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隠れ里  作者: 葦原観月
1/1

撤退

順風満帆に見えた平佐田は、奈落の底に突き落とされます。

「なぁ、兄ちゃん。智次は、おる?」


 ぼそぼそと掛けられた声に、平佐田は浅い眠りから呼び覚まされた。

 先生としての生活に慣れたはいいが、やはり、悩みは多い。子供たちは全部が全部、智次と時頼のようにはいかない。二人は特別によくできた子供なのだと、平佐田が改めて感じたのは、そろそろ島に来て一年が経つ頃だ。


「なに? おらんの? 厠じゃなか? おい、昨夜は遅うて……ここには来とらんよ」

 声を辿れば、障子の合間から、時頼が不安そうに部屋を見渡している。時頼の顔が妙にはっきりと見える理由は、灯明のせいだと気が付いた、まだ夜明け前らしい。胸騒ぎがして、平佐田は起き上がる。


「なんぞ、あったんかっ!」

食いつくような平佐田の勢いに、時頼の表情が揺れた。

「おらんのじゃ、どこを探しても」


 息を呑んだまま、平佐田は家中を走り回る。自分でも馬鹿みたいだと思いながら。それでも、じっとしてなどいられない。

 何をどうしたのかもわからないまま、表に出ようとした平佐田の襟首を、むんず、と捕まえたのは、お婆さんだ。

「せんせっ! どこ行く」

「智次坊がおらんです! おい、探しに行かねば!」

「どこへな!」

 いつだって穏やかなお婆さんの厳しい声に、平佐田は我に返った。

「すんません……おい、取り乱してしもうて。あぁ、おい、おいは何をしたら……」

 おろおろと戸惑う平佐田に、お婆さんは小さく頷き、

「せんせ。心配を掛けて……えらい、すんません。嫁も息子も大慌てで……。嫁は興奮状態で、隣の範子に預けました。息子は村長に。すぐに男衆が集まりましょう。爺さんは無理に走り回ったおかげで、息が切れおって……宗さんを呼びに行かにゃあなりません。すまんが、せんせ、頼めますか?」

 お婆さんの息も切れている。見れば、はらはらと涙を落とし、おそらくは、今一つで緊張の糸が切れるところだろう。


 己の醜態を恥じ、平佐田はぐっと腹に力を入れる。

「はい。おいが、宗せんせを。時頼坊は? なんなら、おいが時頼坊を連れて行きます」

 弟思いの時頼には今、誰か大人がついているべきだ。

「はい。時頼のこつは、せんせに頼みます。時頼も心強かろう」

 家中を走り回り、やっと見つけた時頼は、鶏舎の前でぼんやりと座り込んでいた。

 肩を揺さぶり、やっと平佐田を認めた時頼は、ぼたぼたと拭うことなく涙を流し、「兄ちゃん、智次がおらん……」力なく言って、平佐田の腕の中に納まった。平佐田は時頼を背負い、宗爺の家に向かう。


 よもや時頼が大病かと、目をひん剥いた宗爺に事情を話し、平佐田は時頼を背負ったままに宗爺の手を引いて家に戻った。

 虚ろな目をした時頼に酸棗仁を湯で溶いて飲ませ、じっと時頼の手を握って付き添い、祈り続けた。


 居王様、智次坊を返してやってください――


 平佐田の願いも虚しく、一月が経っても、智次は帰らなかった。

 異例の行方不明に、島中が戸惑いを隠せない。

 勿論、他に消えた者は、いなかった。道場のおかげで、「夕刻の隠れん坊」は息を潜めている。

 お館様の希望通り、道場は毎日、夕刻まで続けられ、帰らぬ子らの監視は、役人の吉野が、最後の子が帰るまで続ける。先生たちも子供らの様子には気を配り、集まって何かを企んでいそうな子供らには注意を払うといった徹底ぶりだ。おかげでこの一年、「神隠し」は起こっていない。

また、子供らも道場という名目に、大いに満足しているようだった。家の仕事をせずともよく、大手を振って友人と過ごせる。文字を習ったり、体を動かしたりは、十から十四、五の子供には新鮮味のある〝遊び〟と映ったようだ。

