第二朝 鬼と八百万街道に見世物小屋 後編
「……何じゃ、これは」
最後の鳥居を潜り抜けると、大きく開けた丘のような場所に燃え盛る小屋が一軒だけあった。火事が起こる前に小屋の中に居たであろう人間や妖怪が、蜘蛛の子を散らしたように方々へと逃げて行き、わしらの方へと走ってきた。
「おい、てめぇらも逃げた方が良いぞ、今日の見世物は終いだ!」
「見世物?」
「おうよ。てめぇらここがどこか知らずに来たのか?」
「ただのこ汚い小屋にしか見えんが」
「かぁーっ、分かってねぇなぁ。この小屋のわびさびが!」
「……そのわびさびの塊が燃えているのは何故だ」
「そうだった、こうしちゃいられねぇ!!」
三度笠を被った川獺がきぃきぃと鳴き喚き、大きな手振りで事態の慌て様を表す。すると、唾を飛ばしながら忠告する川獺の後ろから、尺八を片手に悔しそうな相貌の河童がぱしんと川獺の頭を叩いた。何事かと振り返る川獺に、河童は苛立ちを隠そうとしないまま怒鳴り込む。
「おい無駄口叩いてる暇があんなら置いてくぞ、川獺!」
「わっ、兄貴、置いて行かねぇでくれよ!」
ぴょこんぴょこんと兎のように跳ねる川獺の頭を引っ掴む河童が苛立った口調でわしらの脇を通り過ぎようとする。ちょっと待て、と呼び止めようと河童に手を伸ばしかけたが、河童の形相に思わず息を呑んだ。
「……お前さん方もあの青鬼が目当てなら、やめておくこった」
ぎょろりと大きな目が忌々しげに細められてはいたが、どこか哀愁のようなものも漂っていた。河童の眼に浮かぶ感情は、まるでお気に入りの玩具を火事になった家に置き去りにしてしまったような物寂しげなものだ。名残惜しげにわしらから視線を外す河童は、ぎゃんぎゃんと騒ぐ川獺を引っ掴んだまま鳥居の奥へと姿を消してしまった。
「……青鬼が、ここに居るのか」
河童が残した言葉を口にし、胸の奥底から湧き上がる期待や喜びに、矢も楯も堪らなくなる。
「青鬼が、ここに」
そうだ。わしは青鬼を目当てにここまで来たのだ。もうすぐで青鬼に会えるというのに、ここで諦める阿呆がどこに居る。数え切れぬ程の転生を繰り返し、会いたいと望んだ青鬼が、この先に居る。
「……小童。おめぇはここで待っとれ」
「貴様、何を……いったぁ?!」
千代を負ぶったまま燃え盛る家の中に入る訳にもいくまい。なけなしの親切心から千代に忠告するが、案の定というか非難めいた声を上げたのでつい両手を離してしまう。どすんと千代が地に落ちる音がし、即座に痛みに呻る声がしたが、最早こやつに構うほどの余裕は持ち合わせておらん。
「待て、真神たちが言っていたことを忘れたのか……おい!!」
一刻も早く、青鬼に会わなければ。必死に声を上げて制止しようとする千代の声を振り切り、わしは天にも昇ると言わんばかりに勢いがついた火の中へと身を投じた。
*****
予想に反して火の手は回っている。ぱちぱちと火の粉を撒きあげ、勢いを劣らせるということを忘れた焔は小屋を支えていた柱を飲み込み、小屋にまだ残っていた人間や妖怪をも飲み込まんと大口を開けて迫って来ていた。
小屋の外へと我先にと逃げ出す人間や妖怪の波を必死の思いで逆流する。だが、やはり思うようにままならず、知らずと舌打ちが出てしまう。すると、じりじりと焦るわしの裾を何者かに引っ張られる感覚がした。最初の内は無視して前に進もうとしていたが、あまりにもしつこい仕草に「何じゃ」と怒鳴って振り返る。振り返った先にあったものはつるりとした肌色だった。思わぬ光景に度肝を抜かれる。
「あんた、そっちは危ないよ。出口はこっち!」
のっぺらぼうの背後からひょこっと顔を出して注意を呼び掛けたのは、愛嬌のある顔をした猫又だった。平時であるなら猫又のしなやかな体つきに見惚れるものは多いだろうが、この非常時においては誰も猫又に注意を向けようとはしない。だが、猫又は気にした素振りも見せず、ぐったりとした小さな寺の坊主のようなものを肩に担ぎ、他の人間や妖怪を出口へと導いていた。愛くるしい見た目にそぐわず、勇敢なものだ。
