第三朝 鬼と人と妖 前編
次に目を開ける時は、ひどく億劫だった。躰は鉛のように重い。深い海底に沈んでいるかのようだ。全身にわたる倦怠感により眼だけを動かして辺りを窺えば、どうやら畳の部屋に布団を敷いて、自分は横たわっているらしい。
「……どこだ、ここ」
枕元に置かれた行燈が、部屋の隅にある暗闇を深いものにしている。足の爪先から徐々に視線を上げていくと、見えたものは部屋の仕切りである障子、土の壁。人間に関する記憶を引っ張り出してくれば、宿屋である「旅籠」のことを思い出した。はて。いつの間に旅籠なぞ来ることになったのだろうか。
不意に隣でもぞもぞと動く気配がする。何とはなしに振り向くと、甘い匂いが鼻を衝き、しっとりとした短い黒髪の中に顔を突っ込んでしまった。少し汗臭い。
「うわぁあ?!」
「ひゃぁあ?!」
ばっと布団が悲鳴とともに飛び上がり、隣で寝ていたものが跳ね起きる。見るまでも無く、隣に居たのは千代だった。小刀を胸の前に構えて、驚愕に目を見開いている。
「おっ、脅かすない、小童ぁ!」
「貴様が脅かしたんじゃないか!」
「おめぇが居るなぞ思わんわい!」
「じゃあ寝首を掻けば良かった」
「……起き抜けに恐ろしいことを言わんでくれんか」
「断る」
千代の膠もない言い方に、溜息を吐いて胡坐を掻く。眉間に寄った皺を直そうと片手で額を押さえると、どすんと不機嫌そうな音を出して千代が隣に座り直した。横目で見るが、恥じらう素振りも見せずに胡坐を掻く千代は、どこからどう見ても男気に溢れている。天は何故こやつの性別を逆にしたのだろうか。
「まったく。……面倒を掛けさせるな。妖怪め」
だが、肩越しに行燈の灯りに照らされた千代の横顔に、ぐっと言葉を呑む。最初に出会った時の勢いはどこへやら、今では千代の凛々しい眉は八の字に下がりきり、漠然とした不安を抱えている幼子のような表情となっていた。
ふと千代の言う「面倒」という言葉に反応して、千代から違和感を放つ腹部へと眼を向ける。そこには、たどたどしくも綿紗が傷を覆うように巻かれていた。慣れていないのかそれとも止血をするためか、息が止まりそうな程にきつく巻かれたそれに意図せず顔を顰める。
「おめぇがやったんか、これ」
「……真神に、頼まれた。不平は受け付けん」
「息がしにくい」
「不平は受け付けんと言っただろうが」
「でも、まさか、おめぇ……わしのこと心配して」
「自惚れるなよ。鬼畜」
「……へーい」
へらへらと笑うわしの冷やかしに、千代はじろりと横目で睨んで即座に斬り捨てた。そうじゃった。こいつは、こういう奴だった。
再び溜め息を吐いて拗ねた声を出せば、むすりとした表情の千代がこちらを一瞥する。敢えて千代の方は見ずに膝に肘をついて頬杖を掻けば、今度は千代が呆れたように小さな溜息を吐いた。
「だいたい、貴様が話も聞かずに飛び出すから……!」
いつにもまして、ご機嫌ななめらしい。腕を胸の前に組んだまま鋭い目つきの千代がわしを睨む。と、同時に素っ頓狂な声が障子から飛び出してきた。
「おぅい、嬢ちゃん。赤鬼が起きたっぺかぁ」
「兄者、大怪我を負っているからもう少し静かに」
ぱぁん、と勢いよく開く障子から顔を覗かせたのは、例にも漏れず真神と月夜だ。その背後には見慣れぬ野干が佇み、わしを見下ろす。姿形は人間の女であれども、臭いは野狐そのものである。
「赤鬼やい、何があったべやぁ。おらたちが来た時にゃあ小屋が燃えてるしよぉ」
「火傷と腹部への切り傷からして、青鬼と相対したのか」
