星に祈る―冬雪―(後)
「わたくしを、雛女付きに、でございますか?」
その日冬雪は、偉大なる皇后に向かって、初めて語気を強めるという不敬を働いた。
むろん、その命令が不服であったからだ。
二十三の若さで、雛女、それも最大勢力である黄家の雛女の筆頭女官となる。
これは普通に考えれば、破格の栄誉と考えてよい。
事実、それまでの冬雪は、かろうじて藤黄色の衣――つまり黄家上級女官の衣をまとっているとはいえ、皇后付きの女官の中では最年少の部類であった。
それが筆頭を名乗れるのだから、興奮に頬を染めてもよいところだったが、冬雪はこう思ったのである。
「……わたくしに、なにか至らぬ点がございましたでしょうか」
「なぜそうなる。言うたであろう。妾はおまえを高く評価していると。玲琳は我が掌中の珠。妹の遺した大切な娘であるからこそ、信頼できるおまえに託すのだ」
無表情ながら、わずかに視線を落とした冬雪に、絹秀は軽く溜息をつく。
「まったく……一部では『氷の女官』などと呼ばれているそうだが、おまえもたいがい、暑苦しい女よなぁ」
「相手が陛下だからでございます。さらに言わせていただければ、黄家の血を汲む人間は、たいてい暑苦しいものでございます」
自分は黄家の人間である、とさりげなく強調した冬雪に、皇后は軽く肩を竦めるだけだった。
おそらく、目の前の女官が、玄家の血のほうが濃いことを理解しているからであろう。
冬雪自身、己の猛々しい性質は理解している。
日頃は冷淡、というより、あらゆるものに興味関心が働かない。
それでいて、いや、だからこそなのか、心を捧げる価値のある相手に遭遇すると、全身全霊をかけて相手に尽くそうとするのだ。
そして、このときの冬雪にとって、その尽くすべき相手とは、皇后絹秀のことであった。
国母の肩書にふさわしい、貫禄ある佇まい。
聡明さ。度量の大きさ。
そのどれを取っても、自分には到底たどり着けない境地を感じさせる。
至高の存在に従い、手となり足となれることを思うと、冬雪は恍惚感すら覚えるのだ。
それゆえに、せっかくこうした出世を示されても、心はまるで動かない。
むしろ、尽くすべき主人に突き放された絶望を思うだけだ。
黄 玲琳の優れた美貌や才能の噂は聞けど、しょせん十五にもならぬ少女。
冬雪が絹秀に感じるような、偉大な統治者としての片鱗や、人生のすべてを任せてもいいと思えるほどの凄みなど、期待するほうが無理というものだろう。
「ですが……陛下のご命令とあらば、最善を尽くします」
絞り出した答えが、冬雪の精いっぱいだった。
さて、しぶしぶ筆頭女官の座を引き受けた冬雪だったが、絹秀から任された以上は、職務を怠るわけにはいかない。
あらゆる努力を払い、最高の環境を整え、玲琳の参上を待った。
「あなたが冬雪様ですね。ふつつか者ではございますが、ご指導のほどよろしくお願いいたします」
そうして迎え入れたのは、たしかに、人相を紡ぐという麗筆神が、さぞや丹精込めて筆を走らせたのだろうと思わせるほどの、美しい少女ではあった。
咲き初めの花のような顔には品と知性とが滲み、手足は華奢なものの、懸念していたほどの貧相さも、やつれた印象もない。
ただし、はにかむような笑みと、柔らかな声は、冬雪にはさして好ましく映らなかった。
「……わたくしは女官にすぎませぬ。どうかわたくしのことは、冬雪と」
「まあ。申し訳ございません」
「目下の者に、軽々しく謝られるのもいかがなものかと」
冬雪が敬うのは、あくまで皇后絹秀だ。
あれこそまさに、荒れ狂う海原すら鎮圧する、重き大地。
