第二朝 鬼と八百万街道に見世物小屋 前編
雨垂れの音がして、顔を上げる。すると、日の光さえも遮る曇天は何時の間にやら晴れ渡り、岩山の遙か先にある山には鮮やかな虹が架かっていた。周囲には未だ雨に濡れた土の臭いが充満しているが、橙色に染まった空を見るに、今夜は晴れそうだ。岩穴の奥から吹く風は湿り気が無く、暖かい温度でわしの頬を撫でていく。
「……さて。世話になったな、送り狼やい」
「おらも、赤鬼の昔話が聞けて楽しかったべ」
膝を抱えていた両手の拘束を外し、よいしょと立ち上がる。右腕の切り傷は既に完治し、立ち上がったついでに横に座っていた送り狼の方へと振り返った。
「わしの話なんぞ、聞いたってつまらんかったろう」
「まさか。のぅ、嬢ちゃん?」
「……嬢ちゃんじゃない。千代だ」
送り狼は眉間に皺を寄せた子どもの顔を見て、何が面白いのか阿阿と大笑いしている。狼のくせに人間臭い笑い方をするものだ。あれから千代と名乗った女子は面白くなさそうに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。
実は雨が止むまでにわしと女子の間で一悶着はあったが、送り狼の「喧嘩なら他所でやれ」という鶴の一声で因縁の決着は引き伸ばされてしまった。わしも千代も思うところはあったが、千代は送り狼に義理を感じているのか雨が止むまでの間は黙り込んでいた。
とは言っても、わしへの恨みつらみが消えたわけではない。送り狼の隣に座った千代は、話している間中ずっと怨嗟の念を込めた瞳で睨んではいたが、致し方のないことだろう。
どうやら千代にとって家族というものは、わしの青鬼に対する想いと似たようなものであるらしい。雨が止むまでの間に送り狼の「暇だからお互いの昔話を聞かせてくんろ」というお気楽な提案により、千代が渋々といった様子で、如何に家族は大事であるかという話を聞かされた。
千代はあの村で生まれ育ち、わしが村人たちを襲う一週間前に山で狩りを行っていたそうだ。父親は山へ狩りに行った際に猪に襲われ負傷し、六人家族の中で最年長の千代が父親の狩りを手伝っていたこともあって単身で山に入った。山に入る前に優しい母親や弟が弁当や大事にしていた木の実をくれた、と口端を緩ませて微笑む千代は、子どもらしい笑みを浮かべていた。
しかし、その顔もやがて引っ込み、千代は鋭くわしを睨みつけてくる。
「うちには、家族が全てだったんだ。それを、貴様が……!!」
まだ幼い声ではあるが、声色だけで憎悪が窺えた。肩まで伸びた黒髪や凛々しい眉に聞かん坊そうな目つきはまるで男子だが、丸みを帯びた顔の輪郭や小振りな胸の膨らみを見ればそうではないことが分かる。しかし、濃藍の甚平を羽織って「仇討ち」と斬りかかってくる姿は勇ましいものだった。
一見したところ十ぐらいの年だろうか。幼子が「仇討ち」などと重いものを背負うにはちと若いような気がする。相手がわしでなければ本懐を遂げて欲しいと願うばかりなんじゃがなぁ。
「のぅ。仇討ちよりも女子らしい振る舞いをしたらどうじゃ?」
「喧しい。貴様を殺すまで諦めんからな」
「執念深いのぅ」
「それよりも、貴様の方こそ出鱈目を言うんじゃない」
「……出鱈目だぁ?」
「村人が貴様の友を殺したなど、貴様のでっちあげだろう」
「ほぅ。わしの言うことは信じられんと」
「信じてなるものか!」
「……そうかい」
