倶理須益(くりすます)の思い出―尭明&絹秀―(後)
(起きている!?)
玲琳は、なぜか胸の前でしっかりと匕首を握りしめている。
寝間着である白い衣、そして背後に置かれた松の巨木とあいまって、鬼気迫った感のある姿に、尭明は顔を強張らせた。
「紅紅老人様。松の樹を目印に、わたくしの兄たちを連れ去りにきたものとお見受けします。で、ですが、お兄様たちは、おわたしできません……っ!」
「いや、いらん!」
なぜそうなるのかわからず、思わず叫び返すと、玲琳はふと目を見開き、首を傾げた。
「……? お従兄様……?」
どうやら、声から、そこにいるのが尭明であると悟った様子である。
『いかん、尭明!』
背後からの囁きを聞き取り、振り向いてみれば、衝立に隠れた絹秀が、ごくごく小声で鋭く命じてきた。
『ごまかせ!』
(どうしろと!?)
いつだって母親というのは、無理難題を吹っかけてくる生き物である。
「お従兄様が、なぜ、ここに……?」
玲琳が不思議そうに呟くのを聞き、尭明は咄嗟にこう答えた。
「わ――儂は、紅紅老人である。今は、この男の体を借りている」
『……ぐふっ!』
背後から、笑いの波を、歯を食いしばって耐えているようである絹秀の声が聞こえる。
いや、こらえきれず震えているらしく、彼女の持つ鈴が、しゃら……っ、しゃら……っ、と小刻みな音を立てていた。
「さ、さようでございますか……。あの、この鈴の音は……?」
「鹿だ。首に鈴がついている」
やけくそになって尭明が答えると、玲琳は納得したように頷いた。
「さようでございましたか。紅紅老人様が、肉体をうばう道術を操るとは驚きでしたが……たしかにこの屋敷にいらっしゃるには、他国のご老人の姿より、殿下のお姿のほうがやりやすいのかもしれません。家人に見つかっても、まず捕らえられることはございませんし」
納得の仕方が妙に現実的である。
だが玲琳はそこで眉を寄せると、心配そうに続けた。
「ですが、皇族の方のお体を操るなど、この国では重罪でございます。紅紅老人様のご流儀もおありかとは存じますが、どうぞ、一刻も早く、そのお体を離れていただきますよう」
「あ……ああ」
「お従兄様のお体は、詠国でも特別尊くていらっしゃる。このような寒い夜に出歩かされて、お風邪でも召しては大変でございます」
真剣にこちらの身を案じる玲琳の姿に、尭明は心を打たれた。
すっかり紅紅老人を信じ込んでいるのがおかしいやら、罰や体調を案じる姿が愛らしいやらで、危うくにやにやしそうだ。
こうなったらもうやりきるしかない、と心を決めて、尭明は軽く咳払いをした。
「そうだな。ことを済ませ、早急にこの場を去るとしよう。黄 玲琳。おまえは日頃、品行方正にしてその気性は鮮美透涼。よってそれを讃え、紅紅老人よりここに褒美を賜る」
「い、いいえ。わたくしへの贈り物などよいのです。それより、お兄様たちは……? 紅紅老人様は、悪き行いをした者は、連れ去ってしまわれるのでしょう……?」
貝殻に収まった頬紅には目もくれず、あくまで兄たちの行く末を懸念する玲琳が愛しいやらおかしいやら。
尭明は噴き出すのをこらえるため、視線を逸らした。
「あやつらは救いようのない悪童であったが、近年はこの体の持ち主に尽くすなどして、見どころがある。これからも皇太子に忠義を尽くすことを条件に、今宵は罰を見送ろう」
「よかった……! お言葉、しかと伝えます……!」
「うむ」
尭明は緩んでしまう口元を隠す意味も込めて、深く頷く。
衝立からも、しゃらしゃらと小さな鈴音が響いている。
とにかく、黄家に連なる者たちは、この愛らしい姫君のことが大好きであった。
「では、この体が風邪を引かぬうちに、儂は去るとしよう。ほら、黄 玲琳。よい子のおまえは、この頬紅を受け取るように」
「あの……ですがわたくし、このような贈り物をちょうだいできるような、身の上では……」
再度贈り物を突きつけると、玲琳はやはり遠慮する素振りを見せる。
尭明は強引にその手を取って、小さな掌に貝殻を載せた。
「黄 玲琳。おまえには、受け取る資格がある」
「ええと……」
「躊躇うな。おまえはもっと、素直になったほうがいい。自分の感情を見せることについても、他者からの好意を受け入れることについてもだ」
ついでに、出会ってからずっと、この少女に対して思っていたことを告げてみる。
玲琳は、聡明だ。
そして芯が強い。
病弱な身では周囲を心配させると知り、常に笑顔を保ってみせてしまうほどに。
