モースリン、ちょっとだけ壊れる 2
これを聞いたカルティエ卿は驚いて、バァン!とテーブルをたたいて立ち上がる。
「ダメだぞ! 流石にダメだ!」
「大丈夫ですわ、誰にも見つからないように忍び込んで、誰にも見つからないうちに帰ってくる自信はありますもの!」
「まあ、確かにそうなんだろうが……」
なにしろモースリン、生まれた時から王家に嫁ぐことが決まっていたせいでカルティエ家の稼業から遠ざけて育てられたが、生まれつきの才能だけなら次期当主である兄よりも上だと言われている。誰にも教わらず身を隠す術を覚え、見よう見まねで暗殺術をマスターし、その上にハリエットの身を守るためにと覚えたさまざまな職能を使いこなす、その隠密術を持ってすれば王城の警備を掻い潜るくらいは朝飯前であろう。
だが、仮に一国の中心である王城に気楽に不法侵入されるのは、さすがにまずい。
「ほら、色々と信用問題とかもあるから、本当にやめて」
「そんな大事には致しませんわ、ちょっと王子殿下のお加減を見て、ちょっと寝顔を見るだけで帰ってきますもの」
「だから、それをやめてって言っているんだよ、これだけ情報が秘匿されているということは、間違いなく王家のトップシークレット、もしかしたら、最悪、王子殿下は既に……」
カルティエ卿はわざと言葉を濁したのだが、モースリンはそこに含まれた意味を正しく読み取って、ワッと泣き出した。
「そんな……そんなはっきり言わなくったって!」
「え? ええ? ちゃんと言葉濁したよね、『死んだかも』って言わなかったよね?」
「言った! いま言った!」
モースリンがわあわあと声を上げて泣き伏せるのを見て、使用人たちが「あ〜あ」と声を上げた。
「今のは旦那様が悪いですわ」
「そうですね、私もそう思います」
「きっとお嬢様もそれが不安で王城に行くとか無茶を言い出したんでしょうに」
「火に油」
夫の味方であるはずの妻でさえズバッと。
「あなたが悪いわね」
カルティエ卿はオロオロっと辺りを見まわす。
「わっ、私が悪いのか?」
一同全員誰一人残らずが深く頷いた。
実際にモースリンが無茶を言い出したのは、自分が運命を変えた代償としてハリエットの身に不幸が起きたのではないかという不安が、どうしても抑え込めなくなったからだ。実際にハリエットに会ってどうにかこうにかしようという企みは建前で、モースリンはただ、彼が無事であるということを確かめたいだけなのだ。
「お父様、そこを退いてくださいませ! 私、どうしても行きますから!」
モースリンが跳ね上げたスカートの下、スラリと白い太ももに巻いたガーターベルトには、細身のナイフが五本刺さっていた。
「い、いかん! ナイフを抜かせるな、かかれ!」
カルティエ卿の怒号とともにいち早く飛び出したメイド頭は、懐に隠した暗器を取り出す間も無く、飛びかかってきたモースリンに突き倒されて地に伏せた。
「クゥッ、誰か、私のことはいいから、お嬢様を止めて!」
彼女の声に執事が懐に手を入れる。愛用のダガーを引き抜くためだ。
「シャッ!」
甲高い気合いの声とともにモースリンが投げた小さなナイフが、執事の肘を貫いた。
「があっ!」
肘を抑えた執事を飛び越えるようにして、恰幅のいい男が一人飛び出す――彼はコックだ。
「刃物に頼るから反応速度が遅れる、最速の武器は己の拳だ!」
しかし彼が繰り出した重たい拳を、モースリンは片手で受け止めた。
「速さだけで私に勝てると思いまして?」
抉るように重たいモースリンの拳がコックの脇腹に深く食らいつき、彼はその拳の勢いを殺すことさえできずに、大きく身を折って吹っ飛ばされた。
「一人ずつじゃ埒があかない! 全員でかかれ!」
カルティエ卿の声を合図に、使用人たちが一斉に飛びかかる。ある者は鎖鎌を、ある者はダガーを、ある者はトンファーを、それぞれが得物を構えた形で。
しかしモースリンは一歩も動かなかった。
ただ小さく、風切る音が鳴った。
「グアっ!」
使用人軍団は誰一人として床に足をつけることすらなく、叩き落とされ、叩きつけられ、吹っ飛ばされて散った。
今まで揺らぐことなく立っていたモースリンの姿が微かに揺らいで消える。
「ざっ、残像……だと!?」
次の瞬間、モースリンの実体は倒れてうめく使用人軍団の背後に現れた。手刀を構えていることから、あれで目にもとまらぬ早業で使用人たちを叩きのめしたのであろうことが窺える。
モースリン隠密モード――こうなったらもう、彼女を止められるものなど、この場にはいない。




