。逮捕は出来ないのだ。ずる賢い奴で、なかなかシッポをつかませないのだ。炎華くん、もしも同じ深夜便で奴と一緒にロンドンまで行くのなら、奴のことを」
炎華が鬼頭警部をさえぎり、
「あいにく観光よ。プライベートな旅行なの。階座巣回のお相手はごめんこうむるわ」
鬼頭警部が肩を落とし、
「そ、それはスマナイのだ。旅行を楽しんで来るといいのだ。あ、痛たた。また、胃がシクシク痛むのだ」
哀れみを催したのか、炎華が鬼頭警部に優しい声をかける。
「仕方がないわね。まあ、多少は階座巣回の様子を探ってもいいわよ。病人には優しくしないとね」
鬼頭警部が胃痛もかえりみず、
「た、助かるのだ、炎華くん。君だけが頼りなのだ。痛た、たた」
炎華が嘆息しながら、
「たよりない警部さんね。あら、階座巣回が出発ゲートをくぐって、ジャンボジェット機に乗り込もうとしているわ。もう時間ね、私もそろそろ行かないと。行くわよ、ユキニャン。もう、このケージの中に入りなさい。しばらくケージの中で辛抱するのよ」
「ウニャン!」
我輩は元気よく鳴いた。
我輩は飼い猫である。
名前は、
ユキニャン。
探偵であるゴスロリ少女、
雪獅子炎華の相棒を務め、
探偵の真似事をしている、
猫探偵である。
☆3☆
国際線の搭乗ゲートは閑散としている。
二百人乗れるジャンボジェット機に、たった三十名ほどの客しか見当たらない。
マスコミの追撃を振り切りゲートを通過した階座巣回が、せいせいした表情で機体へ続く連絡通路を歩く。
途中、我輩の入ったケージを抱え、通路の窓から空港を見おろしている一人の少女、炎華に気ずく。
マスコミの対応で、てんやわんやしている階座巣回を尻目に、炎華は先回りしたのだ。
炎華の驚くような美貌、美少女っぷりに、階座巣回が目を見張り、さっそく声をかけてくる。
「どうしたのかな? お嬢ちゃん。パパとママは一緒じゃないのかい? もうすぐ出発する時間だよ。急がないと乗り遅れるちゃうよ」
炎華が振り返り、階座巣回を見上げる。
白皙の額に黒髪を垂らした、ちょっと貴公子っぽい雰囲気の、美貌の若者である。
「両親は来ないわ。私、一人でロンドンに行くの」
階座巣回が驚いた様子で、
「君みたいな子供がかい? ずいぶん、ご両親は鷹揚なかたなんだね」
炎華が微笑し、
「あなたこそ、お一人なの? ロンドンまで、何をされに行くのかしら?」
階座巣回が肩をすくめ、
「傷心旅行というところさ。色々とヘマをやってしまってね」
「あら、そうかしら、逃亡旅行の間違いではなくって?」
階座巣回が目を見張り、
「えっ!?」
炎華が漆黒のスカートをフワリとひるがえすと、
「もう出発の時間よ。機内へエスコートしてくださるかしら? 階座巣回さん」
「なっ!? ぼ、ぼくのことを知っているのかい?」
炎華がしたり顔で、
「あら、上級市民の間で、あなたを知らない人はいないはずよ。なにしろ、カイザー航空の社長の御曹司ですもの」
階座巣回が皮肉げに、
「マスコミでも不正融資疑惑が話題になっているもんね、根も葉もないデマだけどさ、でも、君みたいな子供でも、ぼくの噂を耳にしているってわけだ」
炎華が首肯し、
「そんなところよ。ところで、私は炎華、雪獅子炎華よ、この子は、私の相棒でユキニャン」
「ウニャン!」
我輩はケージの中から返事をする。
「それと、ここが私の席よ」
炎華が航空チケットを階座巣回に見せる。
「なるほど、雪獅子……炎華ちゃんか、おっ! ちょうど、ぼくの隣りの列じゃないか、炎華ちゃんも上級市民らしい、ファーストクラスなんだね。それじゃ、一緒に行こうか炎華ちゃん。案内するよ」
炎華が首を横に振り、階座巣回のあとに続く、
「残念ながら、私は上級市民ではないけれどもね」
階座巣回が振り返って、漆黒のゴスロリ装束を身に纏った炎華を、上から下まで舐めるように見つめ、
「なあに、上級も下級もないさ、あと数年もすれば、炎華ちゃんは立派なレディーになるよ。いや、いまでも充分、可愛らしい美少女だけどね」
口の軽い男である。
つまり軽薄という事である。
が、何を思ったのか、突然、胸元から封の切っていないリップクリームを取り出し、炎華に差し出した。
「この寒さと乾燥した空気のせいで、炎華ちゃんの美しい唇が荒れないか心配だよ。ぼくは唇がよく乾燥して荒れるから、いつも最高級リップクリームを持ち歩いているんだ。これは今夜、渋谷で発売されたばかりの新商品でね、炎華ちゃんとの出会いも何かの運命だろうから、炎華ちゃんに一つ、これをプレゼントするよ。ぼくは使いかけの予備を一つ持っているから、遠慮しなくていいよ」
「ニャニャッ!?」
階座巣回はどうやらロリコンのようである。
子供相手にいきなりプレゼントを与えるとは? 一体何を考えているのか? ケージの中にいなければ猫パンチをお見舞いするところである。
階座巣回が炎華にリップクリームを渡そうとすると、すぐ横を通りかかった老齢の婦人がリップクリームを受け取り、
「あらあら、すまないわねぇ、この年になると唇が乾燥して本当に困るのよねぇ、こんな年寄りにリップクリームをプレゼントしてくださるなんて、感心な若者だこと、オホホホホ」
階座巣回が慌てて、
「ええっ! お婆さん! ちょっと待って! これは今夜、渋谷で発売されたばかりの新商品で、ち、ちが、違うんです! これはお婆さんじゃなくって! その~」
階座巣回の言葉が耳に入らないのか、婆さんが、深々と頭をさげ、
「ありがたく頂くわねぇ。ありがとうねぇ」
そう言い残し、年のわりには意外と軽快な足取りで、婆さんが機内へ入って行く。
あとに残った階座巣回がバツの悪そうに顔をしかめ、それでも、ポケットから半分ほど使用した、リップクリームを取り出すと、唇にヌリヌリする。
さすがは今夜、渋谷で発売されたばかりの新商品である。
階座巣回の唇は艶やかに潤い、自然な光沢を放つ。
我輩もその様子を真似して、前足を唇に近づけると、スリスリする。
人生はなかなか思い通りにならない物である。
「フニャーオ!」
☆4☆