 さして問題もなく、この一年が過ぎた理由には、島人の「集まっていることが好き」な気質が影響しているようにも思える。


「神隠しじゃ」「いいや、事故じゃ」「人攫いか?」「道に迷うたんじゃ」

 当初は様々な意見に分かれたが、やはり……

 ひと月が経っても見つからない智次は、「異例の神隠し」として、島人に認識されるに落ち着いた。

「余計なことをするから、黒御子様が業を煮やし、自ら〝お友達〟を連れていった」とも、「居王様が道場に反対し、見せしめに子供を一人、お隠しになった」とも囁かれた。いずれも〝道場〟は白い目を向けられる羽目となる。


 そもそも、神隠しを防ぐ策として道場を要望した島としては、他に当たる場所がないのだ。詮無きことだと、平佐田は思う。

 だが、先生の中には、島人の意見に対して腹を立てる者もあり、講義を休む先生も増えてきた。その穴埋めにと、平佐田は休みなく講義に出るようになった。島人から至って信頼の厚い平佐田が道場にいれば、文句を言いに来る島人の勢いが削がれるからだ。

 平佐田としては、かなり辛い立場でもある。居なくなった子供は、平佐田が島で一番に親しい智次である。

「かやせ、戻せ」から始まって、捜索は二十日ほど続いた。しかし、島人も、それぞれに生活がある。皆が皆、毎日たくさん集まって一人の子供を捜索に当る余裕があるほど、島は裕福ではない。


 それでもお館様の計らいで、当番制が組まれ、数人が島中のあちこちを捜索する日々が続いてはいる。しかし、未だ智次は見つからない。

 平佐田も当然、捜索に加わりたいと、申請は出すが、役人を通して断られている。つまりは〝余所者〟には、島の問題に首を突っ込まれたくはないのだ。平佐田としては、居ても立ってもいられない心持ちだ。


「おいは、この家で世話になっちょる。おいは家族のようなもんじゃと、思うとりました」


 意を決して、智頼に言い募ってみた。平佐田の言葉に、げっそりとした顔の智頼は、わずかに口の端を緩め、

「儂も、せんせが好きじゃ。家族じゃと思うとる。智次も、誰よりもせんせが好きじゃろうが……今はいかん。仕来りに逆ろうたりして、他で何かあれば、今度は、せんせが責められる。ここは……堪えてくれ」と、断られた。

 ただ祈るしかない平佐田ではあったが、道場に立ち寄る島人から色々と聞き出し、いくつかの情報を得た。智次がいなくなった数日前から、山で何度か、智次を見た人が相当数いたのだ。

 いずれも島の入口を見張る大木の近く、山の奥へと向かう道筋でのことだった。茸や山菜採りの人が智次の姿を見かけている。

 薄暗くなり始める頃――おそらくは道場を終えての帰り道だろう、山を下りてくる島人が、逆に山を登ろうとする智次に声を掛けている。


「もう、暗うなる。危険じゃから、帰れ」


 島人でも未踏の地があるほどの山奥は、危険だ。何が出るかわからないし、足場も悪い。うっかり足を滑らせれば、断崖から海に真っ逆さまとなる場所もあると言う。智次は頷き、すぐに降りて行ったと言う。


(行方不明とは、無関係か)

 平佐田が島に来て一年、智次と時頼も、一つ大きくなった。この年頃の一年は大きい。智次は筍のように、ぐんぐんと背が伸び、驚くほど大きくなった。時頼はすっかりと体格が良くなり、父親のような、がっしり型だ。

体型の対比と同じく、二人の趣向にも、違いが出てくる。柔術が得意の時頼、剣術が好きな智次、字を書く練習が好きな時頼に、筆を持たせれば文字よりも絵を描いている智次、海が好きな時頼に、山が好きな智次……

