第四朝 赤鬼と青鬼 後之下編
これで最終話となります。長々と続きましたが、いかがだったでしょうか。
皆様の心に何か一つでも残ればと思います。
それでは、最後のお話をお楽しみください。
がぱりと口を開け、四足を大きく拡げて急襲する。わしの攻撃に、肩を引いて僅かに振り返る陰陽師には愉悦が、恐々と振り返る青鬼には恐怖が色濃く出た。その違和感について考える間もなく、陰陽師が小言で何やら呟く。すると、途端に傍らに控えていた五匹の管狐が器用に陰陽師を避けながら牙を剥いた。
「ぐ、ぉ……おぉおぉおぉお!!」
わしの四肢に管狐の鋭い牙が食い込む。突如として新しい痛みに顔を顰めるが、自由落下は止められない。勢いは削ぎ落とされてしまったが、陰陽師の右腕に噛みついた。
噛みついてしまえば、こちらのもの。鋭い牙で動脈を噛み千切ろうと牙を押し進め、頭を力いっぱいに振るう。ぎっと陰陽師を睨んでやれば、陰陽師も痛みに脂汗を流してはいたが、喜悦に顔を歪ませていた。
「いいぞ……これでいい」
ぞくりと肌が粟立つ。何故こうも陰陽師がわしの攻撃を避けもせず受けたのか。人柱。青鬼。儀式。ぐるぐると頭の中を単語の羅列が巡っていく。そして、不意に思い付いた。
陰陽師は、これを待っていたのだ。ぽたぽたと陰陽師の腕から赤い血が滴り、石畳を濡らしていく。体中から出血して痣も拵えてすっかり草臥れたわしに管狐は不必要だと判断したのか、陰陽師は狂犬のように噛みつくわしに冷ややかな視線を遣すだけで何もしようとしない。
「青鬼」
やがて、陰陽師が一声かける。それだけで、青鬼は青褪めた顔のまま、渾身の力で頬を殴りつけた。青鬼の容赦のない殴打に牙が二本ほど欠け、からからと床に転がり落ちる。
「っぐ、ぅ……!!」
途端に波紋のように広がる痛み。ぶれる視界。ぐしゃりという厭な音。勢いよく殴り飛ばされ、青鬼とさほど距離を開けないまま転がり、蹲る。
悔しいが、もう立ち上がる元気はどこにも無かった。
「さて、と。人柱に、人から鬼と化した青鬼と、赤鬼が揃った」
鮮血を床に垂れ流したままの陰陽師が、ぽつりと声を洩らす。さながら水溜りに落ちた木の実でも拾い上げるような軽い口調の陰陽師に、視線だけを投げつけた。わしに睨まれた陰陽師は見せつけるように微笑むと、床に落ちた牙を拾う。少しの間その牙を手の中で弄んでいたかと思うと、ぐっと握り締めた。
「これで、用済みだ」
くつくつと喉で笑う陰陽師の顔には弧月のような笑みが貼り付き、陰陽師の言葉は地獄に居る閻魔からの宣告のようだった。
陰陽師の笑みにぞっとしていると、陰陽師は即座に小声で詠唱を始める。呪文のようだが、意味は分からない。だが、この身は焦燥感に駆られるばかりだ。青鬼も陰陽師が何も命じてこないため、手を出す心算は毛頭無いらしい。いや、青鬼はむしろそれどころでは無かったようだ。
青鬼は、青褪めたままだった。ぶるぶると震える手をじっと見つめ、眦に涙を浮かべている。小さく開いた口からは「殺したくない」という呟きばかりが零れ落ちていた。
はて。殺したくないとは、どういうことか。既に人を殺した身で、何を今更。殺す心算が無いのであれば何故あの陰陽師の式神になど成り果ててしまったのか。分からん。分からんから、苛立ってしまう。訳の分からぬ譫言に苛立ち、意志を持たぬ躰。痛みで沸騰しそうな思考回路。志半ばで倒れてしまった妖怪たち。どういうことか。
