暴走するカレと妄想するカノジョと⑩
ジョゼットは心得ているとばかりに上等な絹のハンカチを手渡す。キュプラはそのハンカチで丁寧に手をぬぐった。先ほど握ったカエデの温もりまで拭い去ろうとするように、指の一本一本まで丁寧に拭う。
「ちっ」
およそ聖職者らしからぬガラの悪い舌打ちをして、彼はそのハンカチを足元に落として踏みにじった。
「これは捨てておいてくれ」
ジョゼットが深く腰を折る。
「かしこまりました」
「おいおい、ここに『聖女様』はいないんだから、芝居はいらないんだぞ」
「そうか、じゃあ、気楽にさせてもらうよ」
ジョゼットはぴったりと撫でつけていた髪をクシャッとかき乱して襟を緩めた。キュプラも聖職者じみていた表情をすっかり崩して、隠しから紙巻煙草の包みを取り出す。
「ったくよう、そんでなくても聖職者で~すみたいなお上品なふりをしなくちゃいけないのによ、その上あんな女の理想のカレシまで演じてやらなきゃならないなんて、これ、何の拷問だよ」
これが大神殿主ことキュプラ=ベンベルクの素顔である。もちろんこのことを知っているものは少ないが、彼は大神殿主になる前はちんけな詐欺師であった。
タバコに火をつけながら愚痴るキュプラをジョゼットが笑い飛ばした。
「お前、聖職者じゃなくなったら役者で喰っていけるな」
「そう? ま、俺、ツラもいいからな」
キュプラがたばこの煙を吐きながら言う。
「でもまあ、『聖王』って呼び方は気に入ってんだよね、この国を掌握したら、それ、正式採用しようかなって程度には」
それはこの世界の言葉ではなく、カエデが語った『ゲーム』の中に出てきた言葉だ。
ジョゼットが鼻先でタバコの煙をもてあそびながら笑う。「おいおい、『聖』の字を冠するには、お前、ワルすぎんだろが」
「いまさら悪いも悪くないもあるかよ、俺がどうやってこの地位を手に入れたか、知ってるくせに」
「ま、それもそうだな」
「それにしても、あんな都合のいい手駒が手に入るなんて、俺はついてる」
召喚されたカエデを一目見た瞬間、キュプラはその真っ白な髪色に目を奪われて立ち尽くした――それを恋心と勘違いするほどキュプラは愚かな男ではない。
この世界では魔法の属性については特に貴賤も上下も、善悪もない。ただしイメージというものはある。
物語の中ではキラキラ輝く白い鎧をつけた正義のヒーローが、黒一色のマントをかぶった怪しい悪者を倒すという絵面が好まれる。その白と黒の正対するコントラストを象徴するかのようにヒーローは光属性、悪は闇属性という約束事はある。
だが所詮は魔法とは道具と同じであり、属性よりも使用者の心根こそが善悪を決めるものだ。つまりよほど小さな子供でもない限りは物語の中のお約束事が現実にも適用されるわけじゃないと知っていて当然。
しかしカエデは、召喚された自分の髪が真っ白に変わっているのを見て歓喜の声をあげた。
「え、マジ! アタシがもらったのって光の魔法ってこと?」
それからさらに、彼女はこうも言った。
「ラスボスはやっぱり闇属性なワケでしょ、ラクショー!」
つまり彼女はこちらの世界とは違う『常識』を持っている。そして、その常識では善悪は属性によって決まり、闇は光に打ち滅ぼされるべき悪しき存在であると――こちらの世界では物語の中にしかない道徳的価値観を持っている。
つまり、この女からしてみれば王子の婚約者である『闇属性のご令嬢』は、必ずして討ち倒すべき悪の象徴に見えるはずだ。
頭の回るキュプラは、聖女召喚の大義である魔物の討伐が済むとすぐ、完全なる情報操作をするためにカエデを宮殿の奥に閉じ込めた。こちらの世界の常識が彼女の耳にはいらないように、世間から隔離したわけだ。
さらには、カエデが「ココッテオトメーゲームのセカイニニテル」と言い出したことも好都合だった。この世界のあり方は、カエデが異界で見知っている『乙女ゲーム』なるものの『設定』によく似ているらしい。
「だって、魔法があるでしょ、それで、悪役令嬢が闇属性でしょ、なのに王子の婚約者だっていうのも同じなのよね」
世の中には素晴らしい偶然があるものだ。キュプラはカエデが『ココガオトメゲームノセカイ』だと信じて疑わないようにと手を回した。カエデから聞き出した『乙女ゲーム』の情報をもとに子飼いに役を割り当てて芝居をさせ、自分も『攻略対象』を演じることで、ここがあたかもカエデの知っている『ゲーム』の中の世界であるかのように信じ込ませたわけだ。
そうした努力の甲斐あって、カエデはこの世界の常識から外れることを平気でする、キュプラのいい手駒となった。
これまでの苦労を全てのみ込むように、キュプラは大きく一服を吸った。そして「ふはあ」と煙を吐き出す。
「まあ、使える手駒は嫌いじゃない……もうしばらくは大事にしてやるさ」
悪意をたっぷりと含んだ紫雲は宙に溶けて、鼻につくヤニのにおいだけがそこに残った……