勿論、相変わらず仲はいいが、以前のように智次が兄の後を追いかける姿は少なくなり、時頼も弟の姿を探すでもなく、道場の友人と一緒にいる光景が多くなった。

 それはやはり、男の子だから当然の成長過程だと、平佐田もわかってはいるが、何とはなしに淋しい気もする。子犬のように、いつもくっついては、じゃれている姿が、平佐田には羨ましかったからだ。


 当然のように二人の〝夜這い〟もなくなり、平佐田の部屋には来るものの、以前のように、やいやいと話をすることもなくなった。

 道場では一応、師弟の間柄であるから、他の子供の手前もあり、親しく話をすることもない。特に変わった様子は見られなかったものの、今から思えば、どことなく……ぼぅ。としている様子があったような気もする。

 別に疎遠になったわけではないが、「何かあったの?」と気軽に声を掛けるには、距離があったような気がする。

 何か言いたげな素振りが、なかったとは言えない。だが、平佐田自身も先生が忙しく、智次だけに心を配ってやる余裕もなかった事実は否めない。


(やはり、何かあったんじゃ。智次坊には何か……気になる出来事があったに違いない)

 焦る気持ちが、平佐田を追い詰める。家族であっても、互いにそれぞれがあれば、全てを分かり合えるはずもない。人は、一人ひとり、人生を歩んでいるのだ。

 気ばかりは焦るが、何もできずに、ただ、「先生」として日々を過ごす平佐田に、急ぎ造った学舎の不具合の調整に来ている島の山人の一人が声を掛けてきた。


「せんせ、柱の具合を見てもろて、いいか?」


 まだ若い山人は、昨年〝隠れ里〟へ召された重定の、従弟にあたる青年だ。時頼や智次とも面識があり、今回の捜索にも力を貸してくれている。

「おいは建物のこつは、ちぃともわからん。床があって、柱があって、梁があって、屋根があれば……別に構わんと違うか?」

 平佐田の言葉に、笑いを堪える姿に平佐田の気も緩み、昼飯を共にした。

 他愛のない話から始まり、島人の噂話、年が近いだけあって、女子の品定めや、誰と誰がそろそろ夫婦になりそうだという話で盛り上がった。

 平佐田は〝滋子〟の話が出なかったことに感謝した。おそらくは、気を使っているのだ。


 滋子と平佐田は〝薬草〟を通じて今も近い位置にいる。滋子が平佐田の「弟子」となりたいと言ってから、特に進展はないものの、島のあちこちで薬草を摘んでいる二人の姿は、島人の目に留まらぬはずもない。〝お館様の件〟がなければ、二人は噂好きの島人の恰好のお茶請けになっているはずだ。

島の有力者への遠慮と、島内で評判のいい余所者への配慮とがあって、島人は見て見ぬふりを決め込んでいる。まぁ、密やかにあれこれと憶測は飛んではいるだろうが。


「捜索の件ですが……」

島の噂話の後、言いにくそうに山人は言葉を切り、

「そろそろ、打ち切りなんです」と囁いた。

 平佐田は大きく息を吸う。しょんぼりと背を丸めないためだ。空気が入ると少し気分も楽になる。


「知っとるよ。皆、忙しいからな、もう一月が過ぎた、やむをえん」

 いいながら鼻の奥が、すん、とする。歪む口元を無理に引き上げて、平佐田は笑った。

「居王様が、お連れになったんじゃろう。智次坊は居王様が大好きじゃった。この島も。ずっと居王様といたいと言うとった。そんな智次坊をお気に召し、居王様は連れていかれたんじゃ。きっと今頃、たのしう過ごしとろう、智次坊は、神様の子じゃ」

 言いながら「島人のようじゃ」と我ながら思う。まさか余所者の平佐田が「神隠し」を肯定するとは思わなかったのか、若い山人が目を見張る。

 平佐田だって、心底そう信じているわけじゃない。ただ、智次がどこかで冷たくなっている姿は想像したくないし、以前、吉野が言ったように、獣に襲われる姿も考えたくはない。


(やはり、おいは郷の人じゃな)


 童の頃に教え込まれた考えは、やはり、大人になっても拭えないのだ。ただ……もしもここが「神のいる島」でなかったら、平佐田も神隠しを肯定はしなかったであろうとも思う。

「神様じゃあね。おいたちには、何もできんよ。智次坊は……」

 平佐田が自身に言い聞かせるように話す言葉を、山人が遮った。

「せんせ……まさか、せんせも見たと?」

       



 智次坊は、誘われたんですよ――


(いったい何にだ?)