「と、いうわけで、女の子の一人旅はとっても危険だから、ぼくが一緒に付いていってあげようと思うんだ。どうかな? いい考えだと思わない? ロンドンには、ぼくの友人もいっぱいいるから、きっと楽しい旅行になると思うよ。みんな上流階級の御曹司ばかりだけど、炎華ちゃんも特別に、名誉・上級市民として、ぼくの友達に紹介してあげるよ。美味い料理に美味い酒、おっと、炎華ちゃんはまだ未成年だったね。そうだね、美味いケーキやお菓子がいっぱい食べられるよ。食べ放題だよ。みんな無料だよ。今がお得だよ。ねぇ、考えてみてよ、炎華ちゃん」
最後は安っぽい客引きのように、なんとかして炎華にウンと言わせようと、機内の通路を歩きながら、必死にまくしたてる階座巣回である。が、
「ここが私の席ね、案内ありがとう、階座巣回、ここまでで結構よ」
と、炎華は歯牙にもかけない。
それでも階座巣回は粘り強く、
「友達にぼくが一言、言えば何でも手に入るよ、宝石でもブランド物でも、最高級のスポーツカーでも、一流の運転手もつけてあげるよ」
すると突然、ファーストクラスの座席に座っていた婆さんが、ひょっこり顔を出し、
「あらまぁ、それはまた、ありがたいことだわねぇ。最近、めっきり腰が悪くなってしまってねぇ、買い物をするのも大変難儀しているのよねぇ、車と運転手がいれば大助かりだわねぇ」
炎華が含み笑いし、
「だ、そうよ。おば様のためにも、ぜひ、そうしてあげたらどうかしら? 階座巣回?」
階座巣回の目が泳ぐ、しどろもどろになりながら、
「か、考えておきます!」
と、言ったきり黙りこくって自分の座席に座る。
階座巣回の席は、三列あるうちの中央の列で、三つある座席の真ん中に座っている。
炎華は通路を隔てた右側の列で、二つある座席の窓際に位置していた。
さきほどしゃしゃり出てきた婆さんは、ちょうど炎華のおとなりさんである。
つまり、通路側の座席を占めていた。
炎華が婆さんに小声でささやく、
「助かったわ、おば様、うるさくって仕方がなかったの。上手いこと口をふさいでくれて、感謝するわ」
婆さんがウンウンうなづきながら、
「どういたしまして、だいぶお困りの様子でしたからねぇ、可愛らしいお嬢ちゃんは、ああいう軽薄な男には注意しないといけませんからねぇ、傷物にでもなったら、ご両親が悲しみますからねぇ」
炎華がすました顔で、
「あら、私はまだ、ほんの子供よ」
婆さんが大きく首を横に振り、
「いいえぇ、もう立派な大人ですよぉ。おばちゃまが子供のころはねぇ、十二歳を過ぎた女の子は、おしろいを塗って、芸者まがいのことをして、男の夜のお相手までしたものです。まだ若い身空で花を散らした女の子が何人いたことか。江戸時代は、十五、六で結婚し、二十歳まで結婚しないと行き遅れと言われた物です。中世暗黒時代のヨーロッパは、女の子は十三歳から娼婦をしてよいという法律がありました。源氏物語の紫の君は、幼少のころ光源氏にさらわれて、食べごろになった途端、美味しく頂かれたものです。だから、あなたも気をつけないと、ハイエナどもの餌食になりますよ。おばちゃまはね、それが心配で心配で、ならないのよねぇ」
炎華が素直にうなずき、
「わかったわ。古い友人に頼まれて、階座巣回と接触したけど、これからは気をつける事にするわ」
婆さんが安心したように、
「わかればよろしいのです。ところで、あなたの親御さんはどちらかしらねぇ? まさか、子供一人でロンドンまで行かせるつもりじゃないでしょうねぇ」
炎華がすまし顔で、
「いいえ、私は一人旅よ。正確にはユキニャンもいるけど、おば様こそ、お一人なのかしら? お連れのかたは、どなたか、いらっしゃらないの?」
婆さんが遠い目をし、
「ええ、おばちゃまは一人旅よ。一人が一番気楽で快適ですものねぇ。でも、昔は、連れがたくさんいたものよ、今となっては、遠い昔の話だけどねぇ」
炎華が態度を改め、
「失礼な質問をしてしまったみたいね。でも、良かったら、おば様の名前をうかがいたいわ」
婆さんがクスクスと上品に笑い、
「失礼だなんてとんでもない。旅は道連れ世は情け、若い子は余計な事なんか気にしないでいいのよ。おばちゃまの名前はねぇ、
美墨真亜古。
ミス・マープルよ、よろしくねぇ」
炎華も自己紹介する。
「私は、雪獅子炎華……探偵よ」
炎華が我輩をケージから出し、
「この子は相棒のユキニャン。マープルおば様。こちらこそ、よろしくお願いするわね」
☆5☆
「まあびっくりだわ、あなたも探偵なの、炎華ちゃん。実はねぇ、おばちゃまも、一昔前は探偵だったのよ。おしゃべり好きな素人おばちゃま探偵として、一世を風靡したものよ。難事件の数々を解決してきたのよ。もしかしたら、探偵が二人もいるのだから、またまた、超・難事件が起きるかもしれないわねぇ、楽しみだわねぇ」
婆さんが上機嫌で話す。
そのかたわらで、炎華が嘆息し、
「できれば、何事もなく済んで欲しいものだわ」
婆さんがニコニコしながら、
「あらあら、探偵が二人もいるのだから、どんな難事件も解決出来るはずでしょ、出来ないはずがないわ。何も心配する必要はないんじゃないかしら、炎華ちゃん」
炎華が微苦笑を浮かべ、
「だと、いいんだけど」
炎華が言い終わらないうちにスチュワーデスによる離陸のアナウンスが入る。
『アテンションプリーズ。お客様の皆様、まもなく当機は、羽田空港を出発し、ロンドン空港へ参ります。離陸に備え、シートベルトのご着用をお願い致します』
「もう二時ね。出発する時間だわ」
炎華が素早くシートベルトを取り付ける。
マゴマゴしている婆さんのシートベルトの取り付けを手伝ってやる。
「ありがとねぇ、炎華ちゃん。年は取りたくないものねぇ。シートベルトもろくに取り付けられないなんて、もうろくしたくないものだわねぇ」
「どういたしまして、それより、マープルおば様、そろそろ離陸するわよ」
婆さんが身を固くする。
「あの背中を引っ張られる感じが、空を飛んでいるって感じよねぇ、だけど、おばちゃま、あの瞬間だけは、ちょっと緊張しちゃうのよねぇ」
窓の外では、東京の美しい夜景が、みるみる流れ去って行く。
スピードがグングン上がり、やがてジャンボジェット機の、巨大な機体がフワリと宙に浮かぶ。
