第三朝 鬼と人と妖 後編
「ふざけるなぁっ!!」
笑んだ先にあったものは、人の手だった。ぱぁんと小気味の好い音が室内に響き、小さくもしっかりとした平手で打たれた頬が途端に熱と痛みを帯びる。ぱちくりと瞬きをして、叩いてきた手の先を見ると、大きな瞳から大粒の涙を今にも溢さんばかりの千代が下唇を噛んでいた。
「……え。何でわし殴られたんじゃ」
「ひぐっ、うっ、うぅ、う!」
「えっ、ちょ……わしが悪い?」
「うぅうっ、うぐぅうう……!!」
ぼたぼたと惜しげも無く畳に涙を染み込ませる子どもに、助けを求めるように狼たちを見るが、狼たちも訳が分からぬようで互いに顔を見合わせるばかりだ。唯一あの野干だけが呆れた様子で溜息を吐いている。長年で培った知識を使おうと千代の言いたいことを聞き出そうにも、嗚咽に塗れた言葉なぞ到底分かる筈もない。
「……えーと」
参った。人でも妖怪でもそうだが、わしは何度生まれ変わろうとも「泣かれる」ことにはとことん弱い。泣かれてしまえば、忽ちの内にどうしたら良いのか分からなくなってしまう。何ぞ面白いことでもやって笑わせようにも場違いであるような気がするし、かといって無言でいることにも堪えられそうにない。
ここは、あれだ。あれしかない。がりがりと雑に頭を掻き、じりじりと障子に近付く。それから、一言だけ口にした。
「……ちょっと、頭を冷やしてくる!!」
三十六計、逃げるに如かず。勢いよく障子を開いて一目散に真っ暗な廊下へ飛び出す。背後から「赤鬼、ずっこいべやぁ」と明らかに狼狽した吼え声が聞こえて、そっと両手で耳を塞いだ。
早く泣き声の聞こえない場所まで行かなくては、自分が混乱してしまう。既に頭や胸の奥ではざわざわと喧しい。無我夢中で廊下をひた走り、どこをどう走ったのか全く記憶にない。いつの間にやら外にまで出てしまっていたようだ。
気が付くと、わしはどこぞの屋根瓦に腰を下ろして息を整えていた。
*****
「あぁ、吃驚したわい」
顔を上げると、宵闇にぽっかりと穴でも開いたかのような月が煌々と輝いている。朽ちた寺の屋根瓦の上へ胡坐を掻き、片手で頬杖を掻けば、押さえた手の下にある頬がびりりと痛む。つい先刻に出くわした千代の怒髪天を思い出しては首を傾げた。
「なぁんで千代が怒るんじゃろ」
ぶすりと不貞腐れて呟けば、わしを宥めるかのようにそよ風が痛みで熱を帯びる頬を撫でていく。どれだけ風に吹かれて熱を失おうとも、頬の痛みは一向に引く気配が無い。
「これに似たものを、昔はあったもんじゃがなぁ」
じんじんと痛む頬を軽く撫でては、痛みに酷似たものを記憶の彼方から引っ張り出してみる。じくじくと膿が出るように胸が痛んで呼吸困難に陥るこの現象は、そうだ。たしか、青鬼と演技をしていた頃のものだ。
いや、それよりも、もっと昔にあった。わしが青鬼と離れる前、初めて人間の友達が出来た頃だったろうか。山で一緒に遊んでいたら土砂崩れに遭って人間を突き飛ばした時だ。わしは躰が頑丈だから最善だと泥に塗れて笑ってみせたが、人間はあの時の千代と同じ顔で泣いて、わしを殴った。「無茶なことをするな」と怒鳴って。
「……はて。そういや気にせんかったが、何でそう言ったんじゃろうな」
ううむと唸り、再び小首を傾げた。そういや、青鬼もたびたび同じようなことを言って泣いていたような気がする。その後で青鬼はわしを抱きしめてはくれたが、青鬼がそうしていた理由も未だに分かっていない。
どうして、泣くのか。何故ああもわしの身を案じるようなことを言うのか。まったくもって、分からない。
「分からん。……分からんのぅ」
