五家の性質―莉莉は見た―
「ふつつか」2巻発売御礼です。
ひとつのモチーフを巡って、五家の性質を説明するような話にしたいなと考えていたら、なぜか思いついたのが駄洒落でした…(謎)
作者は特に、駄洒落を肯定するものでも否定するものでもございません。あらかじめご了承くださいませ。
五家に連なる者たちは、祖先が奉じてきたものの性質を、魂に色濃く宿すという。
たとえば、詠国の開拓を一手に担ってきた黄家は、大地のごとき揺るぎない性格を持ち、水を奉ってきた玄家は、凪いだ水面のような冷淡さと、荒ぶる波のような過激さを持ち合わせる。
不動の黄家、冷酷な玄家、理知的な藍家に誇り高い金家、そして苛烈な朱家。
こうした性質は、詠国の住人に広く知られているものではあるが、他方で、それを深く信じる民というのは、意外にもそう多くはない。
それは、五家の性質が色濃く表れるのは、基本的に貴族たちだけである、と彼らが信じ込んでいるからであるし、その民自身が、実際に五家特有の性質を保持していたとしても、周りのほとんどが似たような性格であるため、自覚しにくいからだ。
よって、下町暮らしが長かった莉莉も、女官として出仕するまでは、「五家の性質」などというものに、深く注意を払っては来なかった。
言われてみれば、たしかに南領に連なる者として、多少直情的かもしれないが、皆そんなものだろうと、そう思い込んでいたのである。
彼女がはっきりと、やはり家ごとに性質の違いがあると認識したのは、五家の血を色濃く継ぐ雛女――具体的には、黄 玲琳に関わりはじめた頃からだ。
攻撃的で、すぐに感情を高ぶらせる朱家の女たちと異なり、玲琳は一向に感情を揺らさない。
いつでも微笑み、滅多なことで怒らず、誰にも涙を見せたことがないほどだ。
(黄家の方々って、みんなそうなのかなあ)
同じ人間でも、家柄によってこうも違うものか。
莉莉が気になりだしたちょうどそのとき、彼女は梨園で、銀の簪を拾った。
玲琳たちの入れ替わり事件を経て半月ほどの、穏やかな夏の午後のことである。
***
―黄家―
「やだ、ご大層なもの、拾っちゃったなあ……」
主人――梨園のどこかにいるはずの朱 慧月を探していた莉莉は、そのとき、四阿の片隅に光るなにかに気づき、手を伸ばしてしまった。
拾い上げたのは、紅玉を施した上等な銀の簪だ。
大量の宝石を埋め込んでいるわけではないので、おそらく女官のものだろう。
ただし、繊細な銀鎖や、模られた花の美しさを見るに、「上級」女官のものだ。
「絶対、探してるよな……。鷲官に届けなきゃ、だめかな」
しかめっ面をして、呟く。
即座に届け出るべきとはわかっているが、「女官の簪」、「鷲官」の組み合わせを前にすると、過去の忌まわしい記憶が刺激され、つい尻込みしてしまうのだ。
(誰かに託してしまえないかな)
簪を持って鷲官の詰め所に行くのは、今でも抵抗があるし、かといって一度拾ったものを再び捨てるというのも忍びない。
困って視線をさまよわせていたそのとき、梨園の奥まった四阿から、華やいだ笑い声が聞こえてきた。
「ふふ、もう、いやです、陛下ったら」
「いやいや、玲琳。面白いのはここからでな」
どうやら、黄家の雛女・玲琳と、その後見人である皇后・絹秀が語らっているらしい。
彼女たちは単なる姪と伯母というよりも、実の親子のように仲がよく、時折こうして梨園に出ては、楽しげに過ごしているのである。
傍らに控えている藤黄女官たちも、くすくすと笑っている。
遣いに出ているのか、厳しい雰囲気の筆頭女官がいないので、いつもより一層雰囲気が和やかだ。
その空間には何の悪意もなく、純粋な好意と敬慕が満ちていて、茂みの陰から彼女たちの姿を覗いた莉莉は、ついしみじみと息をついた。
(黄麒宮の方々って、本当に仲がいいよなあ)
大地を司る者たちが、一般的に朴訥としていて、大の世話好きと言われるためだろうか。
彼女たちはいつだって穏やかで、また闊達でもあり、なんにでも楽しみを見出して笑っているように思われる。
「そのとき……、いいか、笑うなよ。絶対笑うなよ? なんとな――布団が、吹っ飛んだのだ! はっはっは!」
「ふふっ!」
「いやですわ、陛下ったら!」
「あははははっ」
絹秀が口の端を笑いでひくひくと震わせながら、決め顔で渾身の駄洒落を叫ぶと、玲琳も女官たちも一斉に笑い出す。
(いや、笑いの沸点低すぎない?)