それまで感じられた振動が嘘のように消え去り、我輩の体はケージの端にぴったりと吸い付く。
上昇するために加速したさい発生する不自然な重力が、かなり長いこと感じられる。
が、やがて機体は水平飛行へと移っていった。
不自然な重力がようやく消え去る。
窓の外を見下ろせば、一面の雲海が月の光を受け、うっすらと輝いている。
上空を見上げると、美しい満月が、夜空に冴えざえとした青白い光を湛えながら、ぽっかりと浮かんでいる。
炎華が我輩の頭をなで、
「長い旅になりそうね、ユキニャン」
「ウニャッ!」
我輩は首肯した。
☆6☆
離陸してから五分も経たないうちに、怪しげな男が一人、通路の前方からノソノソと歩みよって来る。
婆さんがニコニコしながら、
「さっそく事件のほうから、私たちのほうに向かって、歩いて来てくれたみたいよ、炎華ちゃん」
炎華が残念そうに
「そのようね」と、つぶやく。
怪しい男は、前髪を鼻の辺りまで垂らして目元を隠し、マスクで口元をおおっている。
モコモコとした黒いシャツとズボンを身に着け、両手にはゴム手袋をはめている。
片手にコーヒーを持っている。
婆さんが素早くコーヒーに目をやり、
「炎華ちゃん、ただのコーヒーみたいよ。それにしても、妙にモコモコとした格好ねぇ。着ぶくれにもほどがあるという物よねぇ」
炎華が微かにうなずく。
マスクとゴム手袋は、最近、流行っているインフルエンザ対策かもしれないが、実際は顔を隠すため、ゴム手袋はカップに指紋を付けないためだろう。
モコモコの服装の下には、何か別の服を着こんでいるのかもしれない。
怪しい男が婆さんの横まで来ると、中央の三席ある座席のはし、階座巣回の隣りの席に腰掛ける。
階座巣回が憤慨しながら、
「だ、誰だね、君は? この中央の三席は、すべて僕が購入した座席だぞ、すぐに出て行きたまえ!」
と、訴えるが、男は焦った様子もなく、階座巣回のほうを振り向くと、垂れ下がった前髪をかき上げる。
残念な事に、炎華と我輩の座席の位置からは、その顔を確認する事は出来ない。
その顔を見て階座巣回が驚いたように、
「あ、あなたは! な、なぜ、あなたが、こんな所にいるんですか? だ、大丈夫なんですか、こんな所にいて?」
男はその質問には答えず、階座巣回の目の前に紙片を差し出す。
その紙片に目を通した階座巣回の顔色がまっさおに変わる。
「なっ、こ、これは………」
男が紙片を胸ポケットにしまい込みながら、
「この事を公表されたくなかったら、俺の指示に従ってもらう」
くぐもった小声で聞き取りずらいが、何とか、そう聞こえる。
「これから君にゲームをしてもらう。何、簡単なゲームだ。もうじきスチュワーデスが機内サービスを始めるから、君はそのスチュワーデスにコーヒーを頼むだけでいい」
階座巣回の表情が和らぐ。
「な、なんだ、その程度の事ですか、いいでしょう。あなたの悪ふざけに付き合いますよ」
マスクごしだが、男の口元にニヤリと、不気味な笑みが浮かぶのがチラッと見えた。
ちょうどその時、スチュワーデスが通路前方から機内サービスのワゴンを押しながら、客の注文に次々と答え、サービスを施していく。
やがて、男の横まで来る。
スチュワーデスがニコやかに、
「お客様、何かご注文はございますか?」
と、男にたずねる。
男は軽く首を横に振る。
階座巣回がすかさず、
「コーヒーを頼む」
と、怪しい男に言われた通り、コーヒーを注文する。
スチュワーデスがそれに答え、
「はい、コーヒーでございますね、少々、お待ちください」
スチュワーデスがコーヒーカップにコーヒーを注ぎ階座巣回に渡す。
スチュワーデスがニコやかに、
「お客様とお孫さまは、いかがされますか?」
婆さんと炎華に聞いてくる。
炎華は孫ではないのだが。
とりあえず、二人は一緒にホットミルクを頼んだ。
やがて、スチュワーデスがその場から離れて行く。
階座巣回がコーヒーを飲もうとすると、男がそれを制し、
「ゲームの続きだ。そのコーヒーは俺がもらう。そして、次にスチュワーデスが戻って来るまでに、俺の持つ、このコーヒーを飲み終え、戻ってきたスチュワーデスにカップを渡すんだ。それで、このゲームは終わる」
男があらかじめ持ってきていたコーヒーを階座巣回に渡す。
すると、階座巣回の顔色が変わり、
「え!? で、でも……こ、このコーヒーは!?」
男が有無を言わさず、
「いいから飲み終わったらスチュワーデスにカップを渡すんだ! それでゲームは終了だ。お前の秘密も守られる、いいな!」
階座巣回がポカンとしているので、
「やるのか、やらないのか? どっちだ!?」
男が苛立たし気に階座巣回をせかす。
夢から覚めたように階座巣回が首肯する。
「やるよ、やりますよ! それで本当にぼくの秘密を守ってくれるのなら、その程度のことぐらい、喜んでやりますよ!」
階座巣回が男からコーヒーを受け取る。男が、
「上手くやってくれよ」
と、言い残し席を立ち上がる。
再びノソノソと通路前方に向かって歩き出す。
炎華がそのあとを追おうとするが、婆さんがそれを制し、
「お待ちなさい、炎華ちゃん。行ってはいけません」
炎華がイラつきながら、
「どいて、マープルおば様、あの男の行方を追わないと」
婆さんが冷静に、
「いいえぇ、今、あの男を追えば、逆上したあの男が、炎華ちゃんや、あのお坊ちゃんを、もっと危険な目に合わせるかもしれないわ。炎華ちゃんを、そんな危険な目に合わせるわけにはいきません」
婆さんがピシャリと言い放つ。
イライラしながらも、渋々、炎華が席に戻る。
「じゃあ、どうすればいいのかしら? マープルおば様?」
婆さんが落ち着き払った声で、
「しばらく様子を見ましょう。怪しいと思ったのは、私たちの勝手な思い込みで、本当に、ちょっとした悪ふざけをしているのかも知れないわ。それに、せっかくスチュワーデスさんからホットミルクを頂いたのだから、冷めないうちに飲むとしましょう」
婆さんがホットミルクを美味そうにすする。
「仕方がないわね。私もマープルおば様に付き合うわ」
炎華が嘆息しながらカップを口に運ぶ。
☆7☆
どれぐらい時間が経っただろう?