だって、まるきり関係無いだろう。わしの躰はわしのものだ。青鬼のものでも、人間のものでもない。ましてや相手がわしに心を配る余地などあろう筈もない。それでも、彼奴らはいっとう綺麗な涙を伴なってわしを怒るのだ。わしは、相手に泣かれながら怒られる理由が分からない。だから、泣かれると参ってしまう。
どうすれば良かったのだ。如何にすれば泣き止むのだ。何故わしのことを怒るのか。わしが助けようと無茶をすることの何が悪い。そうしなければ、わしは人間を、青鬼を、友達を失ってしまっていたかもしれんのというのに。
「……どうすれば、良かったんじゃ」
もやもやと胸の内に黒いものがとぐろを巻き、思考が止まってしまう。頭上で輝く月は傾き、先程までは心地良かった風も冷気を帯びて吹き抜ける。汗が引いて体温が低くなった身体をぶるりと震わせ、はぁと小さく溜息を吐く。
大概わしは、我が儘だ。自分がこうしたいと思えばその通りに動くし、周囲がどうなろうと知ったことではない。大事なものを二つ、三つ守れればそれで良い。昔は守りたいものが多すぎたから、全部が手の中から零れ落ちてしまっただけだ。だが、どうやらそれだけではこの疑問は解決せぬらしい。
わしが変わらないから、青鬼に辿り着けないのか。だとすれば、変わらなければ。変わりたい。そう思ったから、送り狼たちに過去を聞かせたし、命を狙う小娘のことも見て見ぬ振りをしてきた。わしの我が儘で千代の大事なものを奪ってしまったのだから、当然だろう。それに、人の子に情が湧かぬ訳ではない。出会い方は最悪ではあったが、存外に子どもらしい千代を見ていれば、千代の罵倒も可愛いものだ。
わしが、人間と友達になろうとしなければ。わしが、青鬼と出会わなければ。身の丈以上のものを望んだせいで、千代にも、送り狼たちにも、迷惑をかけてしまった。
陰陽師と相対するということは、須らく青鬼を手に掛けるということだ。わしの本意ではないが、手前勝手にやってきたことに対してのけじめは己の手で付けねばなるまい。
「……まこと、愚かしいことよなぁ」
変わろうとした結果、全く昔と変わらぬ自分に自嘲の笑みを浮かべる。と、すぐに背後からがたんという物音に肩がびくりと震えてしまった。
「誰ぞ?!」
咄嗟に振り向く。見えたのは、屋根瓦に梯子を掛けて昇ろうとする小柄な頭だ。ぬうっと額から顎先まで覗かせ、がしゃんと華奢な足が屋根瓦を踏みしめる。
目を真っ赤に腫らした、千代だった。
「何じゃ。おめぇか」
「……真神が、謝ってこいって」
「あぁ、平手のことか。気にせんでええのに」
「自惚れるな。うちは謝る気なぞさらさら無い」
「それじゃ、何でわしの後なんぞ尾けてきおったんじゃ」
「……貴様に言いたいことがある」
意地でもわしの方を見ぬ千代の声は小さく、且つはっきりとしていた。がらがらと屋根瓦が踏まれて音を立てる。俯いたままの千代は固く拳を握り、大きく手を振りながら大股で近付いてきた。
また、わしも予測がつかぬ動きでもする心算だろうか。さては、わしの命を狙いに来たな。ごくりと生唾を呑み、千代の出方を窺う。いくら命を狙われて当然だと雖も、黙って殺されるわしではない。最低限の抵抗はさせてもらおう。頑丈だとはいえ、痛覚はあるのだから。
目の前に立った千代が、無言でわしの胸倉を掴んだ。眼前に迫るは、千代の顔だ。噛みつかんばかりに顔を寄せる千代は、もう泣いてなどいない。ただ、瞳には、憤怒と悵恨と、憂いに満ち満ちていた。
さて、この人間はこれから何を言わんとするだろうか。まず謝罪の言葉ではないだろう。それとも、何かを言うと見せかけてわしを刺してくるか。わしとしてはそれでも構わないが、同じところを刺されてしまえば陰陽師に一矢を報いる日が遠のいてしまうから、送り狼たちのためにも勘弁願いたい。