 苛々と歩き回る平佐田の部屋は散らかり放題だ。

(全く……何が何やら。一体全体、どうなってしまったのか)


「ああっ、もう!」


 生まれてこのかた、初めての人生の壁にぶつかり、さすがの平佐田も焦りを感じずにはいられない。すべてが順風満帆だと思っていた矢先、あっという間に大風に攫われてしまった気分だ。

 聖域で智次の姿を見た、と言った山人の話は、平佐田の心に、ちかっ、と何かを感じさせた。

 それが何なのかは、平佐田自身にも判明できない。ただ、智次はどうしても〝聖域〟に行く必要があったのだ。

 智次は敬虔な居王様信者だ。山人のように、禁忌を冒してまで、貴重な「山葡萄の蔓」を取りに行くような不埒者ではない。

 山人が島人に事実を黙っていた訳は、わかる。自身が責められるからだ。聖域は決して侵してはならぬ神聖な場であり、ましてや聖域の物を持ち帰ったとあっては、ただでは済まされない。


 それでも智次が、そのままいなくなったのであれば、さすがに黙ってはいられまい。しかし、山人は気になって翌日、智次の所在を確認している。学舎の様子を見に来たと偽って、講義を受けている智次を確認しているのだ。


 智次がいなくなったのは、その日の晩、夜中に厠に立つ智次の姿を、寝ぼけた時頼が見ている。おそらくは、その時に智次は出て行ったと思われる。朝起きて智次がいない事実に気が付いた時頼が、平佐田の部屋へとやってきたのだ。

 余所者の平佐田が「居王様の神隠しだ」などと言ったものだから、山人は、平佐田も智次の姿を見たのだと思ったらしい。平佐田が度々山に入り、薬草を探している事実は、島人ならば誰もが知っている。


(やはり本日は、山へ出向くことにしよう)


 決意した平佐田が、そろそろ道場に向かわねばならぬと支度を始めて……


 先生の一人が、島人を殴った――


 突然の凶報が、平佐田にもたらされた。知らせに来たのは、吉野だ。同時に吉野は平佐田にとって、悲報すらも持ち込んだ。本土からの撤退命令だ。しかも本土から迎えが来るまで、蟄居命令という、おまけまでついている。

 例の〝鼻持ちならない〟先生が、ついにやらかしたらしい。

 異例の神隠しに苛立つ島人と、矛先を向けられた道場の先生……互いにぴりぴりとした空気の中、ついに来るべき時が来たとも思える。

 講義に出なくなった先生の中に、本土へと苦情を述べたてた者がいたらしい。


島側の要請に従って派遣されているのに、島側の態度はあまりにも酷い。

 そもそも本来、道場は島津家の政策の一環であり、その費用を島側が持つ、などと言う異例が、此度の島人の傲慢さを招いている。島からの援助を切り、どうか、経費を割いていただきたい――


 つまりは島人の世話になんぞならん。わしらは領主様から直々に遣わされた先生なんだ。と言うわけだ。

 そもそも、そういった考え自体が間違っていると、平佐田は思う。とはいえ見習いが先生を騙っているのだ。虚勢を張りたい者が大半である事実は否めない。

 抗議を受けた本土としては、いったいどうなっているのかと、要請者であるお館様に問い合わせた。

 島のごたごたを本土に伝える義理は、御館様には、ない。折しも、お館様自身、屋敷内が色々と騒がしいため、本土への返答も遅れていたようだ。

 返答の遅れをどうとったか、本土は道場の引き上げを決定した。平佐田の文机に放り出されている書面が、本土の答だ。あまりの性急さには魂消たが、本土の事情は、吉野から知らされた。