だが、その揺るぎのない笑顔、脆さと背中合わせのような強さを見るにつけ、尭明たち周囲は思わずにはいられないのだ。
もっと素直に。
もっと躊躇いなく。
弱いところも、みっともないところだって、見せてほしいと。
瞳を揺らした玲琳の、そのほっそりとした指に手を添え、貝殻を握らせる。
「受け取れ」
「ありがとう、ございます……」
おずおずと頬紅を引き寄せた相手に、満足の頷きを返すと、尭明は踵を返した。
「では」
「あの!」
だがそれを、身を乗り出した玲琳が呼び止める。
彼女は寝台下の櫃からあるものを取り出すと、それを尭明へと差し出した。
「よろしければ、こちらの品をお納めください」
「これは……首布か?」
「はい。夜にいらっしゃるとお聞きしていたので、お寒かろうと思い、懐柔……もとい、おもてなしのためにご用意しておりました。紅紅老人様の本来のお姿を知りませんが、どなたにも似合う柄で刺繍いたしましたので」
どうやら兄の拉致を恐れた玲琳は、匕首で戦う策と、贈り物で懐柔する策の両方を講じていたらしい。
「暖を取るための炭や火種も、少量ながら袋に詰めましたので、お持ちください。あと、携帯しやすい干飯と、風邪予防に葛の根を煎じたものと、温石と、あと……」
紐で丁寧に色分けされた麻袋は、櫃から続々と出てくる。
「鹿さんにも、どうぞこの芋を」
「鹿にもあるのか」
将を射んと欲すればまず馬を射よ、の精神であろうか。
鹿にもどっさりと芋の詰まった袋を用意してみせた従妹に、尭明は思わずぼそっと呟いた。
気付けば両手いっぱいに荷を抱えた尭明だが、それでも玲琳の前でふらつく姿など見せられるはずもない。
持ちしげりのする大量の麻袋を抱き込むと、極力飄々とした足取りで、室を出て行った。
「早く寝るように」
「はい。紅紅老人様も、どうぞお帰りの道中、お気を付けくださいませ」
そんな返事を背後に聞きながら。
「『儂』……『この男の体を借りている』……くくっ」
「母上。いい加減に笑いやんでください」
玲琳の寝室を離れ、客室に落ち着いても、まだくつくつと肩を震わせている絹秀に、尭明は仏頂面になった。
「元はと言えば、母上の雑な進行が原因でしょうに、必死に立ち回った者の努力を笑うなど」
「だって、おまえ……いや、その通りよな。この母が悪かった。許せ」
絹秀は目尻の涙を拭い、ようやく笑いを収めた。
「それにしても、玲琳もよくこの短時間で、それだけの『賄』を用意したものよなあ」
「よほど必死だったのでしょう。変にだまされやすいところと、いっぱしに策を巡らせているところとが合わさって、おかしいやらなにやらですが」
尭明は麻袋を床に置くと、頬を緩めてそれを見下ろす。
「芋や炭は御厨に返しておくか。だが、聡明なあの子だもの。きっと芋の数も数えていて、そんなことをしたら、真相が露呈してしまいそうだなあ」
「そうですね……」
尭明は母に相槌を打ちつつ、山となった芋に目を留める。
それから少し考えると、おもむろにそのうちの一つを手に取った。
「西の方角は、この塀か……」
そして窓から覗く塀を一瞥すると、彼はなにを思ったか、生のままの芋に、がぶりと齧りついた。
「おい、尭明? どうした?」
「彼女のことだ。明日には本当に紅紅老人が鹿を駆ってやってきたのか、痕跡を探ろうとするでしょう。くれぐれも、本人に屋根など上らせないように、家人に言いつけておいてくださいね」
そうして、窓からひょいと芋を投げたのである。
芋は見事に塀の瓦に引っ掛かり、あたかも、空を駆ける鹿が芋を食べこぼした跡のように見えた。
「残りの芋と炭は、俺が持ち帰ります」
尭明は片方の頬を上げ、苦笑した。
「残念だが、玲琳の前で首布は使えないな」
「おまえ……」
絹秀がしみじみと溜息を漏らす。
馬鹿にされる前に、尭明は素っ気ない声で牽制した。
「愚か者の行いとは承知しておりますゆえ、なにも言わないでください」
「いやいや。母は感動しておる」
絹秀は珍しく、息子に優しく笑いかけた。
「これも黄家の血なのかなあ。妾は、日頃のすかした小賢しいおまえより、今の愚かしいおまえのほうが、数段好ましく見えるぞ」
「……皇太子として隙なく振舞おうとする息子の努力を、さりげなく貶さないでいただけますか」
「はは、すまん、すまん」
上機嫌な絹秀の笑い声は、夜更けの空気にそっと溶けてゆく。
貝殻を胸に押し抱いて眠る玲琳の室にも、笑い合う絹秀たちの室にも、夜空に輝く冬の星が、細い光を注いでいた。