呆れたように笑ってみせると、みるみるうちに千代の顔が険しいものとなっていく。そのうち、わしと女子に挟まれた送り狼は無言で両耳をぱたんと閉じた。千代の後でわしもこれまでの経緯を話したから、送り狼としてはどちらの味方にもなれないでいるのだろう。わしもそれで良いと思うとる。そもそも、送り狼には関係のない話だというのに、こうやって送り狼を巻き込んでしまったことが申し訳ない。口には出さずに送り狼に詫びると、千代が震えた声を腹から絞り出した。
「貴様の身勝手さで殺された家族の気持ちが、貴様に分かるか!」
ちらりと千代を見れば、握った拳をぶるぶると震わせてまっすぐにわしを見つめる千代と眼が合い、何とはなしに気まずくなる。
「貴様の、せいだ……!!」
千代の立場からすれば、わしの言うことなぞ信じられやしないだろう。信じたくはない筈だ。認めてしまえば、恐らく千代に長きに宿る憎悪は忽ち行き場を失ってしまうこととなる。今の千代を支える感情が無くなってしまえば、困るのは本人だ。
「……そう、さなぁ」
千代に掛けるべき言葉を見失い、視線を外してがしがしと頭を掻く。
確かに、わしの身勝手さが招いたことだ。わしの我が儘で、結果的に千代の家族を殺してしまったのだから、詫びの入れようもない。詫びようがないからといって、女子をここで殺してしまっても些か夢見が悪いだろう。子どもを殺すことは簡単だが、多少は人間に肩入れする送り狼に迷惑を掛けたくはない。さて。どうしたものか。
女子への対処方法に困り果てて、両腕を組んでうんうんと唸っていると、岩山の向こうから何かがこちらへと駆け寄ってくる足音が聞こえた。
「おぅい、真神やい!!」
咄嗟に声のした方向へ顔を向けてみれば、虹の架かった方角の岩山から白い獣が四足で駆け寄ってきている様子が見える。あれは、たしか。
「おぉ。でんごろうでねぇか。どうしたっぺぇ?」
送り狼はわしの横で嬉しそうな声を出しながら岩穴から出て、白い獣を確認する。わしも千代も思わずつられて岩穴から外へ出た。
「だから、幼名で呼ぶなと、言っておるだろうが!」
送り狼の口調から察するに、よほど仲が良いようだ。白い獣は雨によって出来た霧の中を迷わず真っ直ぐに突き進み、やがてわしにも輪郭が分かる程までに近付いてきた。やがて白い獣は送り狼の前まで来ると、ぜいぜいと荒れた息を隠そうともしないで送り狼を不満気に見つめ返す。
「いつも兄者はそうだ!」
「えー。だって、でんごろうはでんごろうだべ?」
「相も変わらず話を聞かん奴だな!」
岩山の隙間を縫うように駆け寄ってきた白い獣とは、送り狼に酷似した白い狼だった。その見覚えのある姿に、わしは過去の記憶を引っ張り出す。以前にわしが会ったことがあるのは、この真っ黒な送り狼と、風のように飛んできたこの白い狼の迎え犬だ。迎え犬とは、こういった岩山を住処とし、高所から送り狼が悪と下した者を待ち伏せして襲う妖怪だが、よもや送り狼と仲が良かったとは。
「仲が良いんじゃなぁ」
「そりゃあ、同じ師匠の元で修行していた身だっぺ。おらの方が兄弟子なんだべや!」
「そうは見えんがなぁ」
「もー、いっつもでんごろうの方が兄弟子って言われるの、何でだべ?!」
「いいから、それどころではないんだ、兄者!!」
迎え犬は苛立った調子で声を荒げ、前脚で送り狼の頭をぱしんと叩く。真神と呼ばれた送り狼も「ちぇー」と拗ねた声を出すだけで、迎え犬に反撃をしようとしない。もしかすると、白い狼の泥に塗れた足元を見て、ただごとではないと踏んだからやもしれぬ。送り狼はおどけた口調は直さず、ただし視線だけは鋭く迎え犬を見据える。