「経費削減が、いよいよ厳しぅて。そもそも、硫黄島に道場など、無駄も甚だしい。ですが、経費はすべて島からという条件で、厄介払いしたい人員を、先生として送り出した次第です。いずれも暇を出される予定だった者たちに触れを出し、希望者を募った、いうこってす」

 張本人としては頭が痛い。


「あぁ、勿論、せんせのこつは、聞いちょります。『質問本草』に関わるせんせだと。薬草の分布調査にいらしたのでしょう?」

 だったら、いいのだが。平佐田は更に、身が縮まる思いがした。

「まぁ、いい加減なせんせばかりでは色々と不都合かと、せんせを道場に招いたのでしょうな。一部の者には知らされておる事実です。大殿の研究ですから、あまり大っぴらには、せぬほうがいい、との判断でしてね」

 平佐田は初めて島での自身の立場を知らされた。なるほど、島内で実力者の家に滞在を認められるはずだ。

 先生たちの世話をするためには、結構な費用が掛かる。交代制で講義を取れる体制を整えているために、先生の数も多い。学舎もまだ、完成に至っていない。費用はまだ掛かるだろう。


 返事のない事実に、本土は焦り、無駄使いを避けて、早々に撤退を命じたのだろう。そもそも本土にとっては、予定外の道場なのだ。なくても困らないし、元々、講師らは皆、暇を出す予定の者ばかり。痛むところは、どこにもない。

 楽して威張り散らす暮らしに慣れた先生の一人が、本土の対応に腹を立てて暴れ出し、止めに入った島人との間に口論が飛び出し、昂じていくうちに「神隠し」の話となり、島人が先生を責め、先生は「神隠しなんぞあるもんか!」と、口汚く島神を罵ったという。

 気色ばんだ島人が「余所者に、なにがわかる」と飛び掛かり、かっとなった先生が思いきり、拳を振り上げたそうだ。どっちもどっちだとは思う。


 しかし、どんな事情であれ、仕事を放棄した先生には非があるし、島神様を侮辱されれば、島人としては黙って引き下がるわけにはいかぬ。島中のそこかしこに神様が居る、と感じる島は、島人の島神様への想いで溢れている。

 頼みの綱はお館様だが、不思議と黙りを決め込んでいるらしい。先生の態度に、さすがに腹を立てたのか、それとも――

「夕刻の隠れん坊」を嫌って開いた道場が、結局は何の役にも立たず、神隠しが起こってしまった事実に、道場の継続は無駄だ、と判断を下したのか……


「まぁ、どちらにしても、本土からは撤退命令が出ちょります。一旦、出した命令を撤回するほどの価値を、本土は島に感じとらんでしょう。神隠し以外には、特に何の変哲もない島です」と、吉野は肩を窄めた。


「平佐田せんせとは、仲ようやれそうだと思うとりました。島人も、さぞかし淋しがりましょう」

「儂も残念です、島が大好きなんですが……」

「撤退の日どりがいつになるか……わしらも知らされとりません。が、一応、正式な決定である事実は、先生がたには伝えねばなりません。ですから、こうして回っている次第です」

 暇そうに見えてやはり、下っ端は大変だと、己の身に代えて、平佐田はつくづくと思う。

「経費を考えれば、早々に迎えは来るはずです。一応、本土からの派遣ですからな。島が、金は払わん、と言った時点で、経費は本土の負担となる。いつでも戻れるように、家人たちにも、話をしといたほうがよかです。荷物も纏めてね。こういったこつは……早目にけりをつけといたほうが……その、なんですわ、ま、色々とありましょう」


 困ったように頭の後ろに手をやって、「では」と、吉野は背を向けた。滋子のことを言っているのだろうと、平佐田は内心で息を吐いた。

 余所者である吉野には、お館様に対する遠慮はない。

それでも面と向かって「惚れた女子をいけんしますか?」とは聞けない訳はやはり、吉野はそのまま島に残る立場であり、また滋子を伴って島を出るのは難儀と知っているからだ。