***
「やっぱり、どう考えても、納得がいかない!」
朱駒宮の、外れにある蔵でのことである。
照り付ける陽光の下、汗を垂らしながら芋を収穫していた朱家の女官・莉莉は、勢いのままに背後の主を振り返った。
「雛女様。あんた、雛女なんですよ? 中元節の儀の前日っていう、ほかの宮なら肌の手入れにでも専念しているべきだろう時分に、なんであたしたちは、せっせと芋なんて掘ってるんですかね? それも、舞の稽古とその他鍛錬の合間にですよ!」
「まあまあ、莉莉。収穫を急がねばと焦るほど糧に恵まれるなんて、このうえない幸運ではありませんか」
おっとりと返すのは、「朱 慧月」。
雛宮のどぶネズミと呼ばれ、乞巧節に黄 玲琳を突き飛ばしたかどで、今は朱駒宮の外れの蔵に追いやられてしまった、雛宮の嫌われ者である。
ただ、高慢であったはずの彼女は、牢に入れられたことで正気を失ってしまったのか、乞巧節の夜を境に、すっかり人が変わってしまった。
なにしろ、つい先日までいたぶっていたはずの下級女官ともこうして気さくに会話し、追放生活もなんのその、嬉々として畑を耕しているのだから。
妙に堂に入った腰つきで、鍬を振るう雛女を見て、莉莉は一層眉をつり上げた。
「いや、そうじゃなくて! 雛女や傍付き女官自らが、畑仕事してるのがおかしいって言ってるんだってば!」
彼女がそう叫ぶのも無理はない。
追放後の「朱 慧月」は、不便な蔵暮らし。女官も莉莉一人しかおらず、身支度どころか食料の世話まで、すべて自力で賄わなくてはならない。
主人が妙にウキウキしているから、うっかり受け流してしまいそうになるが、冷静に考えて、普通の女ならば数日で死んでもおかしくない、苛烈すぎる処置だった。
「これっておかしくありません? 過剰な制裁じゃありません? 鷲官長様は以前、『過剰な制裁があれば訴えろ』と仰っていたじゃないですか。あたしたち、抗議すべきなんじゃないですか!?」
「ええ……、ですが、特に不自由があるわけではありませんし。ねえ?」
莉莉は意気込むが、主人は困ったように頬に手を当てるばかりである。
「いや、不自由を感じてくださいよ、そこは!? だいたい、こちらが抗議しなくても、一目見て悲惨な境遇なのは明らかじゃないですか。殿下も内情を知りながら、なんだって放置なさるのか。公明正大でお優しい皇太子との評判は、実は嘘なんじゃないですか……!?」
「こらこら、莉莉、不敬ですわ」
感情が先立ちやすいのは、朱家の性である。
怒りをそのまま不敬な言葉で発露させた女官のことを、朱 慧月――の顔をした玲琳は、おっとりと窘めた。
そう。
乞巧節の夜を境に、「朱 慧月」の体には、黄 玲琳の魂が収まっているのである。
「殿下は皇太子として、この雛宮の雛女たちを公平に導かなくてはなりません。騒動を起こした雛女のことを、一時の同情で簡単に許すことがあってはならないのでしょう」
「ですが、いくら秩序を守るためとはいえ……すでに獣尋の刑を終えたのに、これだけ悪意的な環境に置かれた女を放置するのは、あんまりです。秩序に厳格なのは認めますが、冷酷なお方なのではないですか」
諭された莉莉は、語気は弱めつつも、やはり不満が残るのか唇を尖らせる。
だがそれを聞いた玲琳は、掌中の芋に視線を落とし、くすくすと笑った。
「いいえ、そんなことはありませんわ、莉莉」
そうしてなぜだか、愛おしそうに、泥の付いた芋を撫でる。
「殿下は皇太子としての責務を全うすべく、厳しくお心を引き締めていらっしゃるだけなのです。本当は、とてもお優しくて、情の深いお方ですわ」
「そう……なんですか?」
「ええ。――ああ、そうですわ、莉莉」
しぶしぶ、半ば疑問形で頷いた莉莉に、玲琳はふと尋ねてみる。
「芋って、生で齧ったら美味しいでしょうか」
「はあ!? 馬や鹿じゃあるまいし、そんなことしませんよ。お腹を下すに決まってるでしょう!」
「……ですよねえ」
とうとう、両手で口を覆い、ふふっと笑いだしてしまった主人を、莉莉は怪訝そうに見つめた。
「なんなんです、いったい?」
「いいえ。殿下は本当にお優しいと、改めて思っただけですわ。わたくし、三年も信じましたのよ」
「はい? さっぱり意味がわからないんですけど」
半眼になった女官を置いてけぼりにして、ほっかむりをした雛女はくすくすと笑うばかり。
星降る夜、絹秀の密やかな笑い声が空に溶けていったのと同じように、夏の梨園に、鈴を転がすような軽やかな笑い声が、いつまでも響いていた。