その貫禄、王者らしい堂々とした姿こそが、冬雪を跪かせる。
それに比べれば、目の前の少女は善良なものの、あまり器は大きくないように見えた。
冷えた声で指摘された玲琳が、「申し訳……あっ」と口を押えるのを見て、冬雪は視線を逸らした。
「礼などおやめください、雛女様。相手は浅黄の女官でございます」
「ですが冬雪。わたくしのために、わざわざお花を探してきてくださったのですよ」
「化粧でしたらわたくしどもがいたします」
「ありがとう、冬雪。でもね、わたくし、こちらの紅を自分で試してみたいのです」
「宦官たちにまで貴重な茶を振舞うなど」
「ずっとわたくし一人が持っていても、古びるばかりでしょう。美味しいうちに、皆に飲んでもらったほうが、お茶も喜ぶというもの。さあ鷲官様方、いつもありがとうございます」
それから何度、そのようなことが続いただろうか。
玲琳は聡明だった。
天与の才なのだろう、指導するまでもなく、舞や書、刺繍など、姫君としてのあらゆる資質に優れ、心根も美しい。
ただし、下級女官にまで絶えず笑顔を向け、なにくれとなく褒美を与える姿は、ともすれば媚びているように見えたし、なんでも自分で取り組もうとする姿勢は、上に立つ者としてははしたないように、冬雪には思われた。
玲琳はこの黄麒宮の、そして雛宮の主となるべき女なのだ。
その笑みも、礼の言葉も、褒美も、やすやす振りまくべきものではない。
それに玲琳は、夕餉を済ませるとすぐに冬雪たちを退がらせてしまう。
絹秀であれば、教養ある女官を交えて碁を打ったり、経典を諳んじたりと、研鑽を絶やさないのに。
十日も立たぬうちに、冬雪の中で「黄 玲琳は、生涯を捧げる相手に値しない」との結論が固まりつつあった。
だが、短期間で筆頭女官が退くとなると、玲琳の体面、ひいては絹秀の体面を傷付けることは、重々承知している。
そこで冬雪は、筆頭女官辞退の内諾を得るべく、絹秀に面会を求めたのだが――
「なあ冬雪よ。おまえ、申の刻以降はなにをしておる?」
返って来たのは、想定外の言葉だった。
「申の刻以降、でございますか?」
「ああ。夜更けまで玲琳に付き添ったことは、あるのか?」
「それは……ございませんが」
申の刻と言えば、夕餉を終える頃だ。
玲琳はそれ以降、室に籠って過ごすので、冬雪も「寝るのが早いお方なのだろう」とだけ思って、特になにをするでもなかった。
口ごもる冬雪を見て、絹秀は静かに笑う。
そして、告げた。
「見て来い。結論を出すのは、それからでも遅くなかろう」
すべては説明してもらえなかったが、絹秀の言うことだ。
冬雪は日が暮れてしばらくした頃、命に従い、玲琳の室へと忍び寄った。
足音を殺すのは、得意だ。
扉の隙間から覗く玲琳は、すでに寝間着の白い衣へと着替えていた。
寝台も整えてあり、いつでも横になれる状態であることがわかる。
しかし――月明りだけの差し込む室の中、寝台のすぐ傍に立った玲琳が、なにをしているのかを理解したとき、冬雪は絶句した。
「…………!」
彼女は、舞っていたのだ。
それも、ひどくゆっくりと。
腕を持ち上げ、下ろす。
足を水平にまで持ち上げ、また下ろす。
それを、呼吸を五つも六つもかけながら、低く腰を落とし、続ける。
支える足腰や筋肉に、相当な負荷が掛かっているだろうことは、玄家筋の女として武芸を嗜む冬雪には、よくわかった。
「――……う」
ときどき玲琳は、吐き気を堪えるように、ふと口を覆う。
だがそれも、無言で俯き、呼吸を整えてやり過ごすと、次にはまた舞いはじめるのだ。