「それなのに貴様というやつは策も無く突っ込むとは。痴れ者め」
「お嬢ちゃんは手厳しいのぅ」
どやどやと近付いて話しかけてくる真神たちとは対照的に、野干はその場から一歩たりとも動かす、わしを品定めでもするかのように爪先から頭までを見回してくる。視線から感じるものは、疑念と侮蔑だ。
「目が覚めたかい。火傷や切り傷が酷いから死んだかと思ったよ」
「……お世話さまで。ここはあんたの寝床か」
「そうさ。感謝しとくれよ。何せ上等の客室だ」
野干というのは、神の遣いである稲荷神であり、その稲荷神の中では野狐という種にあたる。野狐と袂を分かつものが善狐であり、一般的に知られるものは九尾の狐であったり、千年以上を生きて千里眼を持つという天狐などがあるが、野干はそれらにもあたらぬ下位の狐だ。ただし、こうして人に化けて人間同様の生活が出来るため、ある程度の力を有している。
「あたいはねぇ、見世物小屋に居た猫又たちの紹介でここに運んだんだ」
「かたじけねぇっぺ。ありがとうなぁ、お姉さん」
ふん、と鼻を鳴らす野干に、真神が何とも情けない声を上げて野干の方へと視線を向けた。真神も人間の真似事のように手もみをしようとするが、肉球しかない前脚ではどうにもならない。隣にいる月夜が無言でぺちんと前脚で顔を覆った。
「それで。事情はこの狼たちから聞いたけど、これからどうすんだい」
「……それなんじゃが、ちぃと協力をしてくんねぇべや?」
「あたいが、かい」
「うんにゃ。街道に居る妖怪たちだっぺ」
「えぇ?」
しれっと真顔に戻って言い放つ真神へ、一斉に月夜と野干が目を向く。がやがやと騒がしかった空気が一変した。
でれでれと鼻の下を伸ばしていた真神は瞬時に神妙な顔つきになり、前脚で月夜と野干を手招きをした。呼ばれた月夜と野干は互いに顔を見合わせ、真神の傍へと歩み寄って行く。真神は近付くや否や今度はわしと千代の肩に前足を回し、円陣を組んだ。外に居る何者かに気配を気付かれないようにと謎の配慮をする真神が、小声で密やかに口火を切る。
「ええか。青鬼の脅威を取り除くには、陰陽師を倒さねばならん」
ゆらゆらと、影法師が五つになった。大中小といったさまざまな影は、障子を黒く縁取り、頭を付き合せるわしらの顔に影を落とす。心配そうな顔で見守る月夜に、真神は何らかの策は頭にあるようで、やけに自信ありげな顔つきで、にやりと笑った。そういえば、この街道に来る前も真神が「策がある」と言っていたような気がする。
どうするのだろうか。固唾を呑んで見守れば、案の定というか、隣に居る月夜が眉を顰めて焦るように声を上げた。
「野干は伝手で仲間を集めてくんろ。おらと月夜が陰陽師の居場所を突き止める」
「待て、兄者。陰陽師に歯向かうなど愚の骨頂ではないか」
「じゃあ青鬼をどう退治するんだべや」
「兄者と奇襲を掛ければ」
「陰陽師は、鬼を操る。鬼が居るということは必ず傍に陰陽師が居る」
「……それで、陰陽師退治かい。骨の折れるこった」
「一見したところ、青鬼による被害は大きい。街道は悲惨な状況だぁ」
「しばらくは妖怪たちも寄りつかないだろう」
「あすこで生計を立てていた野干なら、街道が無くなるということの意味は分かる筈だべ?」
「……どうして、そのことを」
「おらも伊達に神様やってねぇべ。見世物小屋の主は一つ目だべ?」