儀式は確実に進んでいるのか、陰陽師は詠唱しながらあちらこちらに歩を進めて禹歩をして、何時の間にやら石畳の上には六芒星の線が光を放っている。陰陽師が唱える毎に空は翳り、ざわざわと木々の梢が不安気に揺れ動く。まるで陰陽師の声に周囲の空気が反応しているようだった。
「さぁ、青鬼。小娘を赤鬼の刀で刺せ」
くるりと陰陽師が明るい声で命じるが、青鬼には聞こえなかったようで、青鬼は真っ青な顔のまま何事かを呟き続ける。空には暗雲が立ち込め、生暖かい風がどこからともなく吹き荒れた。ごろごろと空が泣き、ぽつぽつと小雨が降ってくる。それにも気が付かず、青鬼は次第に膝を折って座り込んでしまう。やがて雨に打たれて濡れた頭を抱えて丸くなった。
「いやだ、いやだぁ」
ぐずぐずと涙と鼻水を啜る音が雨音の中から聞こえてくる。震える声で嫌だと駄々を捏ねる青鬼の後ろ姿に、あの頃を重ねて見てしまい、胸が締め付けられるように痛んだ。丸くなった青鬼の足元には、こんこんと眠り続ける千代が居る。傍らにはわしの刀も置いてある。あとは、青鬼がそれを千代に突き刺すのみ。
その時、ふと千代の手の指がぴくりと動いた。見間違いかと目を擦って見遣れば、たしかに小さくはあるが動いている。すると、不意に千代が薄目を開けて視線を遣してきた。物言いたげな千代の視線から今の千代が思いついたことについて、ある程度の察しがつく。口の端を吊り上げ、千代に小さく頷いてみせた。どうやらこの人間の小娘は、鼻持ちならぬ陰陽師に一泡吹かせる算段があるらしい。わしらは悪戯っ子のようにひっそりと笑い合った。
ずりずりと躰を引き摺って青鬼の横に並び、陰陽師からは千代を見えないようにする。
「……青鬼。早うやれ」
痺れを切らした陰陽師の怒声が飛んでくる。青鬼はびくともしない。さては青鬼も気が付いたか。
「役立たずめ。……もういい」
六芒星から身を離した陰陽師が苛立ち紛れにこちらへと歩みを進めてくる。のしのしと我が物顔で石畳を歩む姿は悪餓鬼たちの総大将だ。陰陽師が怒りに眉を顰め、大股で近付いていった頃、あることに気が付いた。
千代が、居ない。
「何処に行った……?!」
俄かに焦りだす陰陽師を尻目に、青鬼は振り返らずに目配せしてくる。大丈夫だと目で言うと、青鬼は小さく頷いた。その様子に何だか昔のように悪戯をしているような懐かしくも胸が躍るような心地になった。
「青鬼、小娘は何処に居る?!」
必死の形相で辺りを見回す陰陽師が、青鬼の肩に手を掛け、呼びかける。ちら、と青鬼が不安そうにわしを見つめたから、わしは一度だけ瞬きをしてみせる。すると、青鬼は分かったと声には出さずに呟いた。
「青鬼ぃ! 応えろぉ!!」
背後からは癇癪を起した陰陽師の怒声と、ぴしゃんと鋭い雷鳴が鳴り渡る。
降りしきる小雨。雨垂れの音が一つ、二つ。雷鳴も一つ。二つ。閃光。狼狽える黒い人影。にやにやと嗤う人影。覚悟を決めた人影。その中に、新たな人影が加わった。
ぴしゃん。三つ目が鳴り響く。と同時に、陰陽師の耳を劈くような絶叫も境内に木霊した。世にも珍しい陰陽師の断末魔だ。あの村の住民を殺した時のような悲鳴が耳に入ったが、隣に座る青鬼と顔を見合わせると、思わず笑いが込み上げて来てしまう。
悪戯は、大成功だ。安堵したような青鬼とわしは、にひひと互いに笑って「せーの」と振り返る。