すう、と千代が大きく息を吸い、わしを力の限り睨めつける。そして、再びわしに激怒した。
「何で、貴様は笑うんじゃ!!」
眼前であらん限りの声で叫ばれ、思わずきょとんとしてしまう。ふー、ふーっと鼻息を荒げて黒い大波を立たせた千代は、呆気にとられるわしに畳み掛けるように、言葉を次々と繰り出した。
「貴様は妖怪だ、うちの仇敵だ。だのに、寂しげに笑ってうちを見やがる!!」
「……え」
「最初に仕留めにかかった時も貴様は笑った、うちがついて行くと言った時も笑った、弱ったうちを負ぶっても、なお笑いやがって!!」
「いや、別に笑ってなど」
「笑ってんだよ、淋しそうによぉ!!」
「……わしが、か」
「くそっ、くそっ。ふざけるな……ふざけるなよ!!」
轟轟と嵐のような千代の言葉遣いに、驚きを隠せない。初めて千代を年相応の子どもに見えたような気がする。目の前で怒鳴る千代は、まるで癇癪を起した子どもそのものだ。怒涛のような叫び声を上げて胸倉を掴まれた。
「貴様ぁッ!!」
ぐいっと引き寄せられ、ついに千代の顔が鼻先にまで近付く。千代のぬばたまの瞳に映ったわしは、赤く、二本の角が生えただけの、子どものようにも見えた。
「仇敵のくせに、同情なんか煽んじゃねぇ!!」
千代の荒い息が、顔にかかる。凛々しい眉がきりりと吊り上り、妙に力のある瞳を覗き込めば、奥の方で微かに泣きだしそうな子どもがわしを見上げていた。
「……頼むから、貴様を仇だと思わせてくれ」
千代の震える声に、唐突に理解する。
「殺せなくなっちゃう……!!」
あの人間は、青鬼は、この小娘は、わしに憐みにも似た「情け」をかけていたのか。同情という、妖怪は持たず、人間にしか持たぬ特別な感情を、この小娘は抱いてしまったから、泣いたのだ。すべては、優しいが故に。大人であったならば割り切れただろうが、千代は、悲しいまでに優しい子どもだった。
掴んでいた手は胸倉から落ちて、ずるずると膝から頽れる。千代が再び嗚咽を口から垂れ流し、子どもの高い体温が手を通じてわしの胸元にじわりと名残を残していった。
今度こそ、掴めるかもしれない。人間が、千代が、青鬼が泣く理由が曖昧ではあるが分かったような気がする。それならば、今のわしなら長年の疑問に対する答えを掴めるやもしれぬ。あのとき青鬼の手を離してしまったわしも、今度こそ。
「……千代」
おずおずと千代の方へと手を伸ばす。一気に掴むことのできない自分への怒りと千代を掴めないかもしれないという一抹の不安を抱えながら、すっかり冷えた赤い指先で千代に触れようとする。
もう少しだ。震える指先で触れようとした瞬間。がしゃんと耳慣れた音が背後ではっきりと聞こえた。振り返ろうとするも、爆発的な風に視界を阻まれ、思わず目を閉じてしまう。あっと思った瞬間には、何もかもが遅かった。
「人柱。丁度良い」
男とも女ともつかぬ声。嗅いだことのある匂い。声の主は容易に想像できた。咄嗟に脳裏に過ぎるは、あの弧月のような笑み。
「……おめぇか、青鬼」
そろりと眼を開ければ、千代を小脇に抱えた青鬼が、獣の如く四足でわしから距離を取っていた。青鬼はじとりと睨みつけるわしをじっと見ていたが、小首を傾げただけで特に動く気配が無い。
「お前は、要らない」
やがて飽きたとばかりに欠伸を一つしてから、月に向かって蚤のような跳躍力を披露する。驚かぬわしを見るでもなく、青鬼はまた弧月のような笑みのまま月へと溶けるように姿を掻き消してしまった。