気が付いたら午前三時半をまわっていた。
炎華と婆さんはホットミルクを飲んだあと、眠気をもよおしたのか、十分もしないうちにコックリ、コックリと船をこぎ出す始末である。
深夜二時過ぎという夜遅い時刻なうえ、適度な暖房とホットミルクで体が暖まり、快適極まりないファーストクラスの、ゆったりとしたシート付きである。
熟睡するのも致し方ない。
寝るな、と言うほうが無理である。
せめて我輩だけでも起きていなければ、と思い、懸命に階座巣回の様子をうかがっていた我輩だが、夜行性の猫にもかかわらず、うっかり我輩まで居眠りしてしまった。
ファーストクラス恐るべし、快適過ぎる環境というのも考えものである。
ともかく、目をさました我輩は、速攻で前足を使い、炎華の上半身をフミフミする。
やがて炎華が目を覚まし、
「おはようユキニャン、もうロンドンに着いたのかしら?」
と、少々、寝ぼけているので、
「フニャイニャ、フニャイ!」
(階座巣回!)
と、注意を即すと、炎華がハッとしたように、
「そ、そうだったわ、ユキニャン。階座巣回はどうなったのかしら? 今は……午前、三時半!? 一時間半も眠っていたということ? 大変だわ! マープルおば様を起こさないと!」
炎華が婆さんの肩を揺すり、
「マープルおば様、起きてちょうだい! 私たち、うっかり眠ってしまったようよ! 早く起きて! マープルおば様!」
婆さんが目をショボショボさせながら、
「おはよう炎華ちゃん。もうロンドンに着いたころかしらねぇ?」
と、炎華と同じボケをカマす。
炎華が焦りながら、
「まだ一時間半しか経ってないわよ。それより大変よ。私たち、うっかり寝過ごしてしまったみたいなの」
婆さんが、
「ああ、え~と、それで寝たりないのねぇ、一時間半じゃねぇ、そりゃ寝たりないわよねぇ」
炎華がイライラしながら、
「そうじゃないでしょ、マープルおば様! 階座巣回がどうなったのか、気にならないの?」
婆さんがハッとし、
「え? あ~、そ! そうだったわねぇ。おばちゃまとしたことが、とんだポカをしたもんだわねぇ。昔は一晩中起きていても、翌朝は、また元気いっぱいに飛び回っていたものだけれど、年は取りたくないものだわねぇ」
炎華が気を取り直し、
「ともかく階座巣回の様子を見てちょうだい、マープルおば様」
婆さんが目をショボつかせながら、中央の座席に座る階座巣回の様子を探る。
と、氷ついたように身体を硬直させ、震える声で、
「あらあら、まあまあ、こ、これはまた、ちょっとばかり、大変な事になってしまったわねぇ。本当に、年を取ると、色々とモウロクしてしまって、ダメダメよねぇ」
炎華がもどかしげに、
「マープルおば様、はっきりと、事実だけを、話してくださらないかしら、はっきりと」
婆さんが青ざめた顔を炎華に向け、
「ええ、そうねぇ。つまり、これは、その、何というか、ようするに」
炎華が話をそくす。
「要するに何なのかしら?」
覚悟を決めたように婆さんが、
「思うに、殺人事件じゃないかと、おばちゃまは考えるのよねぇ」
炎華が澄んだ瞳で婆さんを見据え、
「マープルおば様、とりあえず、そこをどいてくださるかしら?」
婆さんがうなずき、
「よっこらしょっと」
とか言いながら席を立つ。
炎華が我輩を抱えて死体に近づく。
☆8☆
「心臓を一突き、というわけね」
階座巣回は胸をナイフで一突きにされ即死していた。
「誰にも気づかれずに犯行を行ったようよ」
目撃者は、まずいないであろう。
我輩たち以外は、前方と後方に、わずか数名の客がいるだけである。
そして、みな一様にグッスリと寝入っている。
「床に紙片が落ちているわね」
死体の足元に紙片が落ちている。
炎華が手袋をはめ、慎重に紙片をつかむと、しばらくそれをながめ、
「面白い事が書いてあるわ」
言いながら婆さんに紙片を見せる。
「あらあら、一体、何が書いてあるのかしらねぇ?」
婆さんが顔を寄せ、
「ダモ、クレス……の、剣が、落ちた? 何の事かしらねぇ、それに、小さい字が、ごちゃごちゃといっぱい、何か書いてあるわねぇ、老眼でさっぱり読めないけど」
炎華が婆さんの代わりに読む、
「これは脅迫状よ。階座巣回が起こした不正融資事件の全貌が、事細かく書いてあるわ。それこそ、カイザー航空の、内部の人間でなければ知り得ないような極秘情報まで事細かくね。スイス銀行の階座巣回の秘密口座についても書いてあるわ。もし、この紙片が公開されたら、階座巣回は間違いなく破滅することになるわね」
婆さんが目をショボショボさせながら、
「あの男は、その秘密を守る、と言ったのに、変てこなゲームをしたうえ、階座巣回を殺してしまったのねぇ。くわばら、くわばら、世の中には恐ろしい話もあるもんだわねぇ」
我輩は階座巣回の口元周辺が、ヌラヌラ光っていることに気がつく。
「ニャウッ!」
炎華の手の中から飛び出し、階座巣回の座席に飛び移る。
口元に近ずき、もう一度よく見る。
「リップクリームが、わずかだけど、口元からズレて塗られているわね」
炎華がつぶやく。
それで口元の周辺がヌラヌラと光っていた理由がわかる。
婆さんが、
「そういえば、おばちゃまが眠る前まで、このお坊ちゃんは頻繁にリップクリームを塗っていたわねぇ、塗る時に手元が狂ったのかしらねぇ?」
炎華が質問する、
「なぜ手元が狂ったのかしら? その理由は?」
婆さんが不思議そうに、
「さあ? なにしろ飛行機は空の上だし、おばちゃまたちが寝ている間に、乱気流にでも巻き込まれて、機体が揺れたりとか、したかもしれないわねぇ」
炎華が考え込み、
「そんなに揺れたなら、私たちも気づくはずじゃなくって、マープルおば様?」
婆さんが頭をかきながら、
「最近は年のせいか、一度、眠ると何があっても、朝まで目が覚めないのよねぇ」
年を取ったら普通、眠りは浅くなるものではなかろうか? 炎華が仕切り直す。
「まあいいわ。とにかく、二人とも気づかなかった事だけは確かよ」
☆9☆
婆さんがスチュワーデスに事件を知らせ、機長の判断でロンドン行きのジャンボジェット機は、急きょ、羽田空港へ引き返すことになった。
機内で殺人事件が発生したのだから仕方がない。
羽田では、連絡を受けた鬼頭警部が、今か今かとジャンボジェット機の到着を待ち構えていた。
「羽田空港が見えてきたわ、ユキニャン。まさかトンボ返りする羽目になるとは、夢にも思わなかったわね」