「……どうしたっぺ。おやつでも失くしたべや?」
「馬鹿者! それぐらいで慌てるものか!!」
「じゃあ、何だべさぁ」
「お主、前に会った青鬼は覚えておろうな?」
「青鬼?」
「青鬼?!」
思いがけない単語を聞いて、ついわしの方が身を乗り出してしまった。迎え犬は一瞬だけ怪訝そうな顔をするが、わしの顔に見覚えがあったのか、「あぁ」と一声上げただけだった。
「お主は、前に青鬼とともに居た赤鬼か。その節は」
「ええから、話を続けてくれ!!」
律儀に頭を垂れて挨拶をする迎え犬を急かすように話を続けるように促すと、「そうじゃった」と迎え犬はすぐさま顔を上げて送り狼に詰め寄る。
「あの青鬼が、この先の八百万街道で暴れておるらしい!」
「……え?」
「街道だけでのうて、徐々にこちらへと来ている。まだ街道におるが、止めねばここも被害を受けてしまうぞ!」
「でも、あの青鬼はちっこいからさほど影響は無いんでねぇの?」
きょとんとして首を傾げる送り狼に、内心で同意した。わしらは鬼ではあるが、一般的な鬼の中では一段と小さい。個の鬼の威力はせいぜい村を脅かす程度のものでしかないが、こうも他の妖怪にまで恐れられるとは、一体どういうことだろうか。
頭上では烏が夕暮れを告げて飛び回るが、地上では白い狼が差し迫る危機を知らせるように吠えた。
「青鬼の後ろには、陰陽師がついとる!!」
「えぇっ?!」
思わぬ単語に、わしと送り狼が息を呑んだ。わしらのような妖怪は勝手に生きていくものが数多くいるが、陰陽師に強制的に捕らわれ、己の身が滅びるまで酷使される運の悪い奴も居る。
だから、わしらが陰陽師に出くわした際は命からがらでも逃げ果せなければならない。でなければ、自らの意志で消えることも出来ず、陰陽師に使われる体の良い玩具と化してしまう。そのことに関しては、全ての妖怪たちに共通して忌避すべきことだった。
「……陰陽師が? なして?」
「分からん。分からんが、街道に居る妖怪たちも歯が立たぬらしい」
「そうか。……そうか」
「兄者、どうする?!」
見る間に切羽詰まった顔つきになる迎え犬は、縋るように送り狼を見上げる。送り狼は不安気な迎え犬を宥めるように、優しく、諭すような声で頷いた。
「……おらに、考えがある」
送り狼の真面目な声に驚いて視線を迎え犬から送り狼へ移す。送り狼は先ほどのわしと女子のやり取りを止めた時のような、精悍な顔つきをしていた。
ざわざわと夕暮れ時の風がさざめき、ぐるると送り狼が喉を鳴らす。茶化すことの多い送り狼が一変して獣のような獰猛な牙を剥き出しにする姿を見た迎え犬は、ぐっと息を呑んだ。
夕焼け色に染まった空が夜の藍色に染まりつつある中で、前を見据える送り狼の瞳が爛々と赤く光る。薄暗い岩山の中で赤い光を瞳に宿す狼は迷う素振りも見せずに、わしと迎え犬の前に踊り出た。
「月夜。赤鬼やい」
獣とも妖ともつかぬ送り狼の空気に生唾を飲み込む。それと同時に、なるほど、と思った。
送り狼は獰猛な妖怪である。今でこそ腑抜けた部分があるが、これでも昔は人里を襲い、その獰猛さゆえに人々からは神として崇められて神格化され、神にも等しい存在にまでなった妖怪だ。送り狼の艶のある黒々とした毛並みも、鋭利な牙も、得物を捉える瞳も、今この瞬間だけは神々しい光を放つ。
「おらに付いて来い」
地の底を這うような声が腹に響き、躰の芯がびりびりと震える。月夜と真名を呼ばれた迎え犬も、送り狼の声色にほっとしたような顔付きになった。