花
「ふわーあ。」
珍しくガランとした車両の中で僕は大きく欠伸をした。住宅街を走る電車内は午後の陽だまりが心地よく座ると眠ってしまいそうになるのでドアの近くに立っていた。僕の降りる終点の駅まではまだだいぶある。
昼食後にゼミの課題をしていない事を思い出したのはいただけなかった。もっと早く思い出せていれば昼食は抜いたのに。300円のうどんが今は憎い。
ここ最近ぐっすり寝ていない上にお腹いっぱいになってしまうと中途半端に昼寝してしまって課題は終わらないわ夜はまた眠れないわと負のループに陥りそうだ。
ため息をついた後、ついでに大きく伸びもしてもう一度欠伸をしようとすると鈴が転がるような声で、
「大きな欠伸ね。眠れないの?」
と近くから聞こえ僕はギョッとして辺りを見渡した。
誰もいないと思っていたのに、幽霊?
「ふふっ。ここよ。」
とはにかみながら高校生位の日本人形のような綺麗な女の子が椅子から立ち上がった。
連結部分の近くの椅子に座って本を読んでいたらしい彼女は発車後、隣の車両からその椅子に移動してきたようだ。
「あ、その、ごめんね。急にびっくりしたよね。もうしないから。ごめんね。」
僕は恥ずかしさにいたたまれなくなって早口に謝り隣の車両へ移動しようとした。すると彼女はまたゆっくりと微笑み僕の腕を優しく掴んだ。白いワンピースがヒラリと動き少しドキリとしてしまう。
「少し話しましょう。暇つぶしにいいでしょう。」
綺麗で純真な瞳に上目遣いで見つめられて僕は動けなくなり促されるまま隣に腰をおろした。
近くで見るとますます萎縮してしまうほど綺麗な女の子だけどそれよりも耳にかけている花に目がひかれた。黄色のツヤツヤとした生花らしいそれは妖艶で恐ろしい程に美しく彼女の黒髪を飾っていた。
「お兄さん大丈夫?とっても眠そうね。」
「えっ、あっ、ちょっと、昨日…眠れなくて。」
昨日だけみたいな口ぶりだけどもう長い間ぐっすり寝ていない。なんだか眠れていない事を軽々しく言うのは気が引けてまだ誰にも言えていない。大学に入ってから僕は不眠症になった。理由はよく分からない。実家を離れたストレスかもしれないし慣れない環境での生活や人間関係、あげ始めたらキリがない。常に眠くて日中も眠る事しか考えられない時があるのにいざ布団に入ると全く眠れなくなるのだ。色んなことを試しても全く効果はなかった。
「可哀想。」
彼女の凛とした声でハッとした。今、うっすらと眠りかけていたようだ。人と話しているのに…。こんな自分に嫌気がさす。
「ごめんね。こんな話。」
明らかに年下の女の子によしよしと頭を撫でられて慰められてしまった。僕の両手をそっと握って彼女が微笑む。その後、彼女が俯き話し始めた。
「布団に入ってゆっくりと目を閉じて、海に沈んでいく想像をするの。真っ暗で周りに何もない海のど真ん中、背中からざぶんと落ちる。どんどん沈んで深い海の底へ。」
「海の底?」
急に何を言い出すんだ?女の子はさっきと違う低い声で話し続ける。
「ええ、お兄さんはゆっくりと沈んでいく、段々光が入らなくなって、辺りに生き物もいないし音も全くない寒くて暗い海の底へ。海の底に着けば死ぬだけなの、ゆっくりと目を閉じてまた想像する。海の底で眠る自分を。その眠りは何者にも邪魔されない。永遠の眠り、あっ私この駅で降りるから。バイバイお兄さん。」
とパッと顔を上げスカートの裾をひるがえし走ってドアから出て行ってしまった。
「なんだったんだ?」
1人残された僕はポカンと口を開いたまま立ち尽くしていた。
彼女との出会いで眠気は飛んでしまい課題を無事に終わらせ夕食をとった。風呂の後、半信半疑のまま布団に入って彼女の言った通りに想像した。
だからなのか夢を見た。崖から突き落とされる夢。笑顔の彼女に手を引かれるまま崖の上に連れて行かれそのまま突き飛ばされるのだ。そうして彼女に見下ろされて静かに沈んでいく海の底へ落ちていく。
「変な夢。」
悪態をつきつつ朝までぐっすり眠れた事に感謝した。いや心から深く感謝した。ひょっこりと会った見知らぬ女の子に助けられた事に驚きつつ朝の支度を始めた。
「あ、お兄さん昨日の。」