遠くで聞いていた莉莉は、ちょっと顔を引きつらせた。
皆が皆、箸が転がっても面白いという年頃でもあるまいに。
だが、女たちがなんの嫌味もなく、素直に笑い合っているというのは、なんだか微笑ましい。
莉莉は軽く肩を竦めて、黄家の性質を肯定的に受け入れた。
(大地のごとく動じないと聞いていたけど、些細なことでも笑えてしまうあたり、意外に感受性が豊かなのかも)
この雰囲気なら、藤黄の誰かに言付けてしまえるかも、と茂みから踏み出そうとしたそのときだ。
げらげら笑っていた絹秀が、衝撃的な一言を付け加えた。
「――こうして、陛下の寝所に侵入した刺客は、布団ごと取り押さえられたというわけだな。今は拷問に掛けておる。ははっ」
(はっ!?)
全然些細な話題ではなかった。
(えっ、し、刺客、えっ!? 大陸一尊いご身分の、天子様のご寝所に……えっ!?)
「まあまあ、刺客さんも、よもやお布団に妨害されるとは思いませんでしたわねえ」
相槌を打っていた玲琳は、目の端に残った涙を拭いながら、まだ笑っている。
「お布団が……吹っ飛ん……んふっ」
(いや、反芻するのそこじゃなくない!?)
莉莉はぎょっとするが、周りを固めた藤黄たちも、なんでもない笑い話を聞いたというように、ただくすくす笑うのみである。
先ほどの印象から一転、女たちに底知れぬ印象を覚えた莉莉は、じりっと後退しはじめた。
「あら? 莉莉?」
と、そのとき、茂みの立てる音に気付いたのか、ぱっと玲琳が顔を上げる。
(ひっ!)
なぜ気付く。
大好きな主人なのに、どうしてだか、天敵に見つかった被食者のような心地を覚えて、莉莉はつい、その場を走り去ってしまった。
「莉莉? どうしたのです!?」
「御前、失礼いたします……!」
目的地もなく走りながら、莉莉は心の中の帳簿の、黄家の欄に一言、こう書き加えた。
《黄家》動じないにも程がある。
***
―玄家―
ばたばたと梨園を走っていると、背後から厳しい声が飛んできた。
「止まりなさい」
はっとして振り返れば、なんと、黄家筆頭女官の冬雪である。
ちょうど文でも言付かっていたのか、鷲官長・辰宇も一緒だ。
雛宮の風紀を預かる役人と、規律正しさで知られる筆頭女官は、冷え冷えとした視線をこちらに向けた。
「雛宮の、それも銀朱をまとう女官ともあろう者が、みっともなく走り回るものではありません」
他家の女官でも容赦なく指導する冬雪は、女官の身分に留まらぬ威厳を帯びている。
「…………」
青い瞳で一瞥を寄越す鷲官長もまた、独特の冷酷さを感じさせるようで、莉莉は身を縮める思いでその場に跪いた。
「も、申し訳ございません」
考えてみれば、辰宇も冬雪も、玄家の血を引く人間だ。
水剋火。
水を司る玄家と火を司る朱家は、もともと最悪の相性なのである。
莉莉は、本能的な恐怖を感じた。
「つい、心を乱してしまいました。以後は――」
「そんなことよりも」
低姿勢に反省の言葉を告げようとしたが、遮られる。
「先ほど、奥の四阿から、我が天女・玲琳様の、鈴を転がすがごとき笑い声が聞こえました。おまえ、そちらから走ってきましたね。答えなさい。我が雛女は、なぜお笑いになっていたのです」
「は……?」
思いも掛けぬ問いを受け、莉莉はおずおずと顔を上げた。
だが、冬雪は相も変わらぬ無表情で、じっとこちらを見下ろすだけである。
「忠義を尽くす最愛の方については、ひとかけらの漏れもなく現況を把握したいもの。わたくしが遣いを命じられている間に、かの方はなにを思い、なにで笑ったのか。莉莉、答えなさい」
(重すぎる)
莉莉は真顔のまま固まった。
これが噂に聞く、玄家独特の執着というやつか。