いしし、と今度は悪童染みた笑みを浮かべる真神に、野干は苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをした。言葉にせずとも野干の反応では真神の言うことは外していないのだろう。月夜は兄弟子の言動に信じられないと口を開け、頻りに瞬きを繰り返している。真神は一体どれほど弟弟子に信用されていなかったのだろう。真神自身はその視線に気が付かずに話を続ける。
「一つ目とはちぃと古い付き合いでな。それより、どうじゃ。乗るか」
「……下手を打ちゃ共倒れだ。時間をおくれよ」
「何でじゃ。このまんまじゃあ青鬼が街道からこの都にまで来るべや?」
差し迫る表情を浮かべる真神は、必死に渋る野干を説得しにかかるが、野干は今一つ実感が持てないようだった。怪訝そうな顔をして真神を見据えれば、真神も真神で茶化す気配を微塵も見せずに見つめ返している。再び室内は夜の静寂に包まれた。
しかし、その静寂を破るように、おずおずといった様子で月夜が口を開く。
「だが兄者、何故あの陰陽師がこの都に来ると」
「下調べによれば、最近の陰陽師はこの辺りに寝泊まりしとるらしい」
「……そこまで調べがついているなら、どうして」
「そこから先は皆が怖がって調べてくれねぇんだべ!」
「あぁ……何となく分かった」
「月夜、頼めるか」
「……兄者はいつもそうだ。無茶なことに首を突っ込んでは巻き込む」
「今度のはおらの我が儘じゃなかんべよ?!」
「分かっとるさ」
「あぁ、その眼、絶対におらのこと信用してねぇっぺ?!」
「はいはい」
「でんごろぉ……!」
ぴりぴりとした緊張感が漂う和室に、狼の夫婦漫才のような和やかな雰囲気が流れ始め、野干が口元に笑みをかたどる。この二匹の狼はどこへ行っても緊張感をもたらすことなど皆無らしい。それが、今のわしにとってはありがたかった。
「真神、月夜。盛り上がっているところ悪いが……」
だが、ここで言わなければならん。じじ、と行燈の蝋燭が空気を燃やし、夜は刻々と更け込んでいく。不思議そうにわしへと振り向く真神たちからちら、と視線を外して部屋の隅に目を遣れば、暗闇がぽかりと口を開いて輪郭すらも映さぬ奈落と成り果てていた。
一人円陣を解いて、部屋の隅へと半歩だけ下がる。光源から離れたこの身は一寸先に寝そべる闇へと浸り、皆からの距離を遥か彼方にあるものへと惑わせた。その距離が、遠くて、心苦しい。だが、これで良いのだ。
「おめぇさんらは、陰陽師の在り処だけ教えとくれ」
ここに居る者たちは、止むを得ないとはいえ、わしの我が儘に付き合せてしまった者たちだ。本来であれば、こんな心許ない行燈の下に集まって小声で話さなければならない者たちではない。わしと違って日の下に居るべき者たちであり、本来なら関わることのなかった筈の者たちだ。
わしが、青鬼を追いかけなければ、この者たちを巻き込むことは無かったのだ。それが、どういう訳かわしの我が儘に引きずり回してしまい、大きな損害まで出してしまった。こうなってしまえば、けじめをつけなければなるまい。
「後のことは任せてくれ」
ぎゅうと拳を握りしめ、眼に力を入れる。情けない話だが、これから言う言葉を口に出すことに躊躇してしまった。本当に、鬼として情けない限りだ。
ふっと短く息を吐き、真神たちに不安や猜疑心を抱かせぬように精一杯に笑うことに努める。我ながらお粗末な笑みだ。わしの笑みをどう受け取ったか、真神や千代の顔を見てみるが想像がつかなかった。
やはり、わしは、鬼だ。眼前にある者たちが持つ心さえ読むことも出来ぬ。暗がりから見えた皆は、仄かな輝きを以て見ていた。
「わし一人で陰陽師を殺すから、手出しはせんでくれよ」