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鴉の虹彩  作者: ちがみ
9/13

4-1


 鈴の音がした。小さな音だったが、一つではない。五つか六つ程の鈴が不規則に揺れているような重畳的な音だった。

 音は扉の向こう、鴉のいる部屋の中から聞こえてくる。

 エリオットはロランたちを家に上げた後、着替えるようにと言って棚の上から持ち出してきた紙袋を鴉に渡し、自らの部屋を貸した。

 渡した袋の中には、以前請け負った仕事で誘拐した少年が着ていた服が一式しまってあった。割合高価な物だと聞いて処分する機会を失ってしまい、サスペンダーなどの小物類まで残らず入れておいたように記憶している。年は十四、五で、そこそこ家柄の良い少年だった。ゆくゆくはハンサムな男に成長しそうだったが、残念なことに彼は大人にはなれなかった。

「何の音だ?」

椅子に座っていたエリオットは足を組み直し、ロランの方へ視線を遣った。雨と血を拭い服を替えたロランは、部屋の隅から静かに答えた。

「背中に、鈴が縫い付けてあるんだ」

ロランは鴉のいる部屋の扉を見つめていた。ぼんやりと何かを思い出しているような表情を浮かべている。乾いていない髪の襟足が首筋に張り付いているのが見えた。

「お祈りの言葉が刻んである、小さな長方形の鈴だ。この国の法律で、北の民は皆それを付けることを義務付けられていた」

「何か意味があるのか?」

「あの森から出て来させないためだ。髪を隠し、目を隠してこの国の中に潜り込んだとしても、あの鈴の音が彼らの正体を暴くように」

「そんなのが本当に役に立つか?」

「どうだろうね。もう百年も前に決められたことだよ」

百年前、この国は被差別民であった彼らを北部に広がる深い森の奥へ追いやり、建国を果たした。太陽と光の神を信仰する国教において、黒い目と髪は光に見捨てられた暗闇の象徴であり、神に忌み嫌われていることの証拠だとされていた。以来、"北の民"と呼ばれ、森の奥の集落、"北落"でひっそりと暮らした彼らは、六年前にこの国の征伐隊によってひとり残らず殺された。北落の更に北に位置する国、アンカーランドの生まれであるエリオットが知っているのはその程度だったが、少なくとも、いま扉の向こう側にいる彼女がここに存在するはずのない人間であることは明白だった。

「まあいいや。とりあえず、そんなとこ突っ立ってないでこっちへ来い」

エリオットは指先でテーブルを叩いた。

「聞きたいことは他に山ほどある」

ロランは頷いて、エリオットと向かい合ってテーブルについた。それと同時にロジェが自分の部屋から出てきた。振り返ったエリオットとちらりと視線を交わして、黙ってソファに腰かける。鴉はまだ部屋から出てこない。

 エリオットはロランに向き直り、テーブルの上、伏せられたロランの視線が落ちている辺りを再び指先で叩いた。

「こっち向け」

思考を読み取りづらい曖昧な表情を浮かべていたロランは、ゆっくりと目線を上げてエリオットを見た。その目は、暗い通りで見せていた機嫌を窺うような気弱な目とはうって変わって、少しも震えずにエリオットを捉えた。別人のように腹の据わったその視線にエリオットはわずかな戸惑いを覚えたが、もう一度だけ机を叩いて、ロランを睨み返した。

「質問に正直に答える気はあるか?」

ロランは頷いた。

「ならまずあいつは何なのか説明しろ。あんたとあいつとはどういう関係なんだ」

エリオットは視線をまっすぐに合わせたまま尋ねた。すると、ロランは肩の上下が見てとれるほど深く、ゆっくりと息を吸ってから、まるで教会で罪を告白するような神妙な面持ちで、

「私は、あの征伐の日に彼女を北落から逃がした」

と言った。




 口に出してみると、長い間首を絞めていたロープがほんの僅かに緩んだような気分がした。目の前のエリオットはロランを睨むように見つめている。視線はがっちりと捕まえられていて逸らすことは出来なかったが、今ならば耐えることが出来た。