水を奉じる玄家は、水の性質の通り、凪ぎもすれば、荒ぶりもする。
日頃は冷淡だが、執着すべき相手に出会ってしまうと、朱家の者以上に苛烈に愛し、憎むと評判である。
あくまで女官同士の噂でしかないが、玄家筋の恋人というのは、愛し合っている内は熱烈で、浮気もしない、理想的な存在なのだが、別れる際の修羅場度は、他家を遙かに凌駕するという。
(玄家こわ)
冷や汗を滲ませながら、莉莉は言葉を選んだ。
刺客云々の話をしたら、確実に彼らは血相を変えて話題を深掘りするだろう。
できればそれを避け、さっさとこの場を立ち去りたかった。
「……その。皇后陛下が、『布団が吹っ飛んだ』と仰って……それで笑われていました」
「…………」
しん、とその場が静まり返る。
冬雪と辰宇に黙り込まれて、莉莉はその静けさに叫び出しそうになった。
(地獄かよ!)
せめて。
笑えとは言わないから、せめて、突っ込むなり、苦笑いするなりしてくれればいいのに。
「い、いやあ、本当に、あの、駄洒落ですよね。でも玲琳様って、こうした内容にも微笑んでくださる、本当に可愛らしい方ですね。最高ですね。当代一の女性でございますね」
追い詰められた心地のした莉莉は顔を逸らし、早口でまくし立てると、さっと立ち上がった。
「それでは、御前を失礼申し上げます」
もう、逃げるが勝ちだ。
だが、数歩進んでから、莉莉ははっとした。
もしかして、今、鷲官長や冬雪に簪を預けてしまえばよかったのではないか。
「あの――」
だが、振り返った、そのときである。
「布団が……」
「吹っ飛んだ……」
玄家筋の二人が、互いにそっぽを向きながら、静かに肩を揺らしているのを見てしまい、莉莉は言葉を飲み込んだ。
(今なの!?)
どうやら、海水が砂浜よりも温まりにくく冷めにくいのと同じで、玄家筋の人間は、黄家の人間より笑い出すのは遅いものの、長く後を引くようである。
「…………」
「…………」
くすくす、とも声を立てず、口元をにやり……と引き上げたままの二人を見て、莉莉は静かに後ずさった。
そうして再び走り出しながら、心の帳簿にこう書き加えた。
《玄家》こわい
思い出し笑いをする率が最も高いのは玄家である、という豆知識を莉莉が仕入れるのは、もう少し先のことである。
***
―金家・藍家―
さて、いよいよ当て所もなく梨園を走っていた莉莉だが、そんな彼女を背後から呼び止める者があった。
「そこの女官、止まりなさい」
振り返ってみれば、なんと、今度は金家の雛女、金 清佳である。
彼女は、玲琳たちとは反対の隅にある四阿で、己の爪を磨きながら、物憂げにこちらを見ているところであった。
「あのう、お呼び立てしてしまい、申し訳ございません」
「…………」
その卓の対面には、小動物のような藍家の雛女・藍 芳春と、寡黙な玄家の雛女・玄 歌吹も腰掛けている。
どうやら、たまたま散歩の時間が重なりでもしたのか、梨園の四阿に落ち着いていたようだった。
(なにこの取り合わせ。地獄かな)
雛女から直々に声を掛けられるなんて、滅多にないことである。
さらに言えば、難癖を付けられたり、いたぶられたりと、不穏な予感しかしない展開である。
莉莉は地面に額を擦りつけるように叩頭しながら、己の不運を呪った。
「ひ、雛女様方には、ご機嫌麗しく――」
「挨拶はいいわ。ねえ、先ほど、あちらの四阿から、とびきり楽しそうな声が聞こえたの」
清佳は爪をいじったまま、ばっさりと莉莉の発言を遮る。
「玲琳様と、陛下のお声でしたわ。ねえ銀朱、あなた、あちらの方からやってきたわね。教えてちょうだい。玲琳様は、いったいなにを、ああも面白がっておいでなの?」