「フニャン!」
我輩は同意した。
婆さんが肩を落としながら、
「人生には色々あるものだけど、殺人事件だけは何度遭遇しても慣れないものよねぇ。おしゃべり好きな素人おばちゃま探偵も、まさか目の前で人が殺されるとは思わなかったわ。ビックリ仰天だわねぇ」
炎華があきれ顔で、
「仰天している場合ではないわよ、マープルおば様。参考までに、おば様の推理を聞かせていただけるかしら」
婆さんがドヤ顔で、
「あらまぁ、おばちゃまの推理が役に立つかどうかは分からないけれど、あの黒ずくめの怪しい男が犯人でしょうねぇ」
炎華が肯定する。
「異論は無いわ、続けて」
婆さんが得意そうに推理する、
「あの男はコーヒーを持ってきて、あのお坊ちゃんに渡したでしょ。でも、それは、機内サービスが始まる前の事なのよねぇ」
炎華が先をそくす、
「それは、つまり、どういう事かしら?」
婆さんが口ごもり、
「つまりねぇ、機内サービスが始まる前に、コーヒーを用意できる人物。スチュワーデスさんか、スチュワーデスさんから事前にコーヒーを手に入れる事が出来る人物、という事になるのよねぇ」
炎華が瞳を猫のように細め、
「スチュワーデスは除外してもいいでしょう。共犯の可能性はあるけど、実行犯はありえないわ。前部に座席に座っている客も、よほど上手くやらなければ、航空機内のコーヒーを手に入れるのは難しいと思うわ。つまり、客も除外してよさそうね。となると、スチュワーデス以外の人物、という事になるわね。それは、いったい誰になるのかしら?」
「そ、それは……」
またまた婆さんが口ごもる。
婆さんがため息をつきながら、
「パイロット……という事になるのかしらねぇ」
炎華が同意する。
「その通りよ。脅迫状の内容からしても、カイザー航空の内部事情に、相当、通じている者が犯人のはずよ。当然、パイロットも容疑者に加えるべきだと思うわ」
婆さんが驚きを隠さずに、
「で、でも、どうしてかしらねぇ」
炎華がすかさず、
「犯人の動機は紙片に書いてある通りよ。不正融資事件とスイス銀行の秘密口座への不正送金が、犯人には許せなかったんでしょう」
婆さんが悲し気に、
「でもねぇ、何も殺すことはないんじゃないかしら、と、おばちゃまは思うんだけどねぇ」
炎華が紙片の最初に書かれている大きな文字を指さし、
「『ダモクレスの剣』が落ちた。と、大きく書いてあるわ。だから、犯人は階座巣回を刺し殺したのよ」
炎華が華奢な繊手を組み説明する。
「『ダモクレスの剣』に関する逸話を話してあげるわ。昔々、あるところに旅人がいたのよ。旅人は道に迷ったすえ、とあるお城にたどり着いた。旅人が一夜の宿を求めると、お城の王様は快く旅人を迎え入れてくれたのよ。旅人は王様の晩餐に招待され、素晴らしいご馳走や、音楽、踊りで歓待されたの。でも、旅人は王様の頭上に、高い天井の暗闇に吊るされた、キラキラ光る何かがある事に気づいたのよ。旅人は、とりあえず王様の歓待に感謝の言葉を述べ、王様の生活が羨ましい、と褒め称えた。そのあと、でも、あの天井で光る物は、いったい何ですか? と聞いたのよ。すると、王様が、私はそれほど羨ましがられる身分ではない、と言ったのよ。その理由は、豪華な料理には、いつ毒が盛られるか分からないし、音楽や舞踏の最中に、いつ投げナイフや弓矢が飛んでくるか分からない。いつ何時、謀反や反乱が起きて殺されるか分からない。国民を苦しめるような事があれば、すぐにでも、そのような事になるだろう。王様の身分という物は、決してすべてが安楽というわけではない。それゆえ、王は自分自身を常に戒めなければならない。私はいつも、あの今にも落ちてきそうな剣を見上げて、自分の頭上に鋭い切っ先が落ちて来ないよう、正しい行いをして、国民から剣を向けられないよう、自分自身を戒めているのだ、と話したのよ。旅人が目を凝らして天井を見上げると、確かにそれは切っ先鋭い、今にも王様の頭上に落ちてきそうな、立派な剣だったのよ。その王様の名前はダモクレス王というの。以来、権力者が自分自身を戒める時の言葉として『ダモクレスの剣』と言うようになったのよ」
婆さんが嘆息しながら、
「だから、犯人は『ダモクレスの剣』を被害者に落とした、という事なのねぇ」
炎華が首肯し、
「その通りよ。階座巣回は、カイザー航空が倒産しかけているのに、不正融資を行って、その金を自分のポケットにねじ込んだ。自分を戒める事が出来なかった。だから犯人は、その王様が絶対に許せなかった、というわけよ」
☆10☆
羽田空港に到着した機内に鬼頭警部が乗り込んで来る。
刺殺された階座巣回を見て、
「被疑者が死んでは、不正融資事件の捜査も無駄に終わった、という事なのだ。出来れば逮捕したかったのだが、残念でならないのだ」
炎華が鬼頭警部を励ます、
「今は頭を切り替えて殺人事件に集中すべきね、鬼頭警部」
「おお、炎華くん。せっかく君に階座巣回の事を頼んだのに、こんな結果になるとは、やはり、ロンドンまで警察の目を光らせておくべきだったのだ。大失敗なのだ」
「階座巣回が亡くなったのは仕方がないわ。ともかく真犯人の逮捕が先決よ」
鬼頭警部が気を取り直し、
「わかったのだ。まずは事情聴取からなのだ」
こうして取り調べが始まる。
婆さんが金切り声で、
「警部さん、警部さん、とにかく大変だったのよぉ! おばちゃまと炎華ちゃんが、おしゃべりをしていたらねぇ、そうしたらねぇ、怪しい男が前からやって来て、そうそう、その男は黒ずくめの、変てこな、モコモコした服を着てたのよねぇ」
婆さんが事件の経緯を簡単に説明する。
鬼頭警部がうなずきながら、
「すると、離陸した直後、午前二時過ぎに、目元を前髪で隠し、口元にマスクを着けた、怪しい黒ずくめの男が機内前方からやってきて、被害者のとなりに座った。階座巣回は不正融資事件に関する事が書かれた、この紙片を男から見せられ脅迫された。そのあと、男はゲームと称して奇妙な要求をした。その内容は、スチュワーデスの機内サービスが来たらコーヒーを頼むこと。階座巣回がコーヒーを手に入れると、男はそのコーヒーを奪い、自分が持ってきたコーヒーと取り換え、階座巣回に渡した。そして、それを飲み終わったら、カップをスチュワーデスに返却しろ、と、そう命じた。と、こういう事なのだね」
炎華が補足説明する。
