夢を売る人
「本当に良いんですか?売ってしまうともう戻ってこないんですよ!」
髪が少し後退している黒縁メガネをかけた小太りのおじさんが優しく声をかけてくれる。
正直、少々驚いている。こんなところお役所仕事だと思っていたから親身になってくれるとは夢にも思わなかった。
「ええ、良いんです。どうせ叶いませんから。」
自分で言って悲しくて俯いてしまう。雨で濡れた服は冷たくハンカチで少し拭う。
いつもそうだ頑張っても頑張っても届かなくて、誰かと比べて悲しくなって頑張る事から逃げてしまう。
諦める事に理由をつけて正当化して周りには逃げた事がバレないように。
「良いんです。」
出された書類に記入する。
売りに出す夢 イラストレーター。
「もう一生絵が描けなくなっても良いんですか?」
見たことも無い機械を目の前に出される。
「見てください。これが貴方の夢に対する想いのメーターです。振り切っています。それだけ貴方が努力してきたんです。本当に良いんですか?確かにこの夢を売れば結構な額になるでしょう。でも、貴方の情熱も!」
「もう良いんです!やめてください!」
男性の言葉を遮って叫ぶ。分かっている売ったら終わりだからこの人はここまで言ってくれている。そんな事は分かっているけど、上京して10年もう潮時だろう。
「とにかくお茶をいれてきます。この窓口では取り返しがつかないので絶対に1時間は相談すると決められています。まだ残り50分あります。もう少し悩んでください。貴方はどうして絵を描こうと思ったんですか?」
そう言って席を立った。小さな会議室に連れてこられて念の為にとテープレコーダーを回して相談が始まった。もう長い時間経った気がしていた。
絵を描こうと思った理由?
なんだろう、もう思い出せない。若い頃は色んな目標があった。雑誌のイラストをやりたい。絵本を出したい。小説の表紙や扉絵を描きたい。
どれも叶わなかった。私以上に絵が上手な人が掃いて捨てるほど居てそんな人達も仕事が無いと笑っていた。
でも、それでも皆筆を折らずに絵を描いていたのはどうしてなのだろう。あの狭い部屋で今日の食べるものにさえ困りながらそれでも絵を描いていたのは何故だろう。
「アイスちゃんの絵私は好きだよ。」
「ありがとう、サメちゃん。」
「その絵は○○?」
「うん、そう。あの雑誌に投稿しようと思ってて。」
「アイスちゃんなら大丈夫よ!」
「サメちゃんはそれはどこに?」
「ん?これは私が好きで描いてるの。」
「ふっ懐かしい、変なペンネーム。」
呟いてハッとするレコーダーが回っていたのを思い出してまた口を閉じる。
あの頃は何も知らなくて夢が近いように思えた。今みたいにバイトをしてないからお金なんて無かったのに余裕だった無敵だった。
「お茶どうぞ。」
人が入ってきた事に全く気が付かなかった。さっきのおじさんとは違う。さっきのおじさんよりもう少し若い男性が前に座った。
「どこまで話されました?あのおじさんめちゃくちゃ話長いでしょう。上からも言われてるんすよ早く終わらせて仕事をしろって。でも、そうしないから窓際なんです。」
ヘラヘラと内情を話すこの人に一瞬嫌悪感を抱いたけどそんな資格私にはない。
「あのおじさん自分が夢を売ってるんすよ!だから貴方達に肩入れするんすねぇ。1時間待つとか守ってるのもあのおじさんだけだし。」
「そう、ですか。」
「あっごめんなさい。怒っちゃいました?一応相談者の交換も兼ねて僕がきたんですよ。選べるんですよ。どうしますか?僕にします?それとも…。」
「さっきの人を呼んでください!」
食い気味に答える。男性は、ハイハイと呆れ気味に出て行く。
「すみません、お待たせしました。先程の者は失礼な事を言いませんでしたか?ちょっと問題がありまして。申し訳ございません。」
「いえ、大丈夫です。さっきの男性が言っていたのですが夢を売られた事があるんですか?」
「ええ、片倉君は本当に後で説教だな。」
「何を売られたんですか?」
「それが覚えていないんです。全てを売ってしまうので。でも、売った日から自分の中の大切なものを失い続けているんです。」
「失い続ける。」
「ええ、よっぽど自分の芯にあったものらしくて常に自分の中に存在しようとしてて、それを失い続けています。だから毎日毎日、喪失感を持ちながら生き続けなければなりません。」
おじさんはとても悲しい顔をして笑いました。
「ありがとうございました。話してくださって。」
「いいえ、経験者だからこの職業に就いたんです。さっきの片倉君もそうですよ。だから彼も毎日失っています。」
失い続ける。
「あの思い出しました。絵を描く理由。」
「そうですか!それは良かった。聞いても?」
「好きなんです!絵を描く事が!」
これだけは胸を張って言える。ずっとずっと忘れていた。そうだったお金が無くても描けるだけで幸せだった。
「夢は売られますか?」
「売りません!帰ります!」
「はい、お気を付けてお帰りください!」
おじさんが見送ってくれる。外は雨があがったのか虹が出ていた。
もう少しもう少し頑張ってみよう。それで駄目なら地元に帰ろう。どこでだって絵は描けるのだから。