「あたしたちも逃げるから、早くあんたも!」
「わしに構わず先に逃げてくれ、わしは青鬼に用があるんじゃ!」
「あんた、あの子の知り合いかい」
「そんなもんじゃ。ええから早う逃げえ!」
のっぺらぼうが裾を掴む手を乱暴に振り払い、踵を返す。瞬間、裾を今度は思い切り後方へ引っ張られ、躰がぐらりと傾いた。度重なる邪魔に今度こそ荒げた声を出す。裾を引っ張ったのは、のっぺらぼうではなく、あの猫又だった。やたらと噛みつくような眼でまっすぐにわしを見つめ、真剣な表情で口を開いた。
「お願い。あの子を、連れ帰ってきておくれ」
火の熱が小屋全体に回って辺りに煙が充満する中でも、猫又は瞬き一つもせずにわしを見つめる。その視線が、声色が、どれほど青鬼のことを案じているか。猫又から発せられた言葉の重みをひしひしと感じながら、わしは黙ってその場を立ち去った。
どうやら青鬼はわしの知らぬ間にも妖怪の仲間とも呼ぶべき関係性を作り上げていたようだ。数百年前ではありえなかった青鬼の変わり様に、わしの胸は驚愕と歓喜と戸惑いと複雑な思いに駆られる。
「……青鬼め。隅に置けんわい」
途端に混乱する頭を無視しようと笑ってみたが、疑惑の暗雲は一向に晴れる兆しを見せない。ざわざわと胸が騒ぎ、足の裏から見えないものが這い上がってくるような錯覚を覚えた。
青鬼を探して会うのは良いが、青鬼が以前と変わっていたら、どうする。わしも青鬼も死別してから幾度となく夜を超えてきた。こうして再び見えることが出来るようになったが、もし、そこに居る青鬼がわしの知り得ぬ青鬼であったら。わしは、どうする。
「……どこじゃ」
己の中に生じた疑念を払うように頭を振り、青鬼の姿を探す。小屋の構造的にだいぶ深い場所まで来たはずだが、青鬼が居る気配が全くしない。必死に眼を皿にして青鬼の名残を探した。
「……どこにおる?!」
荒れ狂う波を逆流して、ついに大きな火の渦の中心へと辿り着く。
渦中にあったものは、瑠璃の肌を持つ、焦がれて止まない小さな青鬼だった。火柱と火の粉の隙間に、輝きを放ちながら流れるような白い髪と青い肌の小鬼が、わしに背を向けるようにして立っている。
「青鬼!!」
演者の舞台である壇上に、青鬼が鉄の檻の傍にぽつねんと佇んでいた。わしに呼ばれたせいか、青鬼が僅かに躰をこちらへ傾ける。薄暗い灯りのせいで青鬼の横顔からは感情を窺い知り得ないが、あれは、確かに自分が探していた青鬼だ。額に生えた角で確信する。
「青鬼。わしじゃ、赤鬼じゃ!!」
青鬼に駆け寄ろうと、逸る気持ちで足を踏み出す。同時に、青鬼がわしの気配を感じ取ったのか、顔だけをぐるんとこちらへ向けた。蛇のような焔に巻かれて青鬼の顔が赤々と照らされる。
「……青鬼?」
青鬼はわしを見てもなお、感じるものなど何もないといった様子で昏く澱んだ瞳でわしを見つめ返した。その瞳にあるものは、底の見えない空虚だ。
わしの知る青鬼ではないことに違和感を覚えて、青鬼の全身を見てみる。と、絶大な違和感を放つ場所にわしの眼は釘付けになった。
「青鬼。何じゃ、それは……?」
青鬼の小さな手の指先からは、ぽたぽたと赤いものが滴っている。それが血であることは、深く考えずとも分かった。火柱の灯りで照らされた青鬼は、全身に返り血を浴びている。それが、何の血か。それが分からぬ程うつけてはいない。
「……おめぇ、まさか」
人を、殺したのか。何故だか二の次に続く言葉を発することが出来ず、どうしてだかわしの頭は真っ白になる。あの、泣き虫で、人や物を傷付けることを躊躇っていた青鬼が、人を殺した。人を、あの小さな手に掛けたのだ。
ぎしりと床板が軋む。はっとなって青鬼を見れば、青鬼が幽霊のように動いてわしの方へと足を踏み出していた。それを見て、思わず後退さる。
