救いの雌豚 5
ただの真っ暗闇ではない、黒い霧が視界を塞ぐのだから、たとえば手を差し込んだら何に触れるかわからないような暗闇なのだ。そんな中で、カエデの発する光の中だけが霧のひとつもない清浄な明るさに満ちていた。その光を発しているのは清浄とは程遠い、赤い首をつけた雌豚なのだけれど。
シープスキンは時々、その雌豚の尻をぱしんと小気味良い音を立てて叩いた。側から見れば暴力的な行為であるが、どうやら雌豚にとっては何より甘美な褒美であるらしく、「ああん♡」という甘い声が彼女の口から漏れる。
そうして雌豚には褒美を与えながらも、シープスキンはいっそ理性的であった。
「この霧、ハリエットの体から出てるんだよね。というのも、ハリエットは呪いを受けてさあ、今や、呪いそのものみたいな存在になっちゃってるんだよね」
モースリンが冷たいくらいの冷静さでそれに答える。
「やっぱり、そうなのね」
「あれ、驚いたりしないんだね」
「ある程度、予想はしていたから」
モースリンの冷静さは揺らがない。どのくらい冷静かというと、突然闇を割って光の中に飛び込んできたゾンビ兵を、表情ひとつ変えずにノールックでシュットンするくらいに冷静で。
「ハリエット様は、もう人の形をしていないのでしょう」
「あ〜、そこまで知ってるんだ」
「知っているというよりは、この状況を見て確信したのよ……」
モースリンが思い出したのは漆黒ただ一色の中を彷徨うあの予知夢だった。他があまりに生々しい現実感を持つ夢であったのに対し、それだけがあまりに抽象的なのがおかしいとは思っていたが――こうして漆黒の中を彷徨うことを現実の行為として体感している今、あれもやはり現実を切り取ったものだったと、はっきり自覚したのだ。
「この霧がハリエット様の体から出ているというよりは……この霧自体がハリエット様そのものよね、違う?」
「そこまでわかっているなら、もう説明はいらないかな」
「ううん、ひとつだけ説明してほしい。ここまで人間じゃなくなったハリエットを元に戻す方法なんてあるの?」
「ああ、それ、うん」
今まで冷静だったシープスキンの顔に僅かな動揺の色が混ざったのを、モースリンは見逃さなかった。
「この呪いって闇魔法をアレンジして組まれたものらしくってさ、呪いの本体っていうか、核っていうか、そういう部分にこの雌豚の光魔法をぶつけたら反発して呪いが剥がれるんじゃないかなって、これ、魔導研究員が言ってたことなんだけどね」
無駄に饒舌なその様子に、モースリンはそれが嘘であることを確信した。
(呪いは確かに剥がれるかもしれない、でも……)
「いや、もしかしたら、魔力同士が反発しあって、爆発する可能性もあるって、これも魔道研究員が言っていたことだけどね、そんなことは本当に低確率でしか起こらないって、ほぼほぼ確実に呪いは引き剥がせるだろうって」
おそらくは逆、何事もなく呪いが引き剥がせる可能性の方が低いだろう。そして、魔力同士が反発しあって爆発を起こした場合、その爆心地である『呪いの本体』は、まず間違いなく無事ではいられない。
「つまり、博打よね、もし魔力が爆発したらどうするつもり?」
「だから、その確率は低いんだって」
「それでも、万が一ってこともあるじゃない?」
「ないよ、万が一なんて、絶対にない、君がいれば」
それは、思わぬ力強さのある一言だった。
「あいつは、君を傷つけるようなことはしない、絶対に。だから、君がいれば万が一にも魔力爆発なんて起きるはずがないんだ……絶対に」
その後で、彼は取り繕ったかのようにヘラリと軽薄に笑った。
「まあ、もしも魔力爆発が起きてもさ、君らぐらいなら僕の転移魔法で助けてあげるから、な〜んにも心配いらないよ」
「そう」
色々と言いたいことはあったが、モースリンは何も言わなかった。ちょうどタイミング良く闇の中から飛び掛かってきたゾンビ兵をシュットンして無言になる。
(そうか、シープスキンは知らないのね)
予知夢はもうひとつ、ハリエットを全く傷つけることなく助けることのできる道を示唆していた。もちろん、その代償としてモースリンは命を落とすことになるのだけれど。
モースリンは元々が闇の魔力を持っているのだから、その体は闇属性の魔力をしまう入れ物として優秀である。たとえば闇属性の呪いを体内に取り込んだからといって、それを表に漏らすことはないだろう。
だが、一城を覆うほどの質量ある魔力を体内に取り込むのだから、全くの無事でいられるわけがない。しかも呪いという形にアレンジされている魔力が、それを取り込んだモースリンの体にどんな影響を及ぼすことか……
(それでも、ハリエット様が助かるなら!)
ハリエットは決意を込めて目の前に深く横たわる闇を見つめた。この先には地下室に向かう階段があったはずだ。
「この先に、ハリエット様が、いる!」
モースリンは躊躇うことなく闇に向かって足を踏み入れた。コットンは黙ってその後ろについた。
「ちょ、待って、置いていかないで」
シープスキンはジャラリと鎖を引きずって後を追う。その鎖に繋がれた雌豚は四つん這いになって、階段に足をかけた。




