星に祈る―冬雪―(前)
ヤンデレ女官・冬雪が玲琳に出会い、陥落するまでのお話。
本編をお読みになっていない方でもお楽しみいただけるよう、前半の世界観説明がこってりしておりますが、ご容赦ください。
「玲琳様のお加減はなかなかよくなりませんわね。中元節の儀はもう明日だというのに、いまだ熱が下がらないなんて。本当に心配ですわ」
「それもこれも、朱 慧月のせいです。高楼から他家の雛女を突き飛ばすなんて、なんと恐ろしい女だこと。それも、よりによって、寵愛深き黄家の雛女、我らが玲琳様をよ!」
「まったく、なんて忌々しい、雛宮のどぶネズミ!」
乞巧節を終え七日が経った、夏の夜のことである。
大陸を統べる詠国、その広大な後宮のひと隅では、暑さに汗ばむ襟元を拭いつつ、女官たちがおしゃべりに花を咲かせていた。
雛宮。
それが、彼女たちのいるこの場所――後宮の中でも一層奥まった、密やかな花園の場所である。
百年ほど前、血で血を洗う権力闘争が繰り広げられた広宗帝の御代を機に、肥大しきった詠国の後宮は整理され、今ではたった五家からのみ妃を受け入れることとなった。
即ち、東領を司る藍家、西領を司る金家、北領を司る玄家、南領を司る朱家、そして直轄領を司る黄家の五家である。
これら五家から送り込まれる五人の姫君が、皇后と四夫人の座を分けることとなり、彼女たちは後宮に五角形に配されたそれぞれの宮で、一定の秩序を保ちながら過ごしていた。
が、家格の拮抗する五家のこと。
一家ばかりが誉を極めたのでは、当然面白くない。
さらにいえば、それまで数千の妃を抱えていた皇帝が、たった五人の妃からしか世継ぎを見いだせないというのは、国の継続という点からも不安が残った。
広大な土地を誇る詠国は、常に、有能な統治者を求めたのである。
そこで五家は協働し、五つの宮から中央へと回廊を渡して、その先に「雛宮」なる宮を構えた。
いわく、婚姻前の子女を集め、当代一の女性である妃から淑女教育を授けるための学び舎である、と。
雛女と呼ばれるその学生たちは、妃たちと母子にも近い関係を結び、雛宮での生活を全面的に保障されるほか、妃たちの宮に一室を与えられた。
だが実際、雛宮への入内を許されるのは、五家と縁のある女のみ。
つまりこれは、淑女教育の名を借りた、次期妃育成なのである。
妃たちは、いかに雛女をうまく育て上げるかによって妃としての資質を競い、また、後見した雛女を次世代の皇后に就けることで、家の権威を上げようとした。
今上皇帝は、すでに齢四十を越える。
そこで、今代においてもいよいよ雛宮が解禁となり、そうして集められたのが、黄 玲琳をはじめとする五人の雛女であった。
彼女たちは、現在の皇太子・尭明が即位するまで、日中すべての時間を雛宮で過ごし、女としての資質を競わせ合うこととなる。
だが、こと今代の雛宮においては、妃冊立の日を待たずして、勝敗はすでに決していると言ってよかった。
誰の目からも、玲琳が皇后にふさわしいことは明らかだったからである。
玲琳は、現在皇后である黄 絹秀の姪にあたり、皇太子の尭明とは従兄妹にあたる。
名は体を表すがごとく、玲琳――宝石のように整った容姿を持ち、佇まいは優雅。
それでいて、学に優れ、才に溢れ、しかも心根も善良となれば、周囲は惹かれずにはいられない。
実際、誕生とほとんど同時に母親を亡くしたこともあって、彼女の父親や兄たち、そして黄家の人間は、この美しい少女を大いに憐れんだし、溺愛した。
尭明もまた、幼いころから愛らしく懐いてくる彼女のことを、早くから皇后にと見定めてきた節があった。