ちら、とこちらを見つめた瞳は、猫のような好奇心で輝いている。
金 清佳が、黄 玲琳を意識していることはつとに有名だ。
朱 慧月に向ける敵意とは違い、玲琳に対しては敬慕と競争心、それらが複雑に絡み合った感情を抱いているようだが、とにかく、相手の動向が気になって仕方がない様子である。
(ここでもか!)
莉莉は、二度と梨園で走ったりしないぞ、と固く心に決めながら、恐る恐る口を開いた。
「その……。皇后陛下が、会話の流れで『布団が吹っ飛んだ』と仰ったので、玲琳様は、それでお笑いになっていました」
「はあ?」
あまりにもくだらない駄洒落に、清佳が美しい眉を跳ね上げる。
「まさか、そんな低俗なことで?」
(ですよね)
頷きたいところだが、それが事実なので仕方が無い。
かといって、刺客云々の話は、軽率にすべきではないというくらいには、莉莉も宮中の常識を弁えていた。
(なんであたしが、気まずくならなきゃいけないんだ……)
くだらない駄洒落で喜んでいたのは、黄家の面々だけのはずだ。
なのになぜ今、まるで莉莉自身がくだらない駄洒落を決めたような雰囲気になっているのか。
「あの、申し訳ございません――」
「なるほど、布団が吹っ飛んだ、ね……」
だが、もごもごと詫びるより早く、清佳が円扇を取り出す。
彼女はまるで、占術師か、さもなくば巫女のように厳かな雰囲気で、もう一度言葉を繰り返した。
「布団が、吹っ飛んだ。陛下や玲琳様が仰るのですもの、なにか特別な意味が込められているのかも知れないわ。布団とは、閨、すなわちこの後宮に立ちはだかる古き秩序の象徴か、はたまた民を包み込む恩寵か……」
憂いある様子で呟く姿は、実に趣深かったが、残念ながら玲琳たちの会話にそんな深みはない。
聡明さが一周回って滑稽さになりつつある金家の雛女を、莉莉は複雑な思いで見つめた。
(……なんか)
金家の人間は誇り高く、なにごとにも美学を求めると評判だ。
同時に計算高く、その回転の速い頭脳で、素早く発言の意図や裏事情を紐解いてみせると言う。
複雑さを愛し、深みを見抜く金家の人間であるが――対象に全然深みがなかったとしたら、すべて空回りになるのではないか。
(もしあの「白練」が本物で、あたしが白鼠の衣をもらっていたとしたら……この主人に仕えるの、なんか面倒そうだな)
不敬極まりないことを、莉莉はしみじみと思った。
「あのう……」
とそこに、藍家の雛女がおずおずと声を掛けてくる。
藍 芳春は雛女の中で最も年若く、控えめで可憐な佇まいが特徴だ。
「布団が吹っ飛んだというのは、どういうことでしょうか?」
「え?」
「なぜ、玲琳様はお笑いになったのでしょう」
くりくりとした小動物のような目でこちらを見る、その表情に、からかいの色はない。
どうも彼女は真剣だ。
真剣に駄洒落について尋ねられ、莉莉はたじたじとなった。
「え……? え、ですのでそれは、その、『布団』がですね……『吹っ飛ん』だわけで……」
「ああ、韻を踏もうとしているのですね」
べつに芳春は愚鈍というわけではない。
それどころか、幼くして詩歌の才能に秀で、ときに玲琳よりも語学に通ずると言われるほどである。
言葉とは、すなわち言の葉。
木を司り、学に通ずると言われる藍家の雛女らしく、芳春もまた、理知的な人間のはずであったが、
「ですが詩ではないし、特に含蓄ある光景の描写でもありません……。中途半端に韻だけを踏むというのは、そのう、面白いのでしょうか……?」
「…………」
「説明してくださいますか……?」
遠慮がちに、けれど真顔で問われ、莉莉はこう思った。
(面倒!)