「そうね。もう一つ、付け加えるとすれば、男からコーヒーを渡されたときに、階座巣回が動揺していたような気がするわ。まるで、ありえない物でも見るような、そんな目つきをしていたわね」
鬼頭警部の瞳がキラリと光り、
「それは、コーヒー以外に、何か、変な物でも入っていた、という事なのだろうか?」
炎華が肩をすくめ、
「さあ、そこまではわからないわ。ともかく、そのあと、一時間半、私とマープルおば様は、不覚にも寝入ってしまったから、その間に、犯人が犯行を犯した、というわけよ。私が目覚めた午前三時半には、階座巣回は心臓を一突きにされて死んでいたわ」
鬼頭警部が諦め顔で、
「なにしろ夜中の二時すぎなのだ。うっかり寝過ごしてしまっても仕方がないのだ」
炎華がさらに告げる、
「それと、警部が来る前に被害者の様子を調べたわ。役に立つかどうか分からないけど、階座巣回の口元に塗られたリップクリームが、少しだけ、唇からズレていたわ。理由は良くわからないけど」
鬼頭警部が思案顔で、
「たぶんリップクリームを塗っている最中に、犯人と出くわしたのだ。それで被害者が驚いて塗り損ねたと思うのだ」
炎華が思案顔で、
「そうかもしれないわね」
鬼頭警部が死んだ階座巣回のポケットをまさぐり、リップクリームを取り出す。
「まあ、その事はまたあとで、改めて検証するのだ。それより、関係者も集まったことだし、さっそく事情聴取を始めるのだ」
その前に、階座巣回の遺体が検死のために、静かに病院へと運ばれて行った。
☆11☆
乗客の事情聴取は後回しにして、機長、副機長、スチュワーデスの事情聴取が始まる。
鬼頭警部がオホンとせき払いをしながら、
「被害者のとなりに座っていた美墨さん、炎華くん。この二人の証言によると、離陸直後に、機内サービスのコーヒーを持った、怪しい男が被害者のとなりの席に座った、という事なのだ。男は被害者の不正を暴く紙片を被害者に見せ、被害者を脅したあと、持ってきたコーヒーを被害者に渡し、それを飲んだあとスチュワーデスにカップを返却しろ、そうすれば不正を暴かない、と、こう持ち掛けたそうなのだ」
鬼頭警部がスチュワーデスをジロリとにらみ、
「スチュワーデスさん。あなたは機内サービスが始まる前に、怪しい男にコーヒーを渡すとか、何か、怪しい男と接触するような機会がなかったですかな?」
スチュワーデスがガタガタ震えながら、
「ま、まさか、そ、そんな! 私を疑っているんですか、警部さん! 私はそんな怪しい男は一切知りません! 何かの間違いです! この誰の物でもない空のために! 誓って! 私は無実です!」
日焼けした顔に真紅の口紅が美しい、女性の副機長が苦笑を浮かべ、
「その子はスチュワーデスの中でも特に出来が悪くて、鈍くてトロイ亀ですから、犯罪に手を染めるなんてことは、とてもじゃないけど無理ですわ、警部さん」
スチュワーデスが思いっきり首を縦に振り、
「その通りです警部さん! あたしは鈍くてトロイ亀だから! 無理です! 無理です! 絶対! 無理なんでっ、す~っ!」
鬼頭警部が困ったように、
「いや、そう感情的にならずに、冷静に、一つ一つ検証していきましょう。まず第一に、スチュワーデスさんが機内サービスを始める前に、怪しい男はすでにコーヒーを手に入れていた、という事実があるのだ。となると、問題は事前にコーヒーを手に入れられる人物が、他に誰かいるのか? という事になるのだ」
副機長がしたり顔で、
「わたくしと機長はいつも、離陸直後にスチュワーデスからコーヒーをもらって飲んでいますわ、警部さん」
鬼頭警部が機長と副機長を見つめ、
「すると、お二方のどちらかが、そのコーヒーを客席に運んだ可能性があるのだ」
副機長が肩をすくめ、
「ですけど、わたくしは操縦席から一歩も出ていませんわ、出ているとしたら、機長、機長は確か、二度ほど、操縦席を離れて、トイレに行っていたはずです。それも、結構、長い時間、離れてた気がします。もちろん、わたくしの記憶によれば、ですけど」
四十代半ばで、髪をオールバックにした、いかにもベテランパイロットらしい、貫禄と誠実さを兼ね備えた壮年の機長が、腹に響く渋い低音で、
「ああ、確かに自分は、二時すぎと三時すぎの二回、トイレに行ったが、それは、いつも通りの習慣という奴ですよ。長いフライトになりますからな。パイロットなら誰でも、出せる時に、出しておくものですよ」
鬼頭警部が副機長に、
「副機長、機長が席を外したさいに、機長がコーヒーを持ち出したところを目撃していませんかな」
副機長がアップにした金髪をなでながら、
「機長のやる事をいちいち全部、見ているわけではありませんわ。コックピットの中は暗いですし、機長の手元だって、当然、見ずらいわけですから。コーヒーを持っていたかどうかなんて、わかるわけがありませんわ」
ううむ、と鬼頭警部がうめき、
「では、スチュワーデスさんにお尋ねするのだ」
スチュワーデスが目を丸くし、
「はぅっ! はいいいいいっ? な、何でしょうか!?」
鬼頭警部が相好を崩し、
「まあ、そう固くならないで、あなたは階座巣回にコーヒーを渡したあと、その後も、機内サービスを続けていたのですな」
スチュワーデスがブンブンと首を縦に振る。
「は、はい! そっ、その通りです!」
「では、機内を一周して戻った時に、階座巣回はどうされていましたかな?」
スチュワーデスが少し思案したあと、
「ああ! その時はまだピンピンしていました! 元気そうでした! はい!」
「怪しい男は隣りにいませんでしたか?」
「ええ。とくに、周囲に怪しい男の姿は見あたりませんでした」
「他に、何か変わったことはありませんかな?」
スチュワーデスが目をキョトキョト泳がせ、
「とくには、ありません。ですが、そういえば、たいした事じゃないと思いますが、飲み終わったコーヒーカップを階座巣回様から回収しました」
鬼頭警部がうなずき、
「それは何時ごろの事ですかな?」
「だいたい、二時二十分ぐらいの事です。機内をまわるのに、だいたい二十分ぐらいかかりますので」
「ふうむ。という事は、その後、階座巣回は殺害された。という事になるのだ。犯人はいったい、いつ階座巣回を殺したのか? それが問題なのだ」
その時、鬼頭警部のスマホが鳴る。メールが届いたようだ。
「むぅ、検死の結果が出たのだ」
鬼頭警部がメールを開き、内容を読み上げる、
