第四夜 鬼と舞妓 後編
「し、失礼します」
慌てて入った楽屋には既に真っ黒い塊にしか見えない髪切りさんが居て、鏡の前に立っていた。しばらく髪切りさんは鏡の前で何事かをしていたが、やがておれに気が付いたのか鏡越しにおれへとにこにこ笑いかけてくる。
「ほぉらっ。こっちよ、こっち」
「すみません、髪切りさん」
「いいのよぉ。こんな綺麗な顔を弄らせてもらえるなんて、嬉しいんだからぁ」
髪切りさんはくねくねと真っ黒な身を左右に捩らせて、おれを鏡の前に座らせる。髪切りさんは一つ目に雇われたお手伝いさんだ。独特な話し方や雰囲気が特徴的で、おれも何度か髪切りさんに髪を結い上げてもらったり、化粧を施してもらったりと面倒を見てもらっている。頭が上がらない相手だ。言い方といい、身のこなしといい、そこだけ聞けば女性と勘違いしてしまいそうだが、声はしっかりとしていて、野太い。
「青ちゃん、初舞台ねぇ。どう、緊張してる?」
「……ちょっとだけ」
「やぁだ、もう。食べちゃいたいぐらい、かーわいい!」
「た、食べられるのは、ちょっと……」
「あら。冗談よ、冗談。青ちゃん若いわねぇ。まだ百年も生きてないんでしょ」
「えぇ、まぁ」
「すごい好み! ねぇ、弟子として一緒に暮らさない?」
「嬉しいですけど、お断りします」
「あらぁ、残念。それじゃ、また今度ね」
髪切りさんはぺちゃくちゃとおれに話しかけながらも、てきぱきと化粧を施していく。伊達にこの道を数百年もしていないと一つ目が言っていたお手並みだ。鏡の前に座っているだけであっという間に白塗り姿の舞妓が出来上がっていく。化粧も済んで、次はおれの長すぎる白髪を結い上げる作業にかかった。
「……それで、青ちゃんに似合いそうな着物があったんだけどね」
手と口を動かす髪切りさんの能力に舌を巻きながら、ふと鏡に映る己を見つめる。
「……あの、髪切りさん」
「ん? なぁに?」
おれが口を開くと、髪切りさんが初めて口を閉じた。
すう、と小さく息を吸い、そっと言葉とともに息を吐き出す。
「おれ、外に行ってみたい」
そろりと胸の内に宿る思いを告げれば、髪切りさんの顔から感情が消えた。眦が少し吊り上った眼をかっと開き、口を堅く閉ざす。髪切りさんの表情からは、今まで見せていた優しさや明るさといったものが一切合切が消え失せ、おれが見たことのないものとなっている。一体この顔は、何と形容すべきだろうか。
小首を傾げて不思議に思いながら、髪切りさんに口を挟まれない内に思ったことを頭の中で整理した。
「おれ、ここに来るまで友達や仲間とかいなかったから、嬉しかったんだ」
髪切りさんが口を噤んだ拍子に、ここぞとばかりに心の内を話すようにすると自然と顔が俯いていってしまう。目線が髪切りさんの顔から顎へ、徐々に下がって喉元、ついには視界には誰も映らなくなった。
誰も映らなくなった視界で、頭の中に浮かんでくる思いを口にする。そうすると、己でも曖昧であった感情や思いがはっきりと形を成していく感覚を実感した。
「一つ目や猫又姉さんは厳しいけど優しいし、一緒に掃除するのっぺらぼうさんも良い妖だし」
「……」
「河童さんや川獺さんは意地悪だけどおれに構ってくれるし、髪切りさんもこうやって傍に居てくれる」
「……青ちゃん」
「みんな、みんな優しくて良い妖怪で。だから、おれ、ここに居たい」
「……」
「おれ、皆のことが好きだし、おれが売れるとは思わないけど、……でも!」
「青ちゃん!!」
おれの言葉を遮るように凄まじい剣幕で怒鳴られ、肩がびくっと跳ね上がる。怒鳴られた衝撃で顔を上げると、困った顔をしておれに笑いかけている髪切りさんが、正面の鏡に映った。
「それ以上は、駄目よ」
髪切りさんの表情に、あっと声を上げてしまう。
そうか、おれは髪切りさんを困らせているのか。おれが我儘を言えば、どういう理由かは分からないが、髪切りさんが困ってしまうんだ。おれの我儘で髪切りさんが困るということは、恐らく一つ目や他の妖怪たちも困らせてしまうようなことなのだろう。それならば、もうこれ以上見世物小屋で働く妖怪たちに迷惑をかける訳にはいかない。そもそも、陰陽師に売られてから今まで面倒を見てくれたんだ。我が儘を言う資格なんておれには無いというのに、ついつい甘えてしまった。
あぁ、髪切りさんは優しいなぁ。おれの我儘に気付かせてくれたんだ。おれは反省の意味も込めて、ぎゅうと唇を噛み締める。それから、鏡に映った髪切りさんから顔を逸らさずに内心で頷いた。
「……ごめんなさい、髪切りさん」