唯一難があるとすれば、玲琳はいささか体が弱く、なにかと熱を出して臥せってしまうところか。
だが、今は繊細優美を愛する弦耀時代。
淡雪のような白肌や、ほっそりとした儚げな姿はむしろ至上の美として好まれ、後宮中の羨望を集めていた。
しかも黄家は、彼らの司る「土」の気がそうさせるのか、朴訥として、大の世話好きの家系である。
誰も彼もが慈しむ対象を求めているところに、か弱い美少女が生まれたとなれば、一族これ溺愛せずにはいられない。
そんなわけで、上は黄家出身の皇后や皇太子から、下は末端の女官まで、黄家の者は皆、玲琳至上主義を掲げ、周囲から驚かれるほどの過保護ぶりを披露して、ここまで過ごしてきたのである。
ところが、七日前――乞巧節の夜に、事件は起こった。
なんと、朱家の雛女・慧月が、式典の最中に、玲琳を高楼から突き飛ばしたのだ。
朱 慧月は朱家末席の娘。無才で不美人、性格も高慢であり、「雛宮のどぶネズミ」と呼ばれ、周囲から忌み嫌われていた。他方、玲琳は「殿下の胡蝶」と呼ばれるほどに尭明から寵愛されており、それを妬んでの犯行と思われた。
後宮の警備を司る鷲官の長・辰宇が素早く救い出したものの、屋根に打ち付けられた玲琳は、その後高熱を出して伏せってしまった。
一方の慧月は、即座に牢に入れられ、翌日には「獣尋の儀」にかけられた。
容疑者と獣を同じ檻に入れ、食われれば有罪としつつ、処罰も兼ねる、実に恣意的な「取り調べ」である。
これで彼女は獣に食われ、雛宮は秩序を取り戻す。
後宮の全員が、そう信じていた。
しかしここで番狂わせが起きる。
なんと、獣のほうが倒れ、慧月は生き残ってしまったのだ。
獣尋の儀を生き延びた者は無罪とする。そうした後宮の掟ゆえ、女たちはなんとか朱 慧月への攻撃を止めた。
だが、特に黄麒宮――黄家の女たちにわだかまった恨みは消えるものではなかった。
それで彼女たちは、時折仕事の手を休めては、こうして玲琳の体調を案じつつ、慧月のことをこき下ろしているのであった。
「ああ、忌々しい朱 慧月め。玲琳様からご活躍の場を奪うだなんて。明日は中元節、雛女が舞を奉納する、大の晴れ舞台よ。玲琳様を盛大に着飾らせる機会だと、わたくし、ずっと化粧の腕を磨いてきたのに」
「仕方がないわよ、ご体調が第一だわ。ああ、でも、式典用の華やかな化粧を施した玲琳様は、まさに天女のようなお美しさだったでしょうね。……やっぱり、わたくし、もう少し祈っておこうかしら」
「そうよそうよ、明日まではまだ半日もあるのよ。ここから急回復なさる可能性もあるわよ」
「それもそうね。気合いよね。玲琳様なら、きっと素晴らしい根性を見せてくださるわ」
黄家とは、土を司る者たちだ。
古くからこの国の開墾を一手に担ってきた彼らは、総じて根気強く、言い換えれば頑固でもあり、また、努力や根性をこよなく愛する気風でもあった。
玲琳の傍に仕える上級女官ともなれば、黄家の中でもそれ相応の地位の子女。
必然その性質は、玲琳と同じく熱血にもなるわけで、彼女たちは諦め悪く、うんうんと唸りながら、仕事の手を休めて夜空に祈りはじめた。
空には、乞巧節の夜からずっと、ほうき星が浮かんでいたのである。
願いを叶えてくれるのは流星だが、この際ほうき星でもいい。
黄家の女たちは、そうしたところまでおおらかで、大雑把であった。
「そこに突っ立って、なにをしているのです」
だがそこに、冬の雪原のように冷えた声が掛かる。
振り向けば、隙のない身のこなしで佇むその人物は、玲琳付き筆頭女官、冬雪であった。
