婚約破棄への道①
話は一ヶ月ほど前、モースリンが17歳の誕生日を迎える前夜に巻き戻る。
その頃のモースリンとハリエットは、王国公認の『目のやり場に困るロイヤルカップル(ただし両片思い)』であった。というのも、眉目秀麗頭脳明晰文武両道民に篤く人望厚く人にやさしく自分に厳しく完璧すぎる王子として評判の高いハリエットが、こと自分の婚約者に対しては未だに愛の言葉一つ囁けないヘタレだからなのだが……
この日、モースリンは王城での夕食に招かれて、ハリエット王子と二人で甘い時間を過ごしていた。もちろん王城で、しかもきちんとしたディナーなのだから、『二人きり』ではない。控えの従者や給仕に見守られての食事だ。テーブルは大きく、向かい合って座れば二人の距離は遠い。
ハリエット王子は、前菜が運ばれてくる頃からすでに、ソワソワと身をゆすって落ち着かない様子だった。
「ねえ、モースリン、今日くらいはさ、隣同士で座って食べないか?」
しかしモースリンは、小さく切った肉を口に運びながらピシャリと言った。
「そんな行儀の悪いこと、いたしません」
「ん、そ、そう?」
あっさり引き下がるハリエットの不甲斐なさに、従者たちの間からは小さなため息が起こる。
従者の誰もが知っている--ハリエット王子がモースリンに渡すための小さな指輪を上着のポケットに忍ばせていることを--というのも明日はモースリンの誕生日なのだが、カルティエ家では『17歳の誕生日祝いをしない』という不思議な慣習があり、ならば前祝いということで先んじて誕生日プレゼントを渡してしまおうと、ハリエット王子はそう考えてマーガレットのモチーフを彫り込んだ金の指輪を用意したのだ。
さらには、ハリエット王子がそれを最高のタイミング、最高のシチュエーション、最高のセリフを添えて渡そうと何度も何度も練習していたことを、すべての従者が知っている。ところがハリエット、いざ本番になり愛しの婚約者ドノを目の前にすると練習したことなどスッポーンと吹っ飛んでしまう程度のヘタレっぷり。
いまも痺れを切らしたのか、王子の真向かい--つまり、モースリンの背後に立っていた若い補佐官--ビスコース卿がパパパッとジェスチャーをハリエットに送った。
(はよ渡せ)
卿はモースリンの実の兄であり、ハリエット王子とも幼なじみであるのだからこういうやりとりも気やすい。
ハリエットもパパパッとジェスチャーを返した。
(無理、ちょっと作戦タイム)
(ダメです。食事の途中で席を立つなんて無作法、俺は許しませんからね)
(そんな……)
モースリンはワタワタと両手を振るハリエット王子を不思議そうに眺めて言った。
「どうかなさいまして?」
途端にハリエット王子がポポポッと頬を真っ赤に染めて、モグモグッと言葉を食む。
「あの……その……えっと……」
これでは埒があかないとみたか、給仕長がすっと前に出た。
「恐れながら……食後のデザートは別室にご用意いたしましょうか、そちらで、『二人きり』で、どうぞデザートをお楽しみください」
つまり、二人きりにさせてやるから男を見せろという圧だ。それに気づいたハリエット王子はハッとした顔でビスコース卿を見やった。
もはやジェスチャーも何もない。ひたすら視線で訴える。
(む、無理っ!)
しかしビスコース卿は薄く唇の端を上げて言った。
「ああ、それはいいアイデアですね。モースリン、王子殿下は、どうやらお前に大事な話があるらしいんだ、『二人きり』で」
そう言われたモースリン嬢は、ぽうっとわずかに赤くなった頬を押さえた。
「二人……きり……」
モースリン自身は、自分恥じらいを表情にこぼして赤面しているとはつゆほども思っていないだろう。
貴族の子女であれば、感情をそのまま表情に出すようなことはぶしつけだと教えられる。特にいずれ王妃となるモースリンは普通よりもさらに厳しい王妃教育を受けているのだから、表情のコントロールなんてお茶の子さいさいのはずである。
国外からの貴賓に相対するときや、少しお行儀の悪い貴族をたしなめるときなどは、かえって無表情なのではないかと思うほどに美しい笑顔を浮かべる。腹が立つようなことがあったときも、決して怒りを表情に表すことはない。公式の場では、確かに彼女は完璧な淑女であると誰もが認めていた。
もちろん『公式の場では』である。この淑女、愛しのハリエット王子に対してはガードが緩すぎる。彼の一挙手一投足に対して恥じらって頬を染めるのだから、周りから見れば彼女の心の内など丸わかりなのである。
いまも紅潮した頬を隠して「別に二人っきりとか余裕ですから」という表情を取り繕おうとしている。だが心の内では(え、二人っきり? チューとか迫られちゃったらどうしよう!)と考えているのが駄々漏れだ。
それでもモースリンは、ようやく無表情を取り繕って自分の兄に問うた。
「それは、二人きりでなくては話せない機密事項ということですか?」
「そういうわけじゃないけれど……そうだね、まあ、それにかなり近いかな」
「わかりました。では、心して聞かねばなりませんわね」
ハリエットは往生際悪く、パパパッと両手を振ってジェスチャーを。
(二人っきりとか無理だって!)
