暴走するカレと妄想するカノジョ⑧
もしもこの先、ハリエットの心があの白い髪の少女に奪われるのだとしても――今はまだ、彼の心は誰のモノでもない。いや、実際にはがっつりモースリンのモノであるけれど、彼女はそれに気づいていない。
だからモースリンは、彼との幸せなラブシーンを妄想した。
(昨日読んだラブロマンス、あれみたいな……)
モースリンの読書傾向はちょっと偏っている。身分ある男性と、その護衛についた女隠密とのラブロマンスが好物なのだ。なかでもとくに、身を挺して主をかばったせいで瀕死の重傷を負った女隠密が、いまわの際になってようやく自分の素直な心境を語るシーンが大好物なのである。
(あの白髪の少女は神殿側が送り込んだ刺客である可能性もあるわね)
仮にそうだとしてもハリエットには優秀な護衛が何人もついているし、モースリンが自ら身を挺す必要はないだろう。だから現実にはあり得ない、完全なる妄想だ。
それでもモースリンは、女隠密姿の自分と、キンキラキンの正装を着たハリエットとを妄想した。
◇◇◇
白い髪の少女の手の中で、キラリと銀が閃く。その瞬間、モースリンはパーティー会場の人混みをかき分けて走り出していた。
「ハリエットっ!」
会場の誰も、あのあどけない顔つきの少女が凶刃を握りしめていることに気づかない。浮かれて談話する人の間を、パーティーに浮かれて踊る淑女の間を、片手にシャンパングラスを乗せた銀盆を掲げたウェィターを突き飛ばすようにして、モースリンは走る。
「ハリエットー!」
間一髪、短剣を振り上げた少女とハリエットの間に体を滑り込ませる。刹那、脇腹に鈍い痛みが走った。
「ごふっ!」
「モースリン!」
愛しい男が自分の名を呼んでいる。だが、体が大きく揺らいで立っていられない。床に大きく頽れながら、モースリンは自分が刺されたことを知った。
「きゃー!」
「誰か、警備兵を呼べ!」
パーティー会場は大パニックだ、逃げ惑う者、白い髪の少女を取り押さえる者、そして--
「モースリン! しっかりしろ、モースリン!」
床に膝をついて、モースリンの顔を覗き込むハリエット……
「死んじゃダメだ、すぐに救護のものが来るから!」
「いえ、もう……これでも隠密ですからね、自分の怪我の状態ぐらい心得ております……かはっ!」
血咳を吐くモースリンの手を握りしめて、ハリエットがポロリと涙をこぼした。
「ああ、私が愚かだった、あの少女が怪しいと言った君の言葉を信じていれば……」
モースリンはそんな彼の頬に弱々しく手を伸ばす。
「あなたが……無事で……よかった……」
「っ!」
◇◇◇
「いいっ!」
実際にはモースリンは隠密ではないし、たぶん少女がヤイバを取り出した瞬間に縮地でその間合いに飛び込むことができるし、なんならもう3人くらい賊がいても余裕で勝てるし、現実にはあり得ない。あくまでも完全な妄想だ。
「これで最期の別れにってキスでもしてもらえたら完璧!」
いくら淑女とはいえ、モースリンだって年頃の乙女なのだ。好きな人とのキスを妄想することくらいある。
足取りも軽く、妄想に浮かれながら実技室のドアを開けたモースリンは、そこで信じられない光景を目にしてピシッと固まった。
実技室の真ん中、他の生徒たちに囲まれてハリエットが跪いている。その腕の中には床に倒れた白い髪の少女が抱き上げられていた。
(あっ! さっきの妄想と同じ!)