切れ長の瞳に白い顔。
端正だが、人形のように無表情で、とっつきづらさを感じさせる人物である。
「申し訳ございません、冬雪様。玲琳様のご容体が少しでもよくなればと、星に願っていたのです」
「心がけは認めます。けれど、仕事の手を休めていい理由にはならぬでしょう。玲琳様のご健康を願うのは、女官として当然のこと。常日頃その思いを胸に刻みつつ、粛々と手は動かしなさいませ。玲琳様に冷えた水と手拭いを持ってくるために、あなたたち三人は御厨に向かっているはずでしょう」
「は、はい」
取り付く島もない叱責に、女官たちは首を竦めて返事を寄越す。
そそくさとその場を後にし、冬雪の姿が見えなくなると、こそこそと囁きを交わし合った。
「ああ、怖ろしかったこと。さすがは氷の筆頭女官殿。遠縁とはいえ、玄家の血は伊達じゃないわ」
玄家とは、北領の主。
水と戦を司り、冷ややかな者が多いと知られる家系であった。
一人がこわごわと呟くと、すぐさまほか二人が相づちを打った。
「あの方が感情を揺らすところを、わたくしたち、見たことがないものね」
「玄家の血が混ざっているせいで、血が冷えているのよ。きっと、怖いものなどないのでしょうね。玲琳様のご体調に一喜一憂するわたくしたちの気持ちなど、わからないのだわ」
叱られた反発もあり、女官たちは拗ねた口調だ。
だが、冬雪の有能さと、主人への忠誠心の深さは、彼女たちから見ても疑うべくもない。
多少の厳めしさはあるものの、そうした相手も大らかに受け止める黄家独特の精神性もあり、彼女たちは結局、軽い溜息でこの事態をやり過ごすのだった。
「まったく、頼もしい筆頭女官殿ですこと」
(……ふん)
さて、回廊に残った冬雪は、冷めた顔つきで鼻を鳴らしていた。
彼女に流れる玄家の血は、女官たちが思っているよりは、濃い。
身体能力に優れたその血は、彼女に鋭い嗅覚や聴覚を与えていた。
冬雪は人よりも少々、耳がよいのである。
(化粧だなんだと、呑気だこと。玲琳様のご体調よりも大切なことなど、この世にありはしないのに)
表情は動かねど、人一倍忠義に厚い彼女は、ごく自然にそんなことを思う。
ふと、悠々と夜空に浮かぶほうき星を見上げて、彼女は呟いた。
「……ほうき星よ。おまえは、瑞兆なのか、凶兆なのか」
今は流星と同じく、瑞兆と見なされるほうき星。
だが、古くから続く家柄の出である彼女としては、いまだ、かの星を見上げると、不安のほうが先に心をよぎる。
「怖いものがないだと? 笑わせてくれる……」
女官の陰口を思い出し、冬雪はわずかに目を伏せた。
長い睫毛が、切れ長の瞳に淡い月影を落とす。
冷静沈着と言われる氷の筆頭女官にも、怖ろしいものはあった。
それはもちろん、最愛の主人を失うことだ。
玲琳が寝台で昏々と眠り続けるとき、いったい彼女はどれだけ頻繁に、呼吸を確認し、脈を取ってしまうことか。
玲琳が回復して笑顔を向けてくるとき、いったい彼女はどれだけ胸を撫でおろし、天に感謝を捧げてしまうことか。
そうした冬雪の心の動きを、誰も知る者はいない。
いや、唯一知る者がいるとしたら、それは皇后・絹秀であろうか。
かつては皇后付きであった冬雪を、「見分を広めよ」との言葉で、玲琳付き筆頭女官に命じた彼女。
絹秀であれば、冬雪の今や深く玲琳を崇拝していることも、出会った当初は彼女を侮っていたことも、すべて、知っているであろうから。
「……玲琳様と出会って、もう一年が経つのか」
冬雪は、回廊に落ちる月影をぼんやりと辿りながら、雛女付き――玲琳の下で仕えるよう命じられた日のことを思い出した。