よく見れば、その背後の小棚には、無数の経典が積まれている。
碁も、合わせていたのだろう香と香炉も、刺繍道具も、鍛錬の余韻を感じさせるあらゆるものたちが、そこにあった。
(なんという……こと)
冬雪は愕然として、光景に見入る。
いつも可憐に微笑んでいる黄 玲琳。
天から惜しみなく才能を与えられ、優雅に佇んでいるだけの少女に見えたが、とんでもない。
それは、凄みさえ帯びた努力に裏打ちされた姿だったのだ。
彼女もまた、いいや、彼女こそは、努力を愛する黄家の女だったのだ。
「…………っ」
と、玲琳が再び小さく呻き、今度は蹲る。
しばらくそうしていたかと思うと、彼女は気合いを入れるように大きく息を吐き、その勢いで立ち上がった。
棚の周囲の鍛錬道具をさっと片付け、もつれ込むように寝台に倒れる。
なんとか寝具を引き寄せ、最終的には、寝ているだけに見える状態になった。
だが、具合が悪いのは明らかだ。
「……雛女様」
冬雪は意を決して、扉の外から声を掛けた。
返事はない。
「雛女様……玲琳様。冬雪でございます。入室のご無礼をお許しくださいませ」
やはり返事はなかったが、冬雪は覚悟を決めると、無断で室に踏み入った。
そのまま、寝台に横たわる少女を覗き込む。室にある灯すべてに火を入れ、確認したが、顔色はさほど悪くない。
だが、これだけ煌々とさせても目覚めないことに違和感を覚え、冬雪は衝動的に、眠る玲琳の腕を取った。
「…………!」
熱い。
そして、驚くほど脈が速かった。
病、それも重度のものに罹っていると見て間違いないだろう。
念のため額に触れてみれば、燃えるように熱い。
(なぜ見抜けなかった……!)
己の不甲斐なさに舌打ちしながら、ふと冬雪は気付く。
額に触れた指の先が、さらりと白粉のような感触を拾ったからだ。
まさか、と思い、片隅にある水差しで手拭いを濡らし、その柔らかな頬を拭ってみる。
すると、ごく自然に上気したような淡い桃色が、布に移った。
代わりに現れたのは、熱に侵された、青白い肌だ。
「玲琳様……。これでは、気付けませぬ」
知らず、冬雪は途方に暮れたような呟きを漏らしていた。
何度諭しても、玲琳が自分で化粧を施していたのは、気さくさからではない。
周囲に病状を気取らせぬためだったのだ。
冬雪は、胸に込み上げるなにかを飲み下し、眠る玲琳を揺さぶった。
「玲琳様、玲琳様! いかがなさいました。大丈夫でございますか! すぐ薬師を呼びますので!」
「……冬雪……?」
さすがにうるさかったのか、玲琳がふと瞼を持ち上げる。
しかし彼女は、いかにも自然に微笑むと、「ああ」と優しく頷いた。
「大丈夫ですよ、冬雪。すでに薬は飲みましたの。明日には熱も下がります。疲れると、すぐに熱が出てしまうので、困ったものです……」
語尾が眠そうなだけで、口調は穏やかそのもの。
玲琳は視線だけを動かすと、冬雪を見つめ、笑みを深めた。
「心配させてしまいましたね。ごめんなさ……ああ、また言ってしまいました」
「よいのです。結構でございます。そのようなことはもう、気にしないでくださいませ」
「そう……」
冬雪は、切羽詰まった声で訴えたが、玲琳はゆっくりと呟くばかり。
そうして、すぅ、と意識を再び溶かすその直前に、一言だけ付け足した。
「いつもありがとう」
その言葉に、冬雪は頬を張られたように黙り込んだ。
目を閉じた玲琳が寝息を立てはじめても、冬雪はしばらく、そのまま愚か者のように、寝台の傍らで跪き続けていた。
彼女は、理解してしまったのだ。
自ら化粧を施すのは、自立心からではなく、周囲の心配を避けるため。