「死因は心臓を一突きにしたナイフによる刺殺。即死と言ってもいいのだ。死亡推定時刻は午前二時から三時半のあいだ。スチュワーデスの話によると、二時二十分までは、被害者の生存が確認されているから、犯行は二時二十分から三時半までの間になるのだ」
副機長がニヤリと笑い、
「と、なると、機長は二時と三時過ぎの二回、トイレに行っているから、二回目のトイレに行った、三時過ぎに、被害者を殺害するチャンスがあった、ということですね」
機長が渋い低音で、
「そういう事になるかな、副機長」
スチュワーデスが、
「やめてください! 副機長! なんで機長が犯人みたいな事を言うんですか!」
副機長の表情が強張り、
「わたくしは機長が起こした、昔の事故の事を、いまだに忘れてはいませんからね。そして、この左手についてもです」
そう言いながら副機長が左手の白手袋を脱ごうとするのをスチュワーデスが押し止める。
「やめてください、副機長! そんな古傷を見せて今さら何になるんです! あれは不幸な事故だったんです!」
副機長が憎々しげに、
「いいえ、あの事故は機長の責任です。あの時、無理に嵐の空港に着陸さえしなければ、滑走路を外れて貨物車にぶつかるなんて事はなかったんです。そして、たまたま、その場にいたわたくしや、貨物車のドライバーが事故にあい、彼が今も眠り続ける意識不明の重体におちいるるなんて事はなかったんです。すべては、機長の判断ミスです」
その場の全員が、カイザー航空、嵐の難着陸事件を思い出す。
炎華があっさりと、
「そんな昔の事件の事は、どうでもいいから、他に何か、犯人に繋がる事実はないのかしら?」
炎華のまったく空気を読まないコメントに副機長が激高する。
「なっ! なんて言い草なの! 子供のくせに!」
逆上する副機長を鬼頭警部がなだめる。
「ま、まあまあ、落ち着いてください。今はカイザー航空社長の一人息子、階座巣回の殺害犯人を挙げるほうが先決なのだ。炎華くんは、こういった事件によく関わって事件解決の手助けを何度もしているのだ。子供の言うことだし、少しばかりの無礼は、大人の対応で許して欲しいのだ」
副機長が怒りをおさめる。
「警部がそう言うのならば仕方ありません。今回だけは、その子供を大目に見ます」
炎華が憤慨しながら、
「子供扱いはやめてちょうだい。私は雪獅子炎華……探偵よ」
副機長がいまいましげに、
「何が探偵ですか、子供に何ができるって言うんですか? 事件を迷宮入りにするだけじゃないの?」
捨て台詞を残し、空いている客席に座り込む。
婆さんが横から口をはさむ、
「まあまあ、子供のする事ですからねぇ、警部さんの言う通り、大目に見てやってくださいねぇ、それより機長さん、さっきチラッと見えたんですけどねぇ。あなた、その制服の下に、黒いシャツとパンツを着ていないかしら? 防寒対策でしょうけど、今年の冬は厳しいから仕方がないんでしょうけど、実はおばちゃまも、冷え性なのよねぇ、だから着ぶくれするぐらい着込んでいるのよねぇ。機長さんもそうなんでしょう?」
機長が制服のスソをめくりあげ、黒い長袖のシャツとパンツを見せる。
炎華が目を止め、
「伸び縮みする素材ね。それを制服の上から着れば、怪しい男のような、黒ずくめの、モコモコとした格好になるわ」
婆さんが我が意を得たり、といった顔つきで、
「ついでに、そのオールバックの髪を下ろしてくださるかしら? きっと男前になると、おばちゃまは思うのよねぇ」
機長が渋い低音で、
「そうですかな?」
と言いながら、あっさり髪を下ろす。
炎華が瞳を細め、
「似ているわね。怪しい男は、今の機長のように、前髪で目元を隠していたのよ」
スチュワーデスが絶叫する。
「な、何なんですか、あなたたちは! まるで、機長が犯人みたいな言い草じゃないですか! 証拠があるんですか! 機長が犯人だっていう証拠が! あるなら見せてくださいよっ!!!」
鬼頭警部がなだめる、
「まあまあ、そう怒らないのだ」
「怒ってません!」
食ってかかるスチュワーデスに、鬼頭警部があせりながら、
「じ、実はですな、検死の結果、ある重大な事実が判明したのだ。機長に有利になるような、重大な結果なのだ」
スチュワーデスが瞳を輝かせ、
「えっ!? そっ、それは、本当の事ですかっ!?」
「そうなのだ。機長のアリバイを証明する超・重要な事実なのだ」
炎華が興味を持つ、
「それは、私もぜひ聞きたいわね。どんな事実なのかしら?」
鬼頭警部が勿体ぶったようにせきばらいし、
「おほん、それは、こういう事なのだ」
おごそかに語りだす、
「検死で胃の内容物を調べたところ、コーヒーがほとんど消化されずに残っていたのだ。つまり、犯行は被害者の階座巣回がコーヒーを飲んだ直後に行われた、という事になるのだ。監察医の話によると、コーヒーを飲んで数分以内に犯行が行われたはずだ、という事なのだ。だから」
スチュワーデスがまたまた絶叫する。
「私がコーヒーを回収したのは二時二十分ごろ! その数分以内に犯人が被害者を殺害したとなると! 二時半ごろですわ! 機長が二度目のトイレに行ったのは、三時過ぎだから! 機長のアリバイが成立しますわ!!!」
鬼頭警部がうなずく、
「まさしく、その通りなのだ。機長には立派なアリバイがあるのだ。いくら見た目が怪しい男に似ていても、それだけでは、犯人扱いする事は出来ないのだ」
婆さんが困った顔つきで、
「あらあら、これは困ったことになったわねぇ。一昔前は、おしゃべり好きな素人おばちゃま探偵で有名だったけど、今回ばかりは、ちょっと、お手上げみたいだわねぇ。寄る年波には勝てないものねぇ。残念だわ」
炎華も無言である。
あらゆる状況は、機長が犯人である事を示している。
にもかかわらず、機長には完璧なアリバイがあるのだ。
その上、今のところ、証拠が何一つない。
我輩は猫ながら、炎華にヒントを出す事にする。
身体を乗り出し、空のミルク・カップを猫パンチ、
「フニャーオ、フニャン、ニャン」
床に落としたカップにじゃれつく。
炎華が我輩を見とがめ、
「あらユキニャン。こんな時に、空のミルク・カップで遊んでちゃダメよ」
炎華が空のミルク・カップを拾い上げ、スチュワーデスに渡す。
スチュワーデスがハッとし、
「ああ、空のミルク・カップの事をすっかり忘れていたわ。おばあ様とお孫さんが、あまりにもグッスリと寝ていたから、無理に起こすのが可哀そうになって、あとで回収するつもりだったのよ、ありがとう、お嬢ちゃん」