そこには、背中から見事に貫かれた陰陽師と、雨に濡れて重くなった黒髪の隙間から鬼のような形相で睨みあげる人の子が居た。よくよく見れば、刀の刃はもちろん、柄まで通しているようだ。
千代がわしの刀で、陰陽師を貫いた。言うなれば、陰陽師は妖と人に殺されたのだ。その事実だけで、すっと胸がすき、心穏やかになれる。単純な性分だからこそだろうか。
「あんたさぁ」
はぁ、と千代が白い息を吐く。雨音にも負けぬ声量であったため、陰陽師が思わずぐるりと目玉を動かし千代を見た。己が小馬鹿にした小娘が今の己を怨嗟の念を込めて睨め上げているのだ。何も感じない訳がない。読み通り、陰陽師が「ひっ」と喉から小さな悲鳴を上げた。どくどくと溢れ出す血の量に千代は一歩も引かず、陰陽師の死をより確実なものにするべく、ぐっぐっと刃を押し上げる。
「馬鹿にすんなよ、この禿げ」
子どもらしくも可愛らしい罵倒だ。差し込んだ傷口に空気を送り込むようにぐりっと柄を回す手が無ければただの子どもの悪口であったというのに、雷光を背に雨に濡れそぼる姿では台無しだ。千代の方がよほど鬼らしい。刀で貫いた場合に空気を入れれば、まず助からない。千代としては、陰陽師を生かす心算は無さそうだった。
吐血し続ける真っ赤な陰陽師に飽いたのか、千代は見下げた表情のまま、ふんと鼻を鳴らす。それから、淡々と陰陽師の背に足を掛け、どんと蹴り倒した。支えを失った人形のように身体を傾かせてうつ伏せに倒れ伏す陰陽師を、千代は苛立たしげに足蹴にする。途端に勢いよくばしゃんと跳ねた水飛沫が千代の頬を濡らしたが、鬱陶しげに拭うだけだった。
見るからに勇ましい小娘に、わしと青鬼が顔を見合わせる。互いに言葉が出なかった。ぱくぱくと金魚のように口を開閉していると、千代は刀をがしゃんと音を立てて肩に回す。それから。
「言っておくが、赤鬼。貴様を助けた訳じゃないからな」
ぷいとそっぽを向くが説得力のない言葉を吐く千代の姿に、今度こそわしと青鬼は盛大に噴き出した。怒った千代が刀を宙で振り回し、何事か言い訳を並び立てるが、わしにはもう聞こえやしない。ただ、雨に降られているにも拘らず、胸の奥がぽかぽかと温かかった。
人と妖は相容れぬ。だが、互いに歩み寄ることは出来る。そんな気にさせられた。
*****
今まで降りしきっていた雨足が嘘のように鎮まり、空にかかった曇天は爽やかな風に吹かれて山の裾へと流れていく。千代が連れ去られ、街道に棲むものたちと総攻撃を仕掛けた一日の終わりを告げる鶏の鳴き声。見上げた空には、どんよりとした雲の切れ間から、白い朝日がちらちらと顔を覗かせていた。
うぅと呻くような声があちこちから聞こえて顔を下げると、竜巻に巻き込まれて吹き飛ばされた妖怪の山がばらばらと崩れ落ちていた。この場に居た人間は千代だけだ。恐らくは被害を最小限にとどめられただろう。妖怪は人間よりも頑丈だからこそ、殺すことも並大抵のことではない。だからといって多少は荒っぽい方法だったが、誰もそれについては異議を唱えなかった。
妖怪は、しぶとい。しぶといからこそ、土より蘇り、人間よりも長生きをする。長生きをして、時に人間を脅かし、時に人間を見守る。それが、妖怪だ。
「のぅ、青鬼」
「……何だ、赤鬼」
青鬼に肩を借りてやっと立っているこの躰は我ながら何とも情けない。しかし、今度ばかりは己に感謝せずにはいられなかった。青鬼が連れ去られた時に諦めずに後を追いかけて良かった。真神たちや千代に出会うことが出来た、出来たからこそ、わしは青鬼を諦めずに探すことが出来たのだ。
