腕時計
「ごめんなぁ。」
パジャマのまま力なく笑う姿に余計に悲しくなる。消毒液の臭いで彼のいつもの優しく安心する香りが全く思い出せない。
「嫌だ!許さない!だから死なないで!お願い!」
「ごめん…ごめんなぁ。そのお願いだけは叶えられそうにない。」
「嫌だぁ……お願い…お願いだから……。」
どうして彼なの?私は彼なしでは生きてはいけないのに。彼なしの人生なんてもう、もうどうやって歩けば良いのかさえ分からない。
「泣かないで、今までありがとう。子供の頃からお前がいない時なんてなくてずっと一緒に居てくれた本当に幸せだったありがとう。これからもずっと一緒に時を重ねて生きたかったのになぁ。」
「ねえそんな最後みたいに言わないで!お願い。」
私は必死に縋るように彼の手を掴む。彼は少し困って笑う。私の座っているパイプ椅子がギシギシと音を立てる。
お願い!お願いします!神様!彼を連れていかないで!
「うん、本当にごめん。俺さ自分がこうなる事はもう踏ん切りがついたんだ。両親には悪いと思うけどさ…親孝行もまあ…ちょっとはしたし、友達にも手紙は書いたし、ただお前だけが気がかりでさ。」
「ならずっとそばに居てよ!」
「ふふ。俺とずっと一緒に過ごしてきて2人で1つみたいな感覚だったろ、なのに俺が居なくなった世界に1人きりにしてしまうのが気になってどうしたものかなって思っててずっと考えてたんだ。」
優しく私の手をベッドに置いてテレビカードが置かれた白い棚の下の引き出しから箱を取り出した。
「これ。」
「何?」
「開けてみて。」
そっと箱を開けると腕時計が入っていた。銀のベルトで文字盤にキラキラとした細かい石が散りばめられている時計だった。
「俺の代わりにこいつが一緒に時を重ねてくれる。」
「えっ。」
「本当は俺が一生…お前と……でもそれは叶わないから……だから代わりに…そいつを…俺の代わりに。そいつは俺の代わりに…お前の為だけにずっとそばで時を刻んでくれるから。」
「そんなのいらない……あなた以外。」
「……俺を忘れてくれとは言えない、弱い人間でごめん。でも覚えていて欲しいとも言わない。ただ生きてほしい。だから俺なしで時を重ねてゆけるようにこれを贈るよ。」
「……私を置いて行くの?」
「ごめんなぁ。」
私はこの腕時計が止まったら死のうと思った。彼が自分の代わりだと寄越したこれがまた私を置いていってしまったら、その時は彼の元へ。
それから彼の思い出と共に必死に生きた。この世界にもう彼はいない事が毎朝、毎晩、私を苦しめたけど腕時計が動く限り、人間の生活を送りこの腕時計と時を重ね続けた。数日、数ヶ月、数年、いつまで経っても腕時計は止まらなかった。
「どうして?普通電池が切れて止まるじゃない。」
この時計は止まる気配が無くずっと彼の言葉通り私の為に時を刻み続けた。
彼のお墓参りに行くと偶然にも彼のお母さんと一緒になったので少しお茶をしましょうと誘われるがまま喫茶店に入った。
彼のお母さんが優しく微笑む度に彼の面影が蘇り泣き出しそうになるのをこらえる。だから会いに行かなかったのだと思い出し一緒に喫茶店に入った事を後悔し始めていた時だった。
「ねえあの子がいってしまってもう7年になるわね。その……いつもあの子に綺麗なお花をありがとう。私もたまに行くのだけどあなたとても頻繁に来てくれてるでしょ。あの子もきっと喜んでいるわ。だけど……あなたは若いわ…その。」
私は遮るように言う。
「考えられません。彼以外の人なんて。」
と一口コーヒーを飲んだ。彼のお母さんが気まずそうに私から視線を逸らした後、私の手首をじっと見て口を開いた。
「その時計…あの子の。」
「そうです。まだ動いてます。」
私の口ぶりにまたあの優しい微笑みで笑う。本当に笑うと彼そっくりだ。
「その時計は止まらないわ。」
「えっ?」
「ふふっあの子の言う通り。あまり詳しくないのよね。」
「ええ、腕時計をする習慣もなかったですし、これ以外購入しようと考えた事もないので。」
「それはソーラー電池なの。止まらないわ。あの子言わなかった?これを買いに行った時、絶対に止まらないやつをって店員さんに念押ししてたから。」
止まらない……そんな……。
「……俺はお日様が好きだからそいつにも日光浴をさせてくれって……おかしいなぁって思ってました……。」
また優しく微笑み、
「ええ、あの子本当に馬鹿なの。大馬鹿よ。こんないい子を残していくんだからね。馬鹿よ。最期まで……あなただけを気にかけていた。本当に大丈夫かなってあなたが1人で生きていけるかなってそればかりで。自分の事よりも何よりもあなたの事を考えていたの。あなたに生きてほしいから、自分と違って未来があるからって。そこで思い付いたのがその時計だった。」
と私にハンカチを差し出してくれる。私はそっと受け取り涙を拭う。その瞬間、彼の香りを思い出した。
だったら私は永遠に死ぬ事ができないじゃないか。彼はもしかしたらこうなると分かっていてこの腕時計を選んだのかもしれない。私の為に時を刻み続けてくれる腕時計を自分の代わりに。
「その時計は止まらない、未来しか見ていないわ。」
別れ際に彼のお母さんが励ますように私に言い力強く歩いて駅の改札を抜けて行く。その姿を見送って私も歩き始めた。
「その腕時計とても素敵ですね。あなたにとても似合っています。」
そして私の時間も動き始めた。