婚約破棄への道⑥
ああ、きっと……きっとこの王子は泣いているのだろう、と野次馬生徒たちは思った。
しかしどっこい、ハリエットも王族に名を連ねるれっきとした王子、公衆の面前でめそめそと泣く姿をさらすわけにはいかないという自覚はある。それにこの男、あきらめの悪い性質でもあった。
きりっと王子モードに切り替わったハリエットは、指をパチンと鳴らして自分の隠密護衛を呼ぶ。
「はっ、ここに」
どこからともなく現れて主君の前に片膝をついた隠密にハリエットは命じる。
「昨夜、カルティエ家で何があったのか、調べろ」
今まで黙って事の成り行きを見守っていた野次馬たちがざわっと、ついに心の中に隠しておけなくなったつぶやきをこぼした。
「やばいぞ」
「ああ、ストーカー化したな……」
ハリエットが慌ててそのざわめきに応える。
「なっ、ち、違うぞ、断じてストーカーなどではない! 昨夜、食事を共にした時には、彼女はごく普通であった、それが今朝になって急にあの態度だ、昨夜のうちに何かがあったと考えるのが普通だろう!」
モースリンの急な変心が信じられない、その気持ちは野次馬たちにもよくわかる。何しろ野次馬たちは長年にわたって二人の温い恋愛を見守ってきたのだから、モースリンの方もクールにふるまうことでハリエットに対する恋心を隠している(つもり)なのを知っている。
それが今朝になって一転、きっぱりと婚約を解消すると言い出したのだから、そりゃあ誰だってびっくりするに決まっているし、ましてや当事者であるハリエットには同情もするが……
「いや、違うって、理由はどうでもいいのよ」
「自分がフラれたことが信じられずに密偵を放ってまでプライベートを調べようとする、その行動がストーカーなんですって……」
さらに大きくなるざわめきに向かって、ハリエットが返す。
「だって、『女神の加護』がどうのこうのって言ってたんだぞ、もしかしたら、その影響かもしれないじゃないか!」
ざわめきが「うわぁ……」一色に染まる。何しろ他家の『女神の加護』は、下着の色レベルの秘匿事項である。これを密偵を放ってまで調べようというのは、感覚的には『別れを切り出された腹いせに下着ドロをしに行く』くらい下品な行為である。
しかし主君の前に膝をついた隠密は、こうしたハリエットの奇行にすっかり慣れきっていた。
「本当に『女神の加護』の影響であった場合は、いかがいたしますか?」
それが言外に「まさか女神にケンカ売ってまでモースリン嬢と付き合うつもりじゃないですよね」というニュアンスを含んでいることに気づいたハリエットは、きりっと表情を引き締めて王子の威厳をぶわわわわっとあふれさせながら顔を上げた。
「たとえ女神に逆らうことになろうとも、この思いは止められない……」
婚約者というしがらみを壊されたのだから、ハリエットにとってのモースリンは『いずれお嫁さんになる女性』ではなくなった。つまり『ただの幼馴染』としてモースリンのことを考えてみる余裕ができたわけだ。
もしもモースリンが婚約者ではなく、普通に出会った幼なじみだったら--ハリエットはすでに、その答えを見つけている。
答えは「たらればの話なんかしても意味はない」だ。過去はどうあがいたって変わるわけじゃない。
確かに二人の始まりは政略によって結ばれた婚約だったけれど、いま現在、ハリエットは間違いなくモースリンを愛している。この事実だけは絶対に変わらない。
「そうだ、『婚約者として』じゃない、ただ一人の男として、俺はこの思いを彼女に……伝えたいっ!」
声高らかに宣言して、ハリエットは密偵に命を下した。
「いいか、私はモースリンの心を得るべく、『プロポーズ大作戦』を今から敢行する、その障害となるものはすべて排除したい、それがたとえ『女神の加護』であってもだ。その点留意してよくよく調べ上げてくるように」
「御意」
こうして、ハリエットのプロポーズ大作戦が始まった。
それがモースリンを追い詰めることになるとも知らずに……