「やあ偶然だね。昨日はありがとう。ぐっすりだったよ。」
偶然では無い。昨日と同じ電車に乗れば会えるかと授業を休んで狙ったのだから。そんな気持ちに気付いたのか薄く笑い。
「うふふ。そう良かった。」
と微笑んで昨日と同じように僕の腕を掴んだ。それから彼女はまた鈴が転がるような声で話し始めた。駅近くのパン屋さんの夫婦に子どもが生まれる事、その近くのおうちのおじいさんが亡くなった事。どんな話題でも声色は変わらない事に違和感を感じながら彼女の声に身を委ねた。彼女の声が心地よかった。
それから同じ電車で度々会うようになった。会える時は決まって珍しく誰もいない午後の電車内。他の人が1人でも居ると絶対に会えなかった。
彼女はいつも同じ白いワンピースを着ているけど彼女が頭に刺す花は毎回違う。彼女の黒い髪に、凛とした表情に、ピシッと伸びた背筋にその花は負けることなくよりいっそう彼女を美しく飾っていた。
小さい花や、大きな花、オレンジや青、白、黄色、ピンク。逢瀬を重ねる毎に僕は花に嫉妬するようになった。彼女を美しく飾る花にひどく苛立ちいっそ花を握り潰してやりたいと思う。そんな欲求を抑えるのに毎回、苦労する程だった。
あの日から毎日、彼女の夢を見た。毎日、毎日夢を見続けた。彼女と手を繋いで心が暖かくなって僕は彼女に微笑み、彼女も僕に微笑む。そしてその笑顔のまま彼女は僕を永遠の眠りに誘う。最期は彼女の笑顔で眠りにつく。そうして目が覚めた時に辛くなるのだ。目が覚めた事が辛い、あのまま眠り続けたかったと心からそう思う。
「ああ、僕が彼女を飾ってあげたい。何よりも誰よりも美しく彼女を。僕ならできるのに。」
そうしてまた僕は彼女に会う為にぐっすり眠った。今日の夢は彼女に首を締められる夢だった。
「酷い顔ねお兄さん。くまがあるわ。」
珍しく3日会えない日が続いて次の日の出会い頭、彼女は心配そうに僕を見た。
「大丈夫だよ。僕は元気だから君のおかげで。」
「そう。」
心配そうに俯き髪を垂らす君にふと違和感を覚えたが会えた喜びに全てが吹き飛んだ。
「そうだ!ねえ聞いてよ!昨日の夢。君に胸を開かれる夢だったんだ!」
僕は興奮して君に言う。最近、夢の内容を話すのが日課になっていた。彼女は顔をあげて一瞬憐れむように微笑み僕の頬に手を添えた。
「温かい。この温もり。覚えておくわ。」
僕はどういう意味なのか分からなかったけどこの手が離れてしまったら二度と会えなくなる気がしてその上から手を掴み叫んだ。
「嫌だ!嫌だ!君から離れたくない!」
涙を流して君に追いすがった。君は僕の手を握ったまま、
「大丈夫、ずっと一緒よ。」
と言い隣に座りなおした。その時、違和感の正体にやっと気が付いた。君は頭に花を刺していなかった。
「さあ行きましょう。」
初めて途中で電車を降りず終点の駅まで一緒だった。目的の場所があるように迷いなく進む彼女に手を引かれるまま僕は身を任せた。いつものコンビニ、バイト先の居酒屋、よく寄る本屋を過ぎた時、彼女は僕の家を目指していると気が付いた。
「鍵を出して。」
マンションの下で言われるがまま鍵を渡す。そのまま僕の部屋に入り2人で布団に寝転んだ。
「お兄さんは早かったね。だからきっと美しく咲いているはず。」
「そう…かな。」
僕はなんの事だかさっぱり分からなかったけど嫌われたくなくて話を合わせた。
「ええ、きっと今までで1番美しく私を飾ってくれる。さあ服を脱いで。」
彼女の言う通りにTシャツを脱ぐと不思議な事に僕の胸に大きな花が咲いていた。ツヤツヤとした深い赤の花びらがたくさんついた甘い匂いのする花。
「やっぱり綺麗ね。」
「そうだね。」
彼女はうっとりと僕の胸から花をつみ髪に刺した。彼女が花をつむと僕はパタリと意識を失った。
次に目が覚めたのは海の底だった。ゆっくりと目を閉じて彼女を思い出そうとした。
あれほど彼女を飾る事だけを夢に見ていたのに僕は彼女の顔を忘れ、ただあの赤い花を思い出していた。
僕は1人、暗く寒い海の底で、永遠に彼女を美しく飾るであろうあの美しい赤い花に思いを馳せ眠りについた。
もう二度と目は覚めなかった。