島人は島で生まれて、島で生涯を終える。両者は、強い絆で結ばれているのだ。

 もしも仮に、滋子が平佐田を憎からず思っていたとしても、「一緒に島を出よう」と誘って、「はい」と答えるかどうかは、怪しいものだ。

 島の仕来りに従って、滋子はお館家に嫁ぐ約束ができている。仕来りを破る行為は、島への裏切り行為だ。

あと何日で迎えの船が来るか。おそらくは、それほどの時は要さないとも思う。ならば、余計に……


「山へ向かわねばならん!」


 勢い込んで廊下に出れば、智次と一緒にここで座り、「白の中」で話をした時を思い出す。

 果たして、あれが事実だったか、はたまた夢だったかは、未だにはっきりとはしない。それでも、智次は居王様に大切にされている。それだけは間違いのない真実だと平佐田は確信している。

(もしも智次坊が居王様と行ったのであれば、それはそれでいい。淋しいけれど、智次坊はきっと幸せに思っているだろう。だが、万が一、そうでなければ――)


 智次を見つけたい。見つからなければ、せめて、足取りだけでも掴みたい。島にいられる限りは智次のために時間を費やし、手掛かりが少しでも見つかれば、あとは――

滋子に託していこう。お館様であれば、手掛かりを頼りに、智次坊を見つけてくれる。神隠しを気にしておられるお館様であれば、真相の解明に力を尽くしてくれるだろう。神隠しはもう――島から消える。


ぐずっ。何故だか、鼻の奥がじわじわと熱くなり、洟が目から出そうで、平佐田は息を止めた。

 大切なもの、大事なもの、平佐田にたくさんのものを与えてくれた島。最初に出会った島の案内人のような智次は、島そのもののように思えてならない。山には絶対に何かある、智次坊は何かを探していたんだ。


「え? 何を探したはるんどすか?」

「智次坊!」


 平佐田は咄嗟に、声に飛びついた。いつだって滋子の口真似をして、平佐田を騙したのは智次坊だ。


帰ってきてくれたんだね、智次坊。おいは、おいは…… 


「あの……せんせ、智次坊を探したはるんは、よろしゅおす。やて……」

 手を取って抱き寄せた智次坊は〝本物〟だった。柔らかくて、いい匂いがする。

「うわっ。あ、え、その、すんませんっ!」

 すっかり舞い上がった平佐田には、本物も偽物も訳が分からない。ともかく。滋子の本物であれば、お触りは禁物だ。すぐに〝痛い目〟に遭うと、体が覚えている。

「せんせ……」はにかみながら、そっと体を起こした滋子の右手が、ぐっ、と握られて、小さく震えている様を、平佐田の目が捉えた。



        

「あと少しですよって」


 滋子の案内で、平佐田は未踏の山奥を歩いている。意外にも道は緩やかで、草木も多く研究材料になりそうな薬草も、そこかしこに、ちらほら。

 が、本日の平佐田は、大事な研究材料らを無視する。前を行く着物の裾から見える、白く美しい足首も、だ。ともかく、聖域に達しなくては意味がない。


「あの……ここらは、まだ、島の人たちも……」

「いいえ。そやけどほんまはあかん。けど結構、みんな来る。道は緩やかやし、あまり、人来ぃひんちゅう安心感もあって。逢い引きにはもってこいどす。島の若いもんなら、大抵知ってます」

 けろり、として滋子は言う。

(逢引か……)

