救いの雌豚 7
――ああ、この光景、夢で見たわ。
モースリンは深い深い闇の底に向かって落ちてゆきながら、予知夢で見た光景を思い出していた。今まで速水色の霧に覆われたように曖昧な記憶しかなかったが、あれはやはり、自分の死の瞬間をつぶさに見せる予知夢だったのだ。
モースリンは、この闇の底にハリエットの『本体』があることを知っている。底に降りた後、どうすれば彼を救うことができるのかも知っている。
そして――彼を救う代償として自分の命が潰えることも知っている。
ふと、耳元で誰かの囁く声がした。
『いいの? あなた、死ぬわよ』
多分それは、予知夢を与えてくれた女神の声だったのだろう。だけど、モースリンはひとつとして迷うことなくつぶやいた。
「いいの、だって、彼を失った未来なんて無意味だって、気づいちゃったんだもの」
『そう』
女神の気配が遠ざかるのを感じると同時に、足裏にふわりと床が触れる気配があった。どうやらここが闇の底であるらしい。
「覚悟ならできてるもの」
誰に聞かせるともなくつぶやいて、モースリンは闇の向こうに顔を向けた。
これまでの夢の中でモースリンが死の運命を回避できたのはたったの一回――老いた自分が家族に看取られて幸せな死を迎える姿を見たあの一回きりだ。
だが、それは決してモースリンの心を満たしてはくれなかった。むしろハリエットがいない人生が自分にとってはいかに無意味で惰性的なものであるのかを思い知らされる、そういった類の夢だった。
あんな人生ならば生きていても死んでいても変わりない、だったらハリエットを助けるために命を捨てても少しも惜しくはないと、そう思ってここにきたはずなのだが……モースリンはもうすでに、ちょっと後悔しはじめていた。
というのも、ここまでくるとハリエットの『本体』から何らかの精神が溢れだしているらしく、闇の中に両手で抱えるくらいの光の球がいくつか浮かんでいるのだが、その光の球がどうやらハリエットの妄想の産物であるらしいことに気づいてしまったからなのだ。
またひとつ、ふわりと顔の前に現れた光の球の中を覗き込んで、モースリンは頬を真っ赤に染めた。
「なんてものを妄想してるのよ!」
光の中に浮かんでいるものは、町家風の粗末なドアを開いて誰かを出迎えるモースリンの姿だった。モースリンが恥じらいながら見上げている『誰か』の視点で観測されていることは明らかだ。
「お帰りなさい」
観測者の目線が赤く紅を引いた唇にうつる。さらには不埒にも愛しい『妻』の全身をじっくりと舐め回すように動く。
妄想の中のモースリンは真っ白なエプロンをつけていた。しかしその下は何も身につけていない、つまりは裸エプロン――。
「お風呂にします? ご飯にします? それとも、わ♡た♡し?」
あまりにもハリエットの願望がすぎる妄想にイラついて、モースリンは光の球に手を突っ込んでわしゃわしゃと乱暴に掻き回した。
「なっ、なんてカッコさせてんのよ、私に!」
そんなことをしても実体のない光の球には、何のダメージも与えられないのだが。
「ああ、もう、耐えらんない! 殿下! どこにいるんですか、殿下!」
足取りも荒く光の球の間を歩くモースリンは、やがて、一つだけ毛色の違う光を見つけた。
それはそこにあるどの光の球よりも大きくて、モースリンの背丈と同じくらいの大きさがあった。そして、中に映し出されている光景は観測者視点ではなかった。
光の中に見えたのは、まだ男女の仲も知らぬ幼いハリエットとモースリンが寄り添いあっている光景だった。モースリンの記憶が確かならば5歳の頃の、この城の庭先での光景だ。
幼いモースリンがハリエットの名を呼ぶ。
「ハいエットちゃま?」
幼いハリエットの方はデレデレだ。
「違うよ、ハリエっちょ……」
「ふふふ、殿下も言えてないじゃない」
「そうか、難しいし、長いよね、僕の名前。じゃあ、ハリーって呼んで」
「ハいー?」
「うふふ、言えてないよ、ハリーだよ」
「ハにー」
「ああ、もう、それでいいや、これからはそう呼んで」
「でも、フケーになっちゃうよ」
「不敬ね、いいんだよ、僕が許したんだから」
「いいの?」
「ああ、いいよ、だって、僕たちはその……婚約者なんだし」
小さな恋人たちが顔を寄せあってクスクスと微笑む姿は、間違いなくモースリンの記憶の中にもある幼い日の思い出の一コマだ。だからこそ彼女は確信した。
「これが本体!」
他の妄想が裸エプロンだったり、いかがわしい下着姿だったりといかにもあからさまにハリエットの妄想であるのに対し、これだけが純粋でキラキラした思い出の一コマだというのが何よりの証拠だ。
モースリンは躊躇うことなく光の中に足を踏み入れた。