しかしそれが身振りであるのをいいことに、そこにいるすべての従者たちは『見なかったふり』をした。ビスコースがきびきびと指示を出す。
「二人を別室にお連れしろ、あ、ウチの妹は丁重に、ハリエットはまあ、それなりに丁重にだぞ」
かくしてハリエット王子とモースリンは、応接室で二人きり、大きな応接用ソファに向かい合って座ることとなったわけだが、ウブな二人が二人きりになったからといって話がポンポンと弾むわけがない。
だが食堂の大きなテーブルとは違い、二人の距離は近かった。なにしろ部屋を用意するときに気をきかせた使用人軍団が、本来なら小さなテーブルをはさんで向かい合わせに置いてあるソファのうちの一つを撤去してしまったのだから、二人はいま、一つの長ソファに並んで座っていた。
テーブルの上にはブラックチェリーを混ぜ込んだクラフティと紅茶が置かれているが、ハリエット王子の方はその菓子にすら手をつけずに少し居心地悪そうに身を縮めている。モースリンの方も同じく、出来るだけ肩幅が小さくなるように膝の上できゅっと両手を結んで身を小さくしている。つまりはお互いに肩や腕が触れてしまいそうな距離が気恥ずかしくて、それでガッチガチに緊張しているというわけだ。
ちなみに『二人きり』とはいっても、天井裏には何人かの隠密護衛が潜んでいる。それはそうだ、ハリエットとモースリンに限らず、恋人と二人きりなんて油断しきった状態の貴人に護衛をつけないわけがない。それ故に隠密護衛というのは、たとえ目の前で房事が行われていようとも心乱さず空気のようにふるまう訓練を受けているのだが――だが、ウブな純愛にはノーガードであった。
「ぴゃ!」
ハリエットがやや甲高い声をあげたのは、ふっと力を抜いた瞬間に腕がモースリンの方に触れてしまったから。彼はきゅっと肩を引き上げた形のまま、真っ赤になって固まっている。
モースリンの方は、まるで何事もなかったかのような顔をしているが――
「そっ、そうだ、お菓子を食べましょう、とっ、取り分けて差し上げますわね」
震える指が取りこぼした小皿が、ふかふかした毛足の長い絨毯の上に落ちた。
「あ!」
二人反射的に手を延ばせば鼻先が触れそうなほどに互いの顔が近づく。
「あ……」
視線が絡み合ったまま、時がとまる……天井裏に潜んでいた隠密護衛たちが息をのんだ。
(頑張れ王子、チャンスだぞ!)
しかし天井裏からの(心の)応援むなしく、ハリエットは赤らめた顔をぱっと背けた。
「すっ、すまない、その……紳士としてあるまじき距離感……デシタ……」
「あら、もっと近づいてもよろしくってよ、私たち、婚約者ですもの」
口調は余裕綽々、なのにモースリンの表情は明らかに動揺して目がきょろきょろとせわしなく泳いでいる。
天井裏の隠密護衛たちは、自分たちが空気的な存在であることも忘れて小声でつぶやいた。
「ああ……マジかよ……」
「そこはグイッとキスに持ち込むチャンスでしょ……」
「ヘタれやがって……」
実にこれが、ハリエットとモースリンが『目のやり場に困るロイヤルカップル(ただし両片思い)』と呼ばれる理由である。この二人、婚約者同士なんだから遠慮なくイチャイチャすればいいのに、お互いに政略で結ばれただけの関係だと思い込んで遠慮しあっているから性質が悪い。