平佐田としては、気に掛かるところだ。

「滋子さんはよう、ここに?」「へぇ」


誰と……


 聞きたいが、聞けはしない。まさか、本当はお館様と上手くいっているとか……

 邪推も甚だしい平佐田の〝もやもや〟を、滋子は、あっけらかんと打ち破った。


「好きどすねん、ここ。なっこう、落ち着く感じがして……」

 見渡せば、山の奥とは思えぬほどに視界は平坦で、潮の香りが好ましい。海風に靡く草花は、元気のいい子供みたいだ。

「聖域に近いから、でっしゃろ。ここには神様が寝てるような気がして。うちは、ここが島一番の場所や思うて。ここでは、嘘はつけまへん、島神様が見てるんや……」

 滋子が足を止める。平佐田もまた、足を止めた。〝子供たち〟が潮風にさらさらと笑う。


「好きどすねん……」


小さな肩が震えている。

「使いが来ました」と、滋子が振り返る。

 どこか頼りなげな顔は、平佐田が初めて見る滋子だ。平佐田の胸が、きゅん、と鳴った。

「婚儀が決定どす。お館さんから使いが来たんや。うち、さかしまらいきれまへん。けど……どないもならしまへん。好きどすねん、うち……」

 ふわり、と倒れ込んだ肩を抱けば、平佐田の胸が熱くなる。

 すべては、予想がついたはずの出来事だ。滋子の想いが限りなく嬉しくもあり、また、重くもある。おいは……

「滋子さんが好きです。初めて会うた時から。好きで好きで、どうしようもなく、おいは滋子さんを……」幸せにしたい。

 言いたい言葉は喉に詰まる。言うは簡単だが、

己に、それができるか――

 平佐田は、言葉を飲み込んだ。できはしない。

先生は近く、全員が本土へと帰るのだ。長く続いた島の仕来りに、高々本土の〝使いっ走り〟が、太刀打ちできるはずもない。(滋子さん、おいは……)

「近いうちに本土へと帰らにゃあなりません」言わねばならぬが、言いたくはない。すぐにわかる話ではあるが、今は。

「迎えに来ます。待っとってください」などと言えば、いい加減な男に思われる。

 迎えに来られる確証は、一切ない。ならば、

「一緒に行きましょう。幸せにします」言えればいい。

 だが、本土へ戻っても、あてはない。薬園師見習いでは、一人で食っていくのがやっとだ。


「せんせは……うちを、どない思うてはりますのん?」


 いつも溌剌とした滋子の、絞り出すような声が余計に愛おしい。平佐田は胸が潰れる思いを持て余し、ただ、ぐっ、と細い肩を抱く手に力を込めた。

(そうそう。ここは、ぐっと押しの一手。後のことなんぞ、考えとっちゃあ、いつまで経っても〝おいどん〟にはなれんぞ)

 化け物蟹の囁きには耳を貸さず、押し戻された滋子が、切なさを湛えた目を平佐田に向けた。滋子さん……

「おいには、大事な仕事があります。おいは……」


 ばしっ、言いかけた言葉は潮風に攫われ、熱い頬をいずこかから飛んできた草が撫でる。

 見る間に滋子の背は、どんどんと遠ざかって行った。


(最悪じゃ)

へたり込みたいが、腰がそうはさせない。山登りで疲れ切った腰は、緊張のため伸びきっている状態で固まり、少しでも屈めば、ぐしゃり、と崩れ落ちてしまいそうだ。

 さわさわと笑う〝子供たち〟に、平佐田も所在なく口の端を曲げた。どうにもならない。心底、情けなく思う。

 とはいえ、どうにもならないものは、ならない。悔しさが込み上げ、手の甲で強く目をこすった。

 じっと悔しさと情けなさを堪えていると、遠く漣が平佐田の心に囁き掛ける。

「大丈夫、大丈夫だよ」


 さらさらと〝子供たち〟の声が平佐田の背を叩く、

「しっかり、しっかり」


 神様は、ここにいる――


「よし」

 平佐田は滋子への想いを胸の奥に押し込み、痛む腰をいたわりながら、聖域を歩き始めた。

 本日、ここへ来た目的は、一つ。智次の足取りを掴むためだ。

段々と空気の冷ややかさが全身を覆うように押し迫る。

(神様の場所じゃ)

平佐田は感じていた。

 気がつけば、辺りは鬱蒼とした木々に囲まれ、平佐田は生まれて初めて〝足が竦む〟という経験をした。

 へなちょこ時代の経験の比ではない。頭の中すら〝足が竦む〟のだ。

(頭は、足じゃなかよね)