彼らには、くだらぬ諧謔を、ただくだらぬものとして味わう慣習が無いのだろうか。
「も、申し訳ございません。不才の身では、わかりかねますゆえ……」
じり、と後ずさる。
一人会話に加わらずにいる玄家の歌吹は、頬杖を突いて、あさってな方向を見つめている――いや、一人で静かに笑っていた。
(もうやだ!)
とうとう感情が振り切れてしまった莉莉は、挨拶もそこそこに、脱兎の勢いでその場を離脱したのである。
当初の目的であった朱 慧月の探索も諦め、一心に朱駒宮へと逃げ帰る。
そうしながら、彼女は心の帳簿に、こう書き加えた。
《金家》《藍家》
こいつら面倒くさい!!
***
―朱家―
はあはあと息を荒らげた莉莉は、その状態で宮に上がるのもはばかられ、つい外れにある蔵へとやって来てしまった。
菜や花が豊かに広がるようになったその場は、すっかり憩いの場となっていたのだ。
木陰に腰を下ろそうと、一番大きな木へと歩み寄っていったそのとき、莉莉は思いも掛けない人物に遭遇した。
「あら……なによ、どうして来たの?」
なんと、探していた朱 慧月が、しかめっ面で座り込んでいたのである。
最初からここに来れば、こんな目に遭わなくて済んだのに。
がくりと崩れ落ちそうになった莉莉は、苛立ちのままに、つい語調を荒げてしまった。
「どうして来たの、じゃないですよ。雛女ならこの時間、優雅に梨園を散歩して、皇太子殿下との『偶然の出会い』を待ち構えるものでしょ。引っ込んじゃってどうすんですか!」
「べつに、いくらわたくしたちがほっつき歩いたところで、殿下は黄 玲琳のところにしか向かわないって、わかりきってるじゃない」
慧月は鼻に皺を寄せて答える。
それでも、つい先日までは、つまり、入れ替わり事件を起こすまでは、彼女も一生懸命着飾っては、せっせと梨園に向かっていたはずだ。
急にわきまえた――というよりも、やはり拗ねた様子の主人に、莉莉はしぶしぶ水を向けた。
「なんか、朝から機嫌悪くないです? 慧月様が皆から見向きもされないなんて、今さらのことじゃないですか。いったい急にどうしたんです?」
「あなたも大概、しれっと喧嘩を売るわよね」
慧月はひくりと顔を引き攣らせている。
しかし、やがて表情を戻すと、ぼんやりと畑を見つめた。
「この身に、黄家の血筋が混ざっていたら、いろいろと楽だったろうになと考えていたのよ」
見つめているのは、そこに植わった菜というよりも、地面なのだろうか。
目を瞬かせた莉莉から顔を背けるように、慧月は膝を引き寄せ、顎を埋めた。
「……また一人、朱駒宮の女官が辞めるわ」
莉莉は沈黙を選ぶ。
朱貴妃が「突然」追放されてから、半月。
動揺を隠せぬ朱駒宮では、続々と女官が職を離れつつあった。
もともと感情的である朱家の女官たちは、不満や不安があると、それを押し殺すことができないのだ。
本当ならそれを、雛女の慧月が宥め、朱駒宮の規律を維持すべきなのだろうが――「どぶネズミ」とあだ名される彼女では、それが十分にできていないというのも、事実だった。
「わりと、目を掛けてきた女官なのよ。仕え始めてすぐの頃、わたくしの簪を下賜したわ。でも、最後に思うさまわたくしを罵って、去って行った。簪も、梨園のどこかに捨ててやるって息巻いてたわ」
「え……」
それは、もしや。