 ハルを守らなければいけない。ロランは通りで雨に打たれながら心を決めた。そうすると、怯えや不安は不思議と後方へ控え、それまで急いでいた心臓の音が少しだけ落ち着きを取り戻した。

「逃がしたというのは」

「誰にも見つからないように集落から連れ出し、匿った」

「あいつの他には」

「いない。彼女だけだ」

「誰かの指示か?」

「いいや、私が勝手にやった」

「何故」

何故。ロランは途端に答えに詰まった。思い返せばこれまで一度も改まって理由を考えたことがなかった。何故彼女を逃がしたのか、問い掛けを反芻すると、不意に記憶の小箱の鍵が外れてあの瞬間の場景が鮮明に溢れ出した。

 あのとき、小さな家の小さな部屋は、壁や天井に火が回り、その場に立っているだけで体が焼け尽くされてしまいそうなほど空気が熱くなっていた。熱と煙で目と喉が痛み、まばたきも呼吸もままならない。燃えた天井の一部がはらはらとこぼれ落ちてくる。焼け崩れるのも時間の問題だった。部屋の入り口の傍には女が一人、うつ伏せに倒れていた。頭と脇腹から血を流し、手足を放り出すようにして床に転がっているその女の黒い服には、火が燃え移っている。溶け落ちるように燃えていく服の下から、白い背中が覗いて見えてくる。そこには長方形の鈴が六つ、冷たく並んでいる。刻まれている小さな文字がやけにはっきりと読めたが、赤い光に照らされたそれは祈りというよりもむしろ、白い背中を蝕む呪いの言葉に見えた。

 部屋の奥には、ロランと同じマートルグリーンの軍服の男が銃を構えていた。目元にあどけなさが残る若い男だ。飛び散る火花に照らされて、帽子から覗く男の金色の髪が煌めく。青い目の中で、幾つも命を奪ったことへの恐怖ともう一度引き金を引くための覚悟とが入り交じりながらどろどろと燃えている。艶やかな銃身の表面が炎の光を引き込んで赤く揺らめいている。

 男の視線の先には、女の子がいた。女の子は部屋の隅に追い詰められて座り込み、細い腕で彼女より小さな女の子を抱き締めている。その小さな女の子は、頭の右後ろが吹き飛ばされたように崩れていた。女の子の手や顔は、彼女のものか、腕の中の小さな女の子のものか分からない血でべったりと濡れている。女の子はまっすぐに銃口を見つめていた。怯えているというよりも、ただ茫然と、まばたきも忘れて、自分を殺そうとする冷たい鉄の塊を見ていた。

 あのとき、何を考えていたのだったか。

「多分、何にも考えていなかったんだ」

赤く汚れた横顔、隙間に僅かに見える白い肌、そこに張り付く黒い髪。

「頭が真っ白で」

女の子はロランの方を振り向いた。濡れた白目の真ん中で漆黒の虹彩がくっきりと円を描き、その中で真っ赤な炎が閃いた。

「ただ、目が合ったんだ」

赤、白、黒。その三色ばかりが目眩を呼び起こすほどに鮮やかに思い出される。あの日のことを思い出すときはいつもそうだ。

 エリオットがまたテーブルをタップした。硬質なその音で映写機のランプは途切れ、記憶は再生をやめた。

「あんたは征伐隊の隊長の一人だったんだろ。そのくせ、なんとなくの成り行きでそんな大それたことをしたのか?」

「成り行きじゃなかったらこんなことは出来なかった。私はただ、覚悟が足りなかっただけなんだ」

本当は彼が引き金を引くのを見届けなければならなかった。それがロランの仕事だった。彼は命じられた通り、為すべきことを為そうとしていただけだった。

「それで、連れ帰った後はどうした」

「ハルは数日後にいなくなってしまった」

「いなくなった?」

「突然のことだった。私が帰ったとき既に家は空っぽで、残されていたのはこれだけだった」

ロランは