救いの雌豚 6
黒い霧がふわりと漂って、光の柱に割かれて消えた。
階段を降りた先はそっけない石柱を何本も立てて天井を支えただけのだだっ広い空間だった。たかだか3メートル四方しか照らせない光の柱の中からでは、低い天井と柱の一部しか見えない。
闇色の霧はますます濃く、ねっとりとした粘り気を帯びて光の柱の表面を舐め回す。
カエデが「はぁん」と悩ましげなため息をつくから、一同は驚いてびくりと身を震わせる。
「どうしたの!」
「辛いのか? やっぱり、これだけ呪いが濃いと、聖女の力でも……」
しかしカエデは大きく身をくねらせて、あろうことか、かなりな下ネタを口にした。
「すっごい濃ゆい〜」
シープスキンが鎖をたぐりながら邪悪な笑みを浮かべる。
「どうやらまだまだ余裕があるみたいだね」
「ブヒィイイイン♡」
「ここから先は、そんなふざけた態度だと死ぬよ?」
その言葉を裏付けるかのように、広い地下のどこからか悲鳴が上がった。
「何、この声!」
悲鳴は低い天井に、そして石造の柱に不規則に反響する。
それがぴたりと止まり、そして――漆黒の闇の中に突然、男の顔だけが抜いたように白く浮かびあがった。
「くっ!」
ことに動じないモースリンでさえ、驚いて腰の短剣を抜くほど唐突に。
しかしカエデとシープスキンはさほど驚くこともない様子だった。
「うわ、キュッピーじゃん〜」
「うわ、本当にそんな恥ずかしい愛称呼びしてるんだ〜」
そう、闇の中に浮かんだ顔はこの国の最高神殿主であるキュプラのものである。
「キュプラ猊下が何故ここに!」
コットンが驚くのも無理はない、相手はこの国のもう一人の最高権力者であり、王家とは天敵のはずだ。まず自分から王城を訪れるとは思えない。
その疑問に答えてくれたのはシープスキンだ。
「ああ、これ、呪詛返しに失敗したんだよね」
呪いの類は解除すればその効果が術者に跳ね返る。ということはつまり、この神殿主がハリエットに呪いをかけた本人なのだ。そう気づいた途端、モースリンは身を焦がすような激しい怒りを覚えて短剣を構えた。
「この男、潰す!」
「その必要はないでしょ、もう潰れているようなものだもの」
シープスキンの言葉で少し頭の冷えたモースリンは、その男の体がないことに気づいた。暗闇に隠れて『見えない』のではなく、闇色の霧に頭部が弄ばれているだけで、およそ胴体というものが『存在しない』のだ。
首は闇色の霧の中を転がりながら上になったり下を向いたり、時にはけたたましい悲鳴をあげたりして、いっときもじっとしてはいなかった。
「うわっ、気持ちわるっ」
思わずそう叫んだコットンは悪くない。美形の生首なんて、それだけで精巧な作り物みたいな変な不気味さがあるのだから。しかもそれが生気のない目つきでふわふわと闇の中に浮かんでいるのだから、誰がどう見たって気持ち悪いに決まっている。
シープスキンは光の端っこギリギリまで顔を寄せて生首を観察した。
「ああ、どうやら胴体の方は吸収されちゃっているみたいだね」
「吸収?」
「ハリエットに、さ」
その声が聞こえていたみたいに、光の向こうに蟠る闇が動いた。
「モースリン、聡い君なら気づいているんだろ、これがハリエットだ」
シープスキンが指差す向こうにあるのは、ただ黒く深い闇――ただの闇ではなく、深い霧に紛れて闇色の『何か』が潜んでいる気配がある。
それが突然、闇の中からシュルシュルと音を立てて飛び掛かってきた。しかし光の柱に触れると、まるでガラスの壁にぶち当たったみたいにドンと音を立てて動きを止める。
だがモースリンは、最初っからわかっていたかのように動じなかった。
「そう、これがハリエット様なのね」
それは身の丈三メートルほどの闇色のスライムだった。実体というには頼りないものの、その体は霧ではなく半液体状であるらしく、光の表面にずるずると張り付いて蠢く。
チャポンチャポンと体を揺らす水音の合間には、微かなうめき声が混じる。
「モー……スリン……モース……リン……」
化け物に成り果てても愛しい女の気配はわかるのだろうか、その粘性の生き物は光の中にいるモースリンに近づこうとしているかのようだった。