炎華が空のカップをジッと見つめながら、
「空のカップを回収……そう、ね。そういう事だったのね」
炎華の瞳に炎が宿る。
「空のカップと眠りこけていた私たち。犯人はその方法を使って、アリバイ・トリックを作りあげた、というわけね」
炎華が我輩を抱き上げ、
「ありがとう、ユキニャン。
《緋色の糸がすべてつながった》わ。
あとは、機長の手に証拠が残っているかどうか、確かめるだけよ」
炎華が機長に近づき、
「機長のおじ様、私、一度でいいからジャンボジェット機を操縦している人の手を見てみたいのだけれど、お願いだから、見せてくれるかしら?」
機長が鷹揚にうなずき、
「ああ、いいよ、お嬢ちゃん。名探偵らしく、虫メガネでも使って見るかい?」
周囲に笑いのさざめきが走る。
炎華は澄ました顔つきで、
「いいえ、裸眼で充分よ」
炎華が機長の指先を丹念に見る。
すると、爪の間にわずかだが、ジェル状の物が見える。
炎華が機長の腕をつかみ上げ、
「さすが、ジャンボジェット機を操縦するだけの手ね。だけど、この手で階座巣回も殺した。という事がはっきりしたわ。鬼頭警部。この指先に付いているジェルを押収して、慎重にお願いするわ」
☆12☆
鬼頭警部が慌てて、
「待つのだ炎華くん。機長には立派なアリバイがあるのだ。その程度の事で逮捕は出来ないのだ」
炎華が機長から離れ、
「最初から説明するわ。答えが分かれば、単純なアリバイ・トリックだったと、誰もが気づくわ」
スチュワーデスが再び、
「いい加減な事を言うと! お嬢ちゃんでも許さないわよっ!」
機長がスチュワーデスを制し、
「続けたまえ、可愛らしいお嬢ちゃん」
炎華が推理を展開する。
「機長はトイレに行くと言って、スチュワーデスから受け取ったコーヒーを操縦室から持ち出した。コーヒーの中身はトイレに流して捨てた。その後、怪しい男に変装し、空のコーヒーカップを階座巣回に渡し、例の取引を行ったのよ。コーヒーカップを渡された時、階座巣回が変な顔をしたのは、カップが空だったため。なにしろ、コーヒーが空なのに、
『コーヒーを飲み干して、スチュワーデスにカップを返却しろ』
と言われれば、誰だって変な顔をするわ。つまり、機内を一周して戻ってきたスチュワーデスに、元々、空だったコーヒーカップを返却したのよ。このアリバイ・トリックのみそは、その時点で階座巣回はコーヒーを飲んでいなかった、という事よ。そして、機長が二度目にトイレに行った時、午前三時すぎに、同じ怪しい男の姿で階座巣回のとなりに座ると、階座巣回が最初にスチュワーデスに頼んだコーヒーを持ち出し、今度は、
『それを飲め』
と命令したのよ。たぶん、それを飲んだら、今後一切、脅迫まがいの真似はしない、とか何とか言ってね」
機長が凍るような低音で、
「その後、私が殺害に及んだ、という事かね、お嬢ちゃん」
炎華が首肯する。
「ええ、その通りよ。機長は階座巣回がコーヒーを飲み終わった直後に、刺し殺してコーヒーカップを回収した。現場に例の紙片を残して立ち去る。最後にトイレで変装を解き、全ての証拠を隠滅したあと、何食わぬ顔で操縦席に戻ったのよ」
機長が重苦しい低音で、
「証拠を隠滅したとなると、証拠は何も無いはずなのだがね、小さな探偵さん」
炎華が燃えるような瞳で機長を見つめ、
「ところが、そうはいかないのよ。階座巣回はその夜、唇にリップクリームを塗っていたわ。その商品は今夜、発売されたばかりの新商品よ。機長、あなたは階座巣回を殺害する時に、念には念を入れて、階座巣回の口を手で押さえたのよ。うめき声一つ漏らさないようにね。私とマープルおば様が、となりで殺人事件が起きているのに、まったく気がつかなかったのは、そのせいよ。でも、そのために、機長の手にはリップクリームが付着した。もちろん、ゴム手袋をしていたから、そんな物がついているとは、夢にも思わなかったでしょうけど。トイレで変装を解き、ゴム手袋をトイレに流して処分する時に、ゴム手袋に付いたリップクリームが、機長の指先に付いたのよ。ごくわずかな量だから、機長も気づかなかったと思うわ。ところで、なぜ? 空の上にいたはずの機長の指先に、今夜発売されたばかりのリップクリームが付いていたのか? 私の説明以外に答える事が出来るのならば、ぜひ、その答えをお教え願いたいわ、機長」
機長の指先が細かく震える。
長い、長い沈黙のあと、ようやく、機長が重苦しい低音で、こうささやいた。
「どうやら私は、階座巣回に、
『ダモクレスの剣』
を落としたつもりでいながら、自分自身に、それを落としてしまったようだ。すべて、君の言う通りだよ、お嬢ちゃん」
スチュワーデスが再び絶叫する。
「機長! なぜです! なぜなんです! なぜ、こんなことをしたんですか? 機長!」
機長が晴れ晴れとした曇りのない瞳で答える、
「理由は、現場に落とした紙片に書かれている通りだ。世界中の航空会社が苦境に陥っているというのに、会社の金を横領し、のうのうと私腹を肥やす、何の苦労もしていない、お坊ちゃんが、私には絶対に、許せなかったのだ」
鬼頭警部が、
「その言葉は、あなた自身の、自白の言葉と解釈して、よろしいですかな? 機長?」
機長が重々しくうなずく。
鬼頭警部が機長の手に手錠をはめようとすると、炎華が二人の間に割り込み、
「その前に、一つだけいいかしら、機長」
機長が炎華を眩しそうに見つめ、
「まだ、何か、あるのかね、お嬢ちゃん?」
炎華がスカートをつまみ、優雅に会釈すると、
「一度でいいから、ジャンボジェット機の操縦室という物を見てみたいのだけれど、ダメかしら? 機長?」
機長が微苦笑を浮かべ、
「このジャンボジェット機の機長として、最後に、君の願いを許可しよう」
☆13☆
炎華が高層マンションの一室から夜景を見下ろす。
地上の星も夜空の星もキラキラと瞬いている。
その光の中で、雲海の狭間に消えてゆくジャンボジェット機の赤いテールランプが、美し尾を引いている。
炎華がそれを見つめながら、
「『願わくば、君の頭上にダモクレスの剣が落ちない事を祈る』あの日、最後に、機長がそう言ったのよ。ねぇ、ユキニャン」
「ニャウン?」
「いつか、私にも『ダモクレスの剣』が落ちてきて、誰かに殺されるのかしら?」
「ニャン、ニャ、ニャンハ、ニャン!」
(そんな事はない!)
と、我輩は高らかに鳴いたのであった。
☆完☆