目を丸くする莉莉には気付かぬ様子で、慧月は続けた。
「上等な紅玉を施した簪よ。他家の雛女たちが見れば、『ああ、慧月様が与えていた簪ね』ってすぐにピンとくるはず。きっと彼女たちは嘲笑うわ。『あらまあ、ご機嫌を取りまでした女官に、下賜品を捨てられるなんてね』って」
慧月が膝に、顔のすべてを埋める。
声がくぐもった。
「本当は回収しようと思ったけれど……梨園には今、他家の雛女たちがいる。さっき、笑い声がここまで聞こえたわ。きっともう、誰かに見つかってしまったのよ」
感情の起伏が激しく、そのぶん想像力も豊かな慧月は、すっかり悲観的な予想を事実と混同してしまっているらしい。
肩を震わせている慧月のことを、莉莉はしばらく眺めていたが、やがて溜息をついて切り出した。
「違いますよ」
傍に跪いて、ぐいと簪を突き出す。
「これ、あたしが拾っておきましたから」
高慢で、差別的で、大嫌いだった雛女。
けれど、そんな彼女にも、ちっぽけな矜持や、ささやかな勇気があったことを、今の莉莉は知っている。
第一、こんなにも弱った様子を見せられては、いたぶりにくいではないか。
情にほだされやすいのも、きっと朱家に連なる者の特性である。
「莉莉……」
顔を上げた慧月が、驚きに目を見開く。
それから彼女は、困惑したように首を傾げた。
「では、さっき雛女たちは、なぜ笑っていたというの?」
「それはですね」
莉莉は一瞬渋面になってから、再び溜息を落とし、覚悟を決めた。
ここまで来たら、何人相手に駄洒落を報告しても一緒だ。
「皇后陛下が、『布団が吹っ飛んだ』って仰ったんですよ。それで、玲琳様が笑い転げてたんです」
「は?」
案の定、慧月は心底こちらを馬鹿にしたような表情を浮かべる。
「なにそれ。くっだらない」
「ですよね」
だが、それだけだった。
そして――その間合いが、今の莉莉には一番しっくり来た。
さあ、と夏の梨園を風が吹き渡ってゆく。
「……どうせあなたも、近々、黄麒宮に移るのでしょう」
ぽつりと呟いたのは、慧月のほうだった。
莉莉はしばし、口を引き結ぶ。
それから、ゆっくりと首を振った。
「いいえ」
「あら。黄 玲琳に心酔してたと思ったけど」
「まあ、否定はしませんけど。あんたの百倍素敵な人ですもん」
懲りもせず皮肉を寄越す主人のことは、きっちりと牽制し、しかし莉莉はこう続けた。
「だから、今の百倍自分を磨いてからじゃないと、移れない気がするんです」
慧月が静かに目を見開く。
すっかり涙を乾かした雛女に、莉莉は「はい」と簪を押しつけた。
「まだしばらくは、ここにいますよ。……せめて、刺客に動じない胆力を付けてからじゃないと」
そう付け加えて。
莉莉が朱駒宮に残るのには、いくつか理由がある。
ひとつには、黄 玲琳の「特別」でありたいから。
もうひとつには、あの藤黄たちと張り合うには、もっと不動心を磨く必要があるから。
あと、おまけ程度に挙げるなら、やっぱり自分には、朱家の気風が一番合っているからという理由も、あるのかもしれない。
その日、莉莉は心の帳簿を、こう締めくくった。
《朱家》
すぐ泣いて、すぐ不安になって、すぐ誰かに縋り付こうとして、簡単にほだされる。
つまり――あたし。
簪を受け取って、静かに目を潤ませていた慧月に、莉莉は、玲琳に救われたときの自分を思い出した。