暴走するカレと妄想するカノジョと③
「きゃあああああ!」
奇声をあげて飛び起きたモースリンは、まず真っ先に自分の首を撫でた。当然だが、首には傷一つない。
「……そうね、夢……ですものね」
しかし、あまりにも生々しい感覚のある夢だった。まるで死を体験したかのように--冷や汗をたっぷりと吸った寝間着が肌に張り付いて気持ち悪い。
「コットン」
暗がりの中に向けて声をかければ、すぐに天井裏から「ここに」と答える声がした。暗い部屋にぽっと手燭の明かりがともる。
「およびですか、お嬢様」
手燭を持つのは若いメイドだ。彼女は手燭を掲げて、モースリンの寝台の足元にざっと片膝をついて控えた。その所作は隠密のそれである。
実はこのメイド、本職は隠密の方である。常にモースリンの側にいるためにメイドの姿をしているが、その腕前はカルティエ家が抱える隠密の中でも五指に入るほどの実力者。
しかもこのメイド、モースリンの乳姉妹という気安い間柄でもある。彼女は顔をあげると、ふっと優しい笑みを浮かべた。
「怖い夢でも見たんですか?」
モースリンが片手を掲げる。
「知っているくせに」
手燭に照らされた彼女の手首には、数字の4を表す古代文様がアザのように浮かび上がっていた。これが女神の加護による予知夢を見たあかしである。
17歳の誕生日のあの夜、モースリンは初めて未来を示唆する予知夢を見た。その時に手首に浮かんだのは5を表す古代文字。そしてそれが一つ減ったということは、先ほど見たのが単なる悪夢ではなくて女神の加護による予知夢だったという証拠に他ならない。
「ところで、汗をかいてしまって気持ちが悪いの。着替えをお願いできるかしら」
モースリンが言うと、コットンはサッと立ち上がって着替えの準備を始めた。彼女はメイドとしても優秀であり、手際はすこぶる良い。
そして、着替えを手伝いながらかける言葉は主従を越えた、妹を心配する姉としてのそれであった。
「どんな夢でした? 運命は変わりました?」
それに答えるモースリンの方も、気高き公爵令嬢ではなく姉に甘える妹の気分で。
「全然ダメ、こないだの夢の続きだったわ」
「婚約解消くらいじゃ運命は変えられないってことですかね、『原因』となるあの王子をサクッと排除したほうが簡単では……」
「ダメよ、コットン、あれでも一国の皇子なんだから、大ごとになってしまうわ」
物騒な会話だが、実際にカルティエ家でもトップクラスの隠密であるコットンならば、城の厳重な警備を潜り抜けて王子一人くらいサクッと始末するなんて朝飯前だろう。もちろん一切の痕跡も証拠も残さず、完璧に。
コットンだけじゃない、カルティエ家につかえている隠密であれば、その程度の仕事は出来て当然だ。だから最初の予知夢のあと、モースリンの死の原因となる可能性が高い皇子を物理的に排除してしまおうという計画もあるにはあった。だが、モースリンができるだけ穏便にことを済ませたいというから、それで婚約解消という穏便な手立てがとられたわけである。
だが、カルティエ家の誰もがこのやり方に納得していない。コットンをはじめとするカルティエ家の隠密たちは、モースリン一人の命か国家の存亡のどちらかを選べ問われたら、誰もが国家を見捨ててもモースリンを助けるような、いわゆる忠義の心篤い者ばかり。もしもこのままでは運命の変わる兆しがないと知れば、「じゃあちょっと王子を片付けてみましょうか」と言い出しかねない奴ばかりである。
モースリンは事を荒立てないために、明るく微笑んで見せた。
「心配ないわよ、コットン、だって、まだ一年もあるんだもの、運命なんていくらでも変えられるわよ」
「そうですかね」
「そうなのよ、それにね、大げさに考えすぎなのよ、運命ってちょっとしたことで変わるモノでしょ、私の伯母がどうやって死の運命から逃れたか、知ってる?」
「ええ、その護衛を任されていたのはうちの母ですからね。確か馬車の事故で死ぬという予知夢を見て、その後一年間、一切馬車に乗らなかったとか」
「そう、そのくらいでも、運命って変わるのよ!」
実際に死の運命といっても大げさなものばかりではない。それこそモースリンの伯母のように『馬車に乗らずに一年過ごせば回避できる』とか『ワインに毒を入れられて死ぬ運命だから、一年間断酒しろ』とか、その程度で命の危機から逃れることもある。
「だからね、私、嫉妬しないようにしようと思うの」
「嫉妬……ですか?」
「そう、嫉妬。夢の中での私はね、嫉妬に狂ってハリエット様の新しい恋人に嫌がらせをする悪女なの、だからね、嫉妬さえしなければ、私が悪女になることもないと思うのよ」
「そんな簡単にいきますかね」
「試してみる価値はあるでしょ、嫉妬なんて私の心がけひとつでどうにかなるんだし、誰にも迷惑は掛からないもの」
「それはまあ、そうですけど」
「それに、上手くいったら、婚約を解消しなくても良くなる……かもしれないでしょ?」
モースリンは手燭の明かりを透かして部屋の一角を眺めやった。そこには『祭壇』が設けられている。
『祭壇』とはいっても女神を祭るための宗教的な何かというわけではなく、大小さまざまなハリエットの肖像画を掲げた前に、ハリエットから贈られたものを陳列するガラスケースを置いた『ハリエット様を存分に堪能するための祭壇』である。
いちばん大きな肖像画を見上げて、モースリンがポツリとつぶやいた。
「別に嫉妬なんかしないわ、王妃となる者が、そんなみっともない感情に振り回されるわけがないもの」
果たしてそうだろうか、と、コットンは胸の内で思った。幼い頃からモースリンに使えている彼女は、自分の主人が淑女の仮面の下に苛烈な一面を併せ持っていることを知っている。
幼くして王家に嫁ぐことが決められたモースリンは、本来であればカルティエ家の『お家芸』を学ぶ必要はなかった。それでもモースリンはコットンを師として隠密術を学び、いついかなる状況に陥っても王子の身を守ることができるようにと料理から救命術、馬術に至るまでの様々なスキルを貪欲に学び、身につけてきた。
そんなスキル使う機会ないやろと思うが、王子が暗殺者に襲われて怪我をした時の療養に有効だろうと、温泉掘削士の免許まで持っている。
その気になればモースリン自身の手で、ハリエット王子に擦り寄る女の一人や二人、跡形もなくサクッとしちゃうくらいは朝飯前なのである。
幸にしてそのスキルを発動することなく今日まで来れたのは、何よりも王子に横恋慕する女が現れなかったから。それはそうだ、見るからにイチャイチャ大全開のロイヤルカップルの間に割って入ろうなんて、普通の神経ならば恐れ多くてできるわけがない。
だから、モースリンは未だ、身の焦げるような本当の嫉妬というものを知らない……
(まあ、いざとなれば王子をサクッとしちゃえばいいだけだし)
しばらくは静観するのが良かろう、とコットンは結論づけた。そのままふっと窓の外に目を移す。東の空はうっすらと白み始めているが、西の空はまだ星を抱いて暗く、暗く沈んでいた。
夜明けは遠い。