厳密には同じじゃない。少女を見つめるハリエットの目には愛情ではなく気遣いがたっぷりと含まれているし、少女も転んだだけなのか元気ピンピンしている。だが人垣の中で麗しの王子が少女を腕の中に抱えているという構図は同じだ。
モースリンの頭にカッと血が上った。
「ちょっとあなたたち、なにをなさってますの!」
ツカツカと足早にハリエットの元へ向かう。ハリエットは顔をあげ、そして嬉しそうな声を出した。
「モースリン!」
それと同時に今まで抱えていた少女の体から手を離す。床に落ちた少女の頭がゴッと音を立て、「ふぎゃっ」と情けない声がしたが、もはやハリエットの耳には届かない。
「まさか、僕に会いに来てくれたのかい!」
淑女としての心得をしっかりと身につけたモースリンは、たとえ婚約者の立場であろうとも用もなくハリエットのクラスに押しかけたりしない。そういうところは慎ましやかなのだ。
だからハリエットは嬉しさのあまり、両手を広げてモースリンの体を抱き寄せようとした。
しかしモースリンは、その手をするりとかわしてハリエットを叱りつける。
「いま、あの方となにしていましたの!」
「あの方?」
「あの白い髪の子です!」
「あれ、モースリン、もしかして……」
ハリエットはニヤつく口元を片手で隠した。
(モースリンが嫉妬してる!)
少し目元のキツイ美人がプンスコ怒っている姿は、どこか子猫に似て可愛い。しかも、普段ならば他人を気遣い自分は二の次三の次にする慎み深いモースリンが、思うままに身勝手なことを喚いているのだから、こんなの……
「可愛い……」
ハリエットはひどく満足して、この可愛らしい子猫ちゃんを抱きしめようと再び両手を広げた。ところが、そこにカエデが割って入った。
「やめてっ! ハリーは悪くないの!」
「ちっ」
ハリエットはあからさまに不機嫌そうな表情になったが、カエデはお構いなしに喚き続ける。
「別にやましいことなんてしていません! ただ、転んだ私を介抱してくれただけなの。ね、ハリー、そうでしょう?」
「ああ、そうだな、それ以上でもそれ以下でもない」
「なのに、こんなに怒られるなんてかわいそうよ、婚約者の方は、随分と嫉妬深いのね」
周囲でことのしだいを見守っていた生徒たちがざわついた。
「嫉妬? モースリン嬢が!」
今までこの二人、嫉妬するのはハリエットの専売特許であった。誰かがモースリンには話しかければ口を縫い止めんばかりの勢いで睨みつけ、パーティーで彼女に近づく男には刃より鋭い視線で牽制し、時にはモースリンの頬を撫でる風にすら嫉妬の目を向けると……ともかくひどいやきもち焼きなのはハリエットの方なのだ。
対するモースリンはハリエットがどこぞの見知らぬ令嬢と話していても顔色ひとつ変えない。いずれ貴賓を集めてのパーティを催す王妃の心がけとして、場の雰囲気を壊すようなことは決してしないように躾けられているのだから、己が悋気を優先するようなことは絶対にしない。
もっともそれゆえに側で見ればハリエットの片思いに見えなくもなかったのだが……
(やったな、王子、まさかヤキモチを焼いてもらえる日が来るなんて)
(おめでとう、本当におめでとう、王子)
(ちゃんと両思いだったんだな)
そんな感慨のこもったざわめきだったのだが、モースリンは目に見えてうろたえた。辺りをキョロキョロと不安そうに見回し、そして最後にカエデに目を止めた。
「えっと、これ、嫉妬じゃないのよ?」
カエデは容赦なく声を上げる。
「嘘! アタシがハリーと仲がいいから、嫉妬してるんでしょ!」
「違うのよ、本当に……」
「クラスが違うのに、わざわざハリーのことを見張りに来たんでしょ! 嫉妬深い女は嫌われますよ!」
「違う……」
モースリンは青ざめた顔で後ずさる。
「違うの、殿下、本当に嫉妬なんかじゃないの……本当に……」
膝をガクガクと震わせて、怯えに肩をすくめて哀れにも見えるほどだ。普段はふっくらと下唇も乾いて青白い。
「本当に……違うんだからぁっ!」
走り去るモースリンの背後からは、カエデの勝ち誇ったような笑い声が響いた。




