婚約破棄への道⑤
それに答えたのはモースリンではなく、なにやら書類の束を抱えて馬車から降りて来たビスコースだった。
「おそれながら、それについては私から説明させていただきます」
彼の声音の冷たさに、ハリエットが大きく身を震わせる。
「ど、どうしたんだ、その……口調が……」
「ああ、これからは『他人』になるのですから、けじめですよ」
「他人って……」
「『妹の婚約者』ではなくなるのですから、他人でしょう?」
ハリエットは、これが冗談とかビックリとかドッキリとかの類ではないことを知った。
「まさか……本気なのか、ほんきで、その……」
「ええ、婚約解消ですね。本気ですよ。これ、婚約解消の準備のための正式な書類です。あと、私の退職届と……」
「退職ぅ?」
「はい、妹と破談になるのですから、私がおそばにいる必要はありませんよね(にっこり)」
「ちょっと待って、展開が早すぎる……」
ハリエットはこの時、この瞬間まで、この婚約が破談になることはないだろうと信じていた。本人たちの気持ちはともかく、ハリエットとモースリンの婚約自体は百パーセント政略によって仕組まれたものであり、その破婚は『当人たちだけの問題』にとどまらない。
というのもカルティエ家は隠密や諜報といった『国家の闇』を取りまとめる影の実力者であり、その気になれば王家を覆すことも可能な程度の力がある。わかりやすく言うならば御庭番衆の頭領であり、手駒として動かせる隠密も抱えているし、あちこちにコネクションもあるから、表立って見えないだけで国内有数の軍事力を持っているということ。王家としては絶対に敵に回したくない相手だ。
今は大人しく王家に与しているけれどいつ反旗を翻さないとも限らない、むしろ逆心ある者は常にカルティエ家を掌中に収めようと画策している。ならば王家に反意なしということを対外的に広く知らしめるために娘を嫁として差し出せという、これは人質としての婚約であった。
それを解消するということは--ハリエットが王子モードに切り替わる。
「まさか、王家を裏切るというのか!」
しかしビスコースは眉一つ動かさない。
「裏切るつもりはありませんよ。そのためにカルティエは正式な国属軍として王家の軍門に降ります。その書類がこれね」
「だって……」
一瞬、弱気になりかけたハリエットだが、クククッと眉を吊り上げて王子モードを維持して食い下がる。
「しかしそれは、娘を嫁がせる以上の抑止力にはならないだろう。あわよくばカルティエ家の娘を娶り、婿として入り込もうという不逞の輩を生むのでは?」
「カルティエの『本業』はご存じでしょう? そうならないように各方面に根回ししてありますのでご心配なく、それ関係の書類も、これ、この通り」
「なぜだ、なぜ、今更になって婚約を解消しようとする!」
ビスコースは黙って、ジーッとハリエットの顔を見た。あからさまに「言う? いいけど、お前、ショック受けるよ?」と言いたげな顔だ。
しかしハリエットは王子モードを崩さず、ぐっと下腹に力を込めて低い声で言った。
「よい、申してみよ」
「では恐れながら……そもそもがこの婚約、当家ではモースリンの意向を尊重するという方針でしたので」
「意向……」
「つまり、モースリン本人が嫌だと言えばカルティエ家の権力武力権謀術数を総動員して安全かつ平和的に婚約を解消すること、これが最初から決まっていたのですよ」
「つまり、わかりやすく」
「よろしいのですか?」
「構わぬ」
「ぶっちゃけモースリンが別れたいって言い出したからウチは家族全員これに協力するよってことですね」
ついに、鷹揚とした王子スマイルが消えた。不遜なほどの自信も消えた。ハリエットの王子モードは完全に崩壊した。
「つまり……俺は……フラれた……のか」
「ですね」
ビスコースは書類の束をグイグイとハリエットに押し付けるが、彼はそれでもなお、諦めようとはしなかった。
「俺は信じないから。モースリンの口から直接聞かない限り、破婚なんてしないから」
「仕方ないですね……モースリン、言って差し上げろ」
モースリンは、まだ少し怯えて震えていた。いつもなら露降りた朝咲の薔薇のように瑞々しい唇も、今はすっかり青ざめてかさついて見えた。
「あ……わたくし……」
「うん、モースリン、私、なに? 僕との婚約を白紙に戻したいなんて冗談だろう?」
「いいえ、その……」
「いいえ? そうだよね、婚約解消しますか、いいえって意味のいいえだよね? そうでしょ?」
「ですから……」
「だいたい、僕らがいまさら婚約解消なんかしたら大変だよ、国交とか国内情勢とか、そういういろんなところに影響が出ちゃうよ、ね、婚約解消なんてしないだろ?」
ハリエット王子、なかなかに諦めが悪い。必死すぎるほど必死だ。
「いいかい、モースリン、僕たちの婚約は僕たち二人だけの問題じゃないんだ」
ついにモースリンがキレた。
「いいから少しお口を閉じてくださらない?」
「はい」
ハリエット必死の説得は無駄に終わった。モースリンは存外にしっかりとした口調で言った。
「どうか前向きに、婚約の解消をご検討ください」
「どうしてっ!」
「だって、イマドキ政略結婚とか流行りませんもの」