後退さった瞬間、立っていた位置には、業火を宿した梁が雷鳴のような音を轟かせながら倒れてきた。ばちばちと火の粉を振り撒きながら土煙を舞わせた柱を、青鬼はわしの問いかけに答えず、軽く跳躍してわしとの距離を縮めてくる。
「……青鬼」
ごくりと息を呑んで真正面に立つ青鬼を見つめる。青鬼との距離は手を伸ばせば届く所にまで来ていた。しかし、わしも、青鬼もそこからは互いに動かず、見つめ合う。辺りに火は充満し、焦げた臭いが鼻を衝く。一刻も早くここから離れなければ火に囲まれてしまうというのに、どうしてだか青鬼にこれ以上声を掛けることが出来ずにいた。
わしが声を掛けなかった理由として思い付くものは、眼前に立つ青鬼の瞳にある。今の青鬼は、わしの知る青鬼ではない。わしの知る青鬼は、こんな闇を抱えた瞳はしてはいなかったから。
そう感じた途端に、青鬼は弧月のような笑みをにたりと浮かべた。
「……青鬼?」
青鬼の見たことのない笑い方に、ぞくりと全身の肌が粟立つ。理由も無く、今の青鬼を見ていたくないと思ってしまった。
「ねぇ」
どすっと鈍い音と衝撃が襲い掛かり、眼の焦点が僅かにぶれる。腹部からじわりと生暖かいものが流れだし、急激な熱と痛みに襲われた。ゆっくりと青鬼から腹へと視線を移す。
腹部には、青鬼の太くも細くもない腕が突き刺さっていた。予想だにしなかった光景に目を瞠る。感触からして突き刺さった腕は腹部を貫通して、青鬼の手がぐっぱっと閉じたり開いたりとする振動が伝わってきた。
「……お前」
青鬼の、蚊の鳴くような声がして腹部からゆっくりと顔を上げる。気味の悪い三日月の笑みを浮かべたまま青鬼が、はぁと息を吐いた。それから、わしの耳元から毒を流し込むかのようにそろりと囁く。
「だれ」
囁いた直後。青鬼は箍が外れたように大声で笑いだした。ずるりと腕を腹から引き抜かれ、げたげたと笑う青鬼は躊躇なく足でわしを蹴り飛ばす。存外に威力のある蹴りを腹部に食らったわしは、支えるものも縋るものも無く尻餅を着いた。見上げた先には、底冷えのするような闇をかぱりと開いた口から漏れさせ、焦点の合わない瞳でこちらを覗く顔が一つ。
「だれ、だれ、だれだれだれだれだれだれだれ」
唖然とするわしを尻目に、青鬼はがくがくと肩を揺らしながら狂ったように嗤いながら、のそりとわしへと馬乗りになる。青鬼が跨ってくると、嗤いすぎて閉じなくなった口からはぼたぼたと唾がわしの頬に落とされ、視界が滲んだ。わしは、そのお蔭で青鬼がまたわしの知る涙を溢しているのではないかと思い、眼をよく凝らしてみる。
「おれは、だれ」
傍で燃え盛る火に、青鬼の目元がぼんやりと照らされたが、青鬼は泣いてなどいない。瞬きを何度も繰り返せども、青鬼はわしの知る涙は一滴たりとも溢さず、ぞっとするような笑みを浮かべていただけだった。
「知らない。しらない、しらないしらないしらない」
もう、わしの知る青鬼ではないのだな。そう思うと立ち上がる気力すら起こらない。わしはただ、あの優しくも泣き虫で臆病な青鬼に会いたいと思っただけなのに。こんなに無力感と絶望を味わったのは、あの時以来だ。どうにでもなれ。既にわしは自暴自棄になってしまっていた。
青鬼が泣いていてくれれば、わしも希望が持てたものを。わしが探していたのは、すっかり変わり果ててしまった青鬼だ。
「要らない、いらないよ。お前」
ばちばちと燃え盛る火を背景に青鬼は、慈悲とは程遠い笑みをしながら、壊れた絡繰人形のように同じことをぶつぶつと唱えた。そして、勝手に期待して勝手に絶望したわしへ、止めを刺さんと躊躇することなく拳を振り下ろす。
わしはそれをどこか他人事のように見て、そっと瞼を閉じる。変わり果てた青鬼の姿を、もう見ていたくはなかった。
のぅ、青鬼。
わしらはどうして、こうなってしまったんじゃろうな。