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私には名前と呼ばれるものがなかった。
掃きだめのようなスラムの中で、血のつながりで言えば母と呼ばれる人間と共に暮らしてはいたが、日々腹を空かせ、食うに困り盗みを働き、ゴミを漁り何とか命を繋いでいた。母と呼ばれる人は私のことが嫌いなようで、いつも口癖のように「おまえなんかいなければ」と言った。
お前なんか生まなければ。そんな醜い色をして生まれてくるなんて。疫病神め消えろ!と時々狂ったように私を突き飛ばし、殴り、蹴り飛ばし、そのあと疲れたように粗末なベッドで眠った。
私には頼る人などいるはずもなく、行く場所もなく、けれどそう遠くない未来、自分は死んでしまうのかもな、と小さな頭でぼんやりと考えていた。
その日は母の機嫌が輪をかけて悪く、顔の形が変わってしまうんじゃないかと思うほどに殴られた後家の外の路地に投げ捨てられてしまった。きっかけは何だったのか考えてみたけれど、きっとどの道助けなどないと分かっていたので、打ち捨てられるがまま痛む体を抱え蹲っていた。
薄暗く日の射さない、冬の夕方のことだった。
頭がぐらぐらして目の前がよく見えなかったし、耳は水の中を歩いているように不明瞭な音しか拾わなかった。これで死ぬのかな、そう思えば痛いのも苦しいのも仕方がないことような気がして何となく空を見上げていた。灰色の空から小さなかけらが降ってくる。それが積もって、雪になる。真っ白なそれに埋め尽くされてしまえば、私も溶けて消えてしまえるんじゃないだろうか。
ふわふわと落ちる不明瞭なかけらに手を伸ばしてそれを掴もうとしたとき、ぐっと強い力で手首を握られた。あぁ、こんな死にかけのみすぼらしい子供に欲情するくそったれが近くにいたのかとうんざりとしながらも理解して、それはなかなか最低な幕切れだなぁと諦めて腕の力をふっと抜くと、肩が外れるかと思うほどにさらに引っ張られ思わず目を見張った。無理やり引き上げられた上半身がひどく傷んだ。けれどそれよりなにより、目の前の光景が理解できずぽかんと間抜けな表情をさらすしかできなかった。
「ようお嬢ちゃん。もう死神でも迎えに来たか?」
そう言ってにやりと口角をあげて笑ったその人が、死神でないとしたら一体何なのか。
銀色の髪に真っ黒な夜色の瞳をしたその男の人は、どうみてもこの掃きだめみたいな場所には似合わない姿形で、私の瞳とおそろいの瞳でまっすぐにこちらを見て笑った。
誰もが眉をしかめ、唾棄する私の真っ黒な髪を何の感慨もないように眺めて、大きな手でくしゃりと私の頭を撫でて、言ったのだ。
「夜の女神の忘れ物か?なら、貰っちまうか」
本で読んだ王子様なんかじゃない。王子様に倒される悪者のほうが似合ってる。
そんな人が、その日から私にとってのたった一人の神様になった。
彼が私を「ノーチェ」と呼んだ。
異国の言葉で『夜』という意味だと教えてくれた。
私が生まれ育ったハルジオン聖教国は、貧富の差が激しく、また差別が往々にして罷り通っている国であった。特に忌み嫌われるのは黒であった。黒色は不吉、災厄の兆しとされ、夜の女神とは死を招くもの・死を誘うものという揶揄を含みの悪神として忌み嫌われていた。
「至高の一神教ってな。まぁ、お前にはいい迷惑だったろうが、くそったれなこの国には似合いの信義だろうさ」
煙草の煙を燻らせながらそう嘯く彼に、なぜと問うたことは何度も、幾つもある。
なぜ、私を拾ったのか。
「お前が目の前に転がってたからさ」
悪だくみしているような顔でにやりと笑いながら、答えられる。
なぜ、私を神殿へ連れて行かないのか。
「そんなことしたら殺されちまうぞ?お前、こんな下らねぇ神様だとかを信じてる、狂ったやつらに殺されてぇの?」
馬鹿にしたように小さく笑いながら頭を撫でられる。
私を拾ったところで、良いことなんて何もないじゃないか。
「んな事はねぇだろ。少なくとも、俺は満足してる」
なんてことない顔で手招きされる。
「お前は知ったことじゃねえだろうが、黒は忌色だー黒髪がーだの何だの言ってんのはこの国ぐらいだ。外に出りゃあだからどうしたってなもんなんだよ。けど、んな事お構いなしに俺らは嫌われて、疎まれて、命すら盗られそうになる。嫌んなるね、俺は」
でも、でも。
「ん?」
……私は知らない。皆に嫌われない方法を。お母さんを怒らせない方法も。どうしたらいいか分からない。皆、不幸になるって言う。私がそばにいると、気味が悪いっていう。……いなくなればいいのに、って言う。だから。だから、
「……知らねぇだけだよ。お前と一緒だ。他の奴らは知らねえんだ。神様のいうことばかりを聞きすぎて、俺らみたいな人間が普通の人間と変わらねぇことを知らねぇだけだ。」
「だから、俺が教えてやる。何が普通で、何がおかしいのか。お前に見せてやる。こんな狭い場所だけがすべてじゃないってことを」
彼の言葉も表情も、よく覚えている。そうやって教えてくれる瞳の中にたくさんの悲しみが浮かんでいたことも。それでも決して膝を折ろうとせずに、前を向って歩く大きくて広い背中も。
きれいな銀色の髪に反射して、昇る朝日がとても眩しかったことも。