今の段階では、青鬼とは、まだ本当の意味で友達ではない。わしの自己満足で青鬼を探し続けたばかりだ。青鬼だって、もしかするとわしのことなど何とも思っていないやもしれぬ。この世は、言わなければ分かってもらえぬことばかりだ。それこそ、わしが人間と友だちであった頃に学んだことであり、真実である。
さぁ、言おう。わしは、これを言うために青鬼を探したのだ。改めて青鬼に問いかけようと青鬼の肩を外させ、対等になろうと正面に立つ。すう、と大きく息を吸う。怪訝そうな顔をする青鬼に、わしは拳を握りしめる。
必死に絞り出した声は、随分と小さかった。
「……わしと、友達になってはくれんか」
「友達?」
「嫌ならええんじゃ。……だけどな」
いろいろと言いたいことはあったが、すべて忘れることにする。青鬼には、過去のわしとの思い出が無い。昔の青鬼とは違うところだって数えれば幾つか見つかるだろう。しかし、わしはあの時たしかに寝ている青鬼に向けてこう言ったのだ。
忘れても、友達だから。
じっと青鬼を正面から見据える。そっと青鬼の手を取って、眉を気持ちばかり吊り上げた。戸惑い、逃げようとする青鬼の手に力を籠めて握り締めて。もう一度大きく息を吸い、心の準備を整える。それから。
「わしは、もう一度おめぇと友達になりてぇ!!」
そう言うと、一瞬だけ間が空いた。青鬼が答えるまでわしは言う心算も無かったため無言で見つめる。すると、青鬼は少し困ったような顔をしてから、恐々と訊ねてきた。
「……おれで、いいの?」
「いやか」
「あ、その、嫌じゃ、ない……えぇっと」
朝陽が上り、照れたような顔の青鬼を横から照らしつけた。あまりの眩しさに目を閉じてしまいそうになるが、堪えて見つめる。じっと見つめていると、青鬼は困った顔のまま、あー、だの、うー、だの言った後。
あの日の「いつも」のようにわしに笑いかけてくれた。
「これから、よろしくな」
青鬼の嬉しそうな声。その一言だけでわしは救われたような気になり、視界が滲む。滲んだかと思えば、今度は鼻水まで出てきおった。一夜にして千代が攫われ、街道に棲むものたちと一斉攻撃を仕掛け、青鬼と対峙した激しい一日だったからだろうか。どうも上手く体調が制限できそうにない。
「あーあ。それにしても、赤鬼は不器用だなぁ」
やっとの思いで青鬼の言葉に頷くと、青鬼が照れ隠しに声を大きく張り上げた。青鬼の随分な言い草に、わしは少しばかり頭にきた。照れ隠しに罵詈雑言を吐かれるなど、心外である。わしが下手に出ていりゃ、いい気になりおってからに。流石に言い返そうとすると、青鬼の顔にはっとなる。
朝日に照らされた青鬼が、涙で濡れた瞳で笑いかけていた。
「何を言っとる。わしが不器用じゃとぉ?」
「だって、おれ、ずっと赤鬼と友達だと思ってたのにさ」
「……おめぇ今ここで泣く奴があるかい」
「嬉し泣きだって。……赤鬼は無いのか?」
「おめぇが泣き虫なだけじゃ」
「ははっ、違いねぇ」
ともに向き合って笑うと、青鬼が「泣いてるみたい」と、また笑う。
永い夜が、明けた。
ここまでご一読頂きまして真にありがとうございます。お疲れさまでした。
実は後日談がこの後にありますが、それを以て「ないた赤鬼」本当の最終話とさせて頂きます。
よろしければ、そちらもどうぞ。