すると、何を思ったのか髪切りさんが後ろからおれを抱きしめてきた。それに驚いて声も出せずにいると、髪切りさんは微かに震えた声で漸く話しかけてくる。
「さぁ。お化粧が、終わったわ」
「……え」
「早く行ってらっしゃい」
「あ、うん。……分かった」
髪切りさんに促されるまま鏡の前から立ち上がり、楽屋の襖を開けた。一度だけ振り返ったが、髪切りさんはおれに背を向けたまま振り返ろうともしない。その姿に違和感を感じたが、舞台から一つ目の急かす声がして、慌てて飛び出していく。
「ほんと……食べちゃいたいわぁ」
戸が閉まりきる前に、髪切りさんの声が聞こえたような気がした。
*****
「お次で最後の演目となります」
見世物小屋の主である一つ目の声が遠くから聞こえ、主の呼びかけに応じるように目の前の真っ赤な幕がするすると上っていく。やや顔を伏せているおれからはあまり見えはしないが、静かだった観客席からのどよめきは聞こえてきた。
「終幕を飾りたてるはぁ、深き瑠璃の肌を持つ青鬼による舞にございます」
恐らくはおれのような小柄な青鬼など、滅多に見たことが無いのだろう。一つ目からも、一般的な鬼といえば大柄なものが多いが、おれのような華奢な鬼は見たことが無いと言われたことさえある。物珍しいものを見たかのような視線を受けることもあれば、中には今までに受けたことのない程の熱い視線があった。
裏方として働いていた頃にも何度か熱の篭った視線を浴びたことがあり、一つ目に理由を聞いてみたことがある。すると、一つ目に「お前さんをそういう目で見る輩もいるということさ」と言わせてしまった時の気まずさといったら、形容する言葉が思い付かない。人間の中にも妖怪のような恐ろしい片鱗があるのだと、そのとき初めて知った。ちなみに、猫又姉さんに言わせれば、「変態」というらしい。
そういったことも踏まえて、今のおれの姿は、人間たちにはどう映って見えるのだろう。人間のように化粧で化けて人間のように着物を身に纏う青い鬼など、傍から見れば滑稽なことこの上ない。手足にはめられた鈍色に光る枷が無ければ、きっと己の姿は人間と見間違えてしまうことだろう。そのお蔭で勘違いをされることもあるのではないだろうか。己の本性は鬼だとは知らずに。
取り留めのないことを考えては、ふっと自嘲の笑みを口元に浮かべた。
「それでは皆々様、舞台のお近くにて、仏の七宝をとくとご覧あれ」
しんと静まり返った空間を滑るように進み出る。一拍間をおいて、やたらと袖の長い服を勢いよく広げてから両手を身体の前に揃わせた。
恭しく頭を垂れて、数瞬ほど一切の動きを止める。再び客席で息を呑む気配を感じると、おれは小屋の出入り口へと視線を向けながら、頭を上げた。ここから先は、初仕事だ。ちゃんと出来るだろうか。
一つ目や野干さんに教わったとおりに、だんと力強く足を踏み鳴らし、開いた扇を蝶が飛ぶように動かして、くるくると舞い始める。しゃん、しゃんと背後で舞いに合わせて鈴の音や篠笛が鳴り響き、猫又姉さんの唄が聞こえた。舞いに集中すると、徐々に笛の音や猫又姉さんの声は遠ざかっていき、ついには何も聞こえなくなってくる。稽古中でもこうした静寂の世界に包まれることは度々あり、おれはこの時間と空間が好きだった。こうなれば、後は簡単だ。何も考えずに、ただ舞えば良い。
しかし、現実を思い出させるように、壇上で一つの舞を披露するごとに手首や足首に巻きつく鎖がじゃらりと鳴り、胸の奥がずきりと痛んだ。出所の分からない痛みに顔を顰めて、思わず小屋の出入り口を見つめる。
あぁ。ここを出て行けたなら。
淡い期待が脳裏を掠めたが、すぐさま打ち消す。そんな都合の良いことなどあるわけがないし、新入りの、ましてや己のような青鬼など、人間どころか仲間である妖怪たちにも認められる筈もない。
だけど、もしも己が人間に認められて、かつ消えなければ、どれだけ嬉しいことだろうか。もしも、人間に認められて見世物小屋から出て行けたなら、また赤鬼に会えるかもしれない。赤鬼に会って、あの時に言えなかった「ごめん」という言葉を言えるかもしれない。この一か月間そのことが気がかりで、裏方として働きながらもなかなか思うように仕事が手につかないことが何度もあった。
赤鬼は、今どこに居るのだろう。
何をしているのだろう。
一目でも赤鬼に会えたなら、一言でも謝りたい。
許されるなら、一緒に居たい。
あの時あの赤鬼に言えなかった言葉を、音もなく口遊む。
音もなく発せられた声は見えない泡となり、屋根まで飛んで、ぱちんと弾けた。
いかがだったでしょうか。よろしければ感想・質問・改善点などご指摘くださいますと嬉しいです。