思いながらも、一歩も進めなくなっていた。

 立っているのか、へたり込んでいるのか、それすらもわからない。かなり興奮しているようで、それでいて心は静か。

 周りの気配に抑え込まれ、身動きができないような、周りと一体化していきつつあるような、不思議な感覚だ。


「もうい~か~い」


子供の声がした。不思議と現実的な声が、平佐田を呼んだ。

ゆっくりと振り返る。木立の陰に細い子供が一人。立ち止まって、平佐田を見ている。黒く陰った顔に、きらきらと輝く目が丸い。


「智次坊?」


 そんなはずはない。この一年の間に、智次は随分と背が伸びた。だが、木立の陰に立ち竦んでいる子供は、智次よりもずっと小さい。一番最初に平佐田が会った時よりも、ずっと。

 それでも妙にこの聖域に馴染んでる姿に、平佐田は智次を感じていた。


「わっ」

平佐田の呼びかけに、子供は驚いたように声を上げ、くるり、と背を向けた。


「待って!」

平佐田は子供を追いかける。

 慣れた足取りで、子供は走っていく。まるでこの聖域は自分の庭であるかのように。

(島の子か?)

どうやら智次ではなさそうだと気が付いた平佐田は、必死に後を追う。


もしかしたら子供は、智次の事情を何か、知っているかもしれない。本来であれば、入ってはいけない聖域にいる子供だ。

(もしかして、あれが黒御子様?)

ちら、と考えが頭をよぎる。

 が、迷心は、すぐに打ち消した。またまた足が竦んでは、智次の足取りが掴めなくなる。


 前を走っていた子供が、脇に逸れた。平佐田は慌てて向きを変える。と――

 いきなり子供の姿が消えた。

「うわっ」

同時に、足元の地面も消える。


 うっかりと足を滑らせれば、断崖から海に真っ逆さま――


島人から聞いた聖域の恐ろしさを思い出す。

(聖域を犯した罰じゃ)

手を広げて待ち構えるかのような磯の香に、平佐田は覚悟を決めた。


――終わりじゃ。


 すべてが最悪のまま終わるなんて悲しい。やはり、神も仏もないのかぁ、と少し罰当たりなことを考える。

 が、もう、どうせ生きてはいないのだから、罰は当たらんと、開き直る。

へなちょこは、へなちょこなりに、自身を正当化しなくては世知辛い世の中には、いられないのだ。


(ま、これが最後だけど)

思ったとたんに吹き付ける風が止んだ。

 ぼわん。体がふわり、と浮き上がる。

(あれ?)

何度か体が浮いては落ちを繰り返した。頭がくらくらする。

平佐田は、そこで初めて、自身の身が何かに包まれている事実に気が付いた。ちょっと魚臭い。


「一丁上げ―。ちゅさらいなんかするからやっさ―、うひぐゎ―やあがっみ―んかい合うとゆたさん。ないさん、へ―く。わんなや奴、捕まえのみぐさぁ~」


 上から聞こえてくる声は、〝天の声〟か。ならば、理解できる言葉で言って欲しい。何を言っているのか、ちぃともわからん……。

「あちゃあ……」

間延びした合いの手は、どこかで聞いたような……


「石坊、ばっぺーさぁ~。あぬひゃーやちゅさらいなんかあんに、わんぬ知ってからいるちゅだしよ、しぇんしぇ~ぬ~が。あぁ、いかん、せんせ、平佐田せんせ! 怪我しとらんかぁ~」

 神様が心配してくれている。ありがたいことだ。

 が、何だか頭がくらくらするし、地に足がついていない現状は、何とも不安だ。だが〝どこかで聞いたような記憶がある〟神様の声に、返事はしなくてはならん。

 そこで平佐田は首を上げて……

 ぐきっ! 腰が恐ろしい音を立て、きん――脳天を雷光が貫いた。


「□〇×△……」


言いたい言葉がどこかへ飛んでいった平佐田は、そのまま魚の臭いに包まれて、目を閉じた。


読んでいただき、ありがとうございました。

次回、お話は別の角度から神隠しを語ります。ぜひ、お立ち寄りください。よろしくお願いいたします。

m(_ _)m

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