「いや、でも、国内のパワーバランスが……」
「それは父と兄が処理してくれました。たしかに王家とカルティエの婚姻は国内の反乱分子に見える形での抑止力にはなりますが、それだけのこと、他にもやりようはありますのよ?」
政略側からのアプローチではモースリンの心は動かせないらしい。ハリエットはアプローチの方向を変えることにした。
「君はっ! 17年も一緒にいたのに、俺にカケラほどの情もないのか!」
ほんの一瞬、モースリンが眉尻を下げた。
「情……」
それが何の感情だったのか……ハリエットにはわからなかったが、なにか複雑なものであるということだけはわかった。
しかし、その戸惑いの表情をすぐに消したモースリンは、いっそ冷たいくらいに沈んだ声を出した。
「情はありますわ、私だって人間ですもの。でも、それが男女の情であるかと問われると、はて」
「俺はあるぞ、男女の情!」
「本当に? 落ち着いて、よく考えてくださいませ、それって、小さなころから婚約者だと言われて育ったから、勘違いしているだけではなくて?」
「勘違い……?」
ここで「よく考えろ」と言われれば、実際によく考えてしまう素直さが、この王子の美点でもある。ハリエットは顎に手を添えて、自分の中にあるモースリンへの気持ちを追いかけてみた。
モースリンに初めて会ったのはいつの頃だったのか――まだおしめも取れない頃から決められた婚約者だったのだから、物心ついた時にはすでにモースリンが隣にいた。だからといって妹だとか、妹のような存在だと思ったことは一度もない。ハリエットにとってモースリンは、最初から『いつも隣にいてくれるきれいな女の子』だった。
それでも小さいころは子供同士、年相応に『兄妹のように』育てられた。ハリエットはこれが不服だった。
「君は僕の妹じゃなくて、お嫁さんになってくれるんでしょ」
そう言って、庭に咲いた花を手折ってはせっせとモースリンの髪に挿す――もちろん晩熟なハリエットが『お嫁さん』という概念を正しく理解していたかどうかは知らないが、ともかくモースリンはハリエットにとってこの世でたった一人の『特別な女の子』だった。
だから、少し大きくなって『お嫁さん』というものが、妻として生涯隣にあってくれる女性のことだと知ったときには、うれしくて奇声をあげて王宮内を走り回った――思えばハリエットの『奇行』の始まりはここであった――。
思春期になって、『お嫁さん』とは閨の相手であると知った時には、モースリンとのあれやこれやを妄想しては奇声を上げてベッドの中で身悶えた。
さらに成長して、『お嫁さん』とは老後も共に過ごす相手だと知った時には、いずれ来る老後に備えて別邸を建てたりもした。
かよう、ハリエットの『奇行』の中心にはいつもモースリンの存在がある。
だが、あらためて考えてみると、それは全て『いずれお嫁さんになるひとである』という前提あってのことだったかも。もしもモースリンが婚約者などではなく、普通に出会っただけの幼なじみだったら、自分は彼女のことをここまで大切にしただろうか……
そんなことをクソ真面目に考えた後で、ハリエットは結論を出した。
「勘違いじゃない、好きだ、モースリン、愛しているんだ」
しかしモースリンは、そのひとことさえも斬って捨てた。
「それは、あなたがまだ『真実の愛』をご存じないからですわ」
「真実の……」
「ええ、ええ、真実の愛。きっとあなたは、もうすぐそれに出逢うことでしょう。その時、私との婚姻が政略のために結ばれただけの偽物の愛情だったと、あなたは気づくはずです」
「勝手に決めつけるんじゃない!」
と、怒鳴ったところで、ついにハリエットの王子モードがきれた。とある、恐ろしい可能性に思い当たったからだ。
「まさか……モースリン、きみは……その、真実の愛とやらを見つけたのか……」
モースリンはこの言葉の意味を拾い損ねたのか、しばらく目をぱちくりとさせて立ち尽くしていた。しかしすぐに、それが「他に好きな人ができたのかい」という含みを持った言葉であると気づいたらしく、慌てて首を横に振った。
「ま、まさか! 私がそんな軽い女だと思って?」
「やだ……いやだよ、モースリン……俺を捨てないで……」
ハリエットは両目にたっぷりと涙を含ませてモースリンにすがろうとするが、彼女は軽く身を引いてそれをよけた。
「ええい、埒があきませんわ」
モースリンがぐっと胸を張る。それから朗と響き渡る声ではっきりと言った。
「ともかく、私は協議のうえ、穏便かつ平和的にこの婚約を解消することを望んでおります!」
「理由! 理由は!」
「今はまだお聞かせすることはできません」
「なぜ!」
「しつこい!」
「きゃいん!」
叱られた子犬のようにうなだれるハリエットを見るモースリンの目には、涙がたっぷりと溜まっていた。口元はいまにも零れ落ちそうになる言葉をこらえるみたいにきゅっとかみしめられていて、少し怒っているみたいな表情だった。
「……っ!」
そのままモースリンは何も言わず、ハリエットに背を向けた。
「モースリン……」
弱々しく呼ぶハリエットの声にも振り向かず――ハリエットは、自分が最愛の婚約者に捨てられたのだと知った。