「あああああああああああ! もぉおおおおすりぃいいいん!」
どうやら濃厚な呪いを纏う身には光が物理的な壁として作用するらしい。光の壁を引っ掻き、身を大きくよじって、『それ』が暴れ回る。闇の中からは石造であるはずの柱が軋む音がして、天井から石のかけらがパラパラとこぼれ落ちた。
コットンは落ちてくる石塊を払いながらモースリンの身を抱き寄せた。彼女は護衛なのだから、こうした場で主人を守るために己が身を差し出すことに躊躇いなどない。己以外にはさらに躊躇がない
「このままでは天井がもたない、早くその雌豚を放り込んでやれ!」
そしてシープスキン、カエデを道具扱いすることには一切躊躇などないようだが、親友であるハリエットとモースリンを無駄に危険な目に遭わせるつもりはない。
「だめだ、せめてもう少しハリエットとしての自我を取り戻してくれないと、今の状態では生の魔力同士のぶつかり合いみたいなものだから、間違いなく魔力爆発が起こる!」
すっかり雌豚として調教されたカエデは、なんだかわからないけれどひと声鳴いた方がいいかなと思ったらしい。
「ブヒイ!」
混沌だ。黒一色で塗りつぶされている分、光の柱の外の方がまだ落ち着いている。
「ハリエット、僕の声が聞こえるかい、ハリエット、モースリンを連れてきたから、わかるだろ、モースリンだ!」
「ちょっと、うちのおじょうさまをどうするつもりですか、危ないでしょ!」
「ブヒイ!」
いや、むしろ騒乱。
「頼む、ハリエット、少しでいいから正気に戻ってくれ! ほら、モースリンだぞ、今の姿では、彼女を抱きしめることすらできないだろ?」
「だから、うちのおじょうさまを前に出そうとするなってんですよ! 危ないでしょうが!」
「ブヒ、ブヒイ!」
その混乱を破って、モースリンが声を上げた。
「おだまんなさい!」
途端に一同、背中に竹尺を突っ込まれたみたいにピシッと飛び上がる。
「「ハイっ!」」
「ブヒィ!」
「いいですかっ、本当にハリエットを助けるつもりがあるなら、一つだけ有効な作戦があります!」
モースリンは王家に嫁ぐ身ゆえに『稼業』から遠ざけて育てられたが、それでも自分の才覚と努力だけでカルティエ家随一と言われるほどの隠密技術を身につけた、カルティエ家の血を色濃く継ぐ、カルティエ家の『隠密姫』だ。そのモースリンが立てた作戦を疑う者などいない。三人ともが黙ってモースリンの言葉に耳を傾ける。
「まずはコットン、あなたは少しの間、大人しくしていてね」
モースリンは、まずは手刀でシュットンしてコットンの意識を奪う。それからシープスキンに向かって確認を。
「ハリエット様がもう少し正気なら、その雌豚ちゃんの力で呪いを消せる、そういうことね?」
「そうだ、だから、君をここに連れてきた」
「そのお役目、喜んで引き受けましょう」
「ブヒイ!」
「雌豚ちゃんは黙ってて!」
「あああん♡」
モースリンはシープスキンの手の中から鎖を奪い、ジャラッと音立てて引く。鼻先が触れ合うほどに顔を寄せられたカエデが、「はふうん」と悶えた。
「ああっ、乱暴にされるとキュンキュンしちゃう」
「なにこの変態……」
「刺さるような蔑みの眼差しっ! たまらないぃぃ!」
「ああ、なるほど、こういうのがお望みなのね」
喉に首輪が食いこむほど強く鎖を引いて、モースリンはうっすらと笑った。
「あんたは道具だからね、何にも考えなくていいわ、道具としての役目をまっとうしなさい」
「あああああっ、人としての尊厳がぐりぐりと踏み躙られている!」
「これでいいわね、シープスキン、この道具の使い道はあなたに任せるからね」
モースリンは彼女をつなぐ鎖の端をシープスキンに返した。
「それで、君はどうするつもり?」
戸惑いの表情を浮かべるシープスキンに向かって、モースリンはにっこりと華やかに笑って見せた。
「こうするのよ」
モースリンは全くなんの前触れもなく、光の柱から飛び出して闇の中に身を投じた。予知夢で見たのと同じ、なにも見えないほど黒い闇が彼女の視界を塞いだ。