そして、
(この方の「ありがとう」は、「さようなら」という意味なのだ……)
感謝の言葉を惜しまないのは、その相手と未練なく決別するためだ。
「玲琳様……あなた様は……」
おそらくこの少女は、冬雪の予想以上に何度も、生命の危機に瀕してきたのだろう。
夜寝たら朝には死んでしまう、という恐怖すら、幾度となく抱いてきたのかもしれない。
だから、彼女は礼を述べる。財は配分し、感謝はその日のうちに伝え、いつ死んでも心残りがないようにしている。
十五にも届かぬ少女が、そうやって、生きてきたのだ。
「あなた様は……っ」
冬雪の目に、涙が滲んだ。
込み上げる思いが、荒ぶる水のように堰を押し流し、全身に満ち溢れてゆく。
今はっきりと、彼女は、黄 玲琳こそが自分の主人であるということを、認めた。
この主人は、とびきりの化粧上手だ。
偽りの色をした白粉をはたき、嘘という名の紅を差して、感謝の口調で別れ言葉を口にする。
これほど揺るぎなく――孤高な主を、冬雪はほかに、知らなかった。
「玲琳様。わたくしが、この冬雪が、お仕えいたします。どうかおそばに置いてくださいませ。どうか……わたくしには素顔を、見せてくださいませ」
やがて、冬雪はそう声を震わせる。
握りしめていた手拭いを持ち直し、化粧を清めていった。
四六時中化粧をしていて、体にいいわけがないからだ。
そうしてこの瞬間から、冬雪は玲琳の第一の、忠実な女官となったのである。
(素顔を見せてくれ、か)
再びほうき星を見上げながら、冬雪はぼんやりと物思いに耽った。
その願いは、玲琳と近しい者なら、きっと誰もが胸に飼う類のものだ。
冬雪もまた乞巧節の夜、空駆ける星を前に、心の内でこう呟いたものである。
どうかこのお方が、素直な心を許してくださいますように。
素顔を見せてくれたなら、たとえそれがどれだけ無様であっても、全力でお守りしますゆえ――と。
冬雪は無言でほうき星を見上げる。
かの星は、はたして瑞兆なのか、凶兆なのか。
冬雪の願いは、叶ったようにも、叶わなかったようにも思える。
(近頃の玲琳様は、ずいぶんと感情を露わにされる……)
高楼から突き落とされてから、玲琳は変わった。
情緒は不安定になったし、外聞もなく寝込むようになった。
もちろん、あれだけの事件を経験したのだから、しばらくは様子がおかしいのは当然だし、素直な感情を表現するようになったことは、まさに自分が望んできたことのはずだったのだが。
(だが……なんだ?)
冬雪は、その先を追求するのが、どうしても恐ろしい。
一歩間違えばそれは、「弱みを見せる主人は尊敬できない」と、至高の存在を切り捨てることになりかねないからだ。
自分がそれを、望んだにもかかわらず。
「……怖いものがないなど、笑わせてくれる」
冬雪は再び呟くと、意識を切り替えるべく、軽く頭を振った。
女官たちを叱責したのに、自分がいつまでも回廊で星など見上げていては、示しがつかない。
中元節の儀までは、まだ半日。玲琳が冬雪の知るいつも彼女であるならば、ここから急激に回復して、にこやかに儀式に臨むことだって、十分ありえるのだ。
そう、あの、ごく淡い化粧の力を借りて。
「とびきりの化粧道具を準備しておかねば」
冬雪は呟き、今度こそその場を後にした。
おそらく明日、その準備が生かされることはないのだろうと、半ば知りながら。
誰よりも愛する雛女と、忌々しい「雛宮のどぶネズミ」が、乞巧節の夜を境に、体を入れ替わってしまっていたこと――。
その驚くべき真実を彼女が理解するのは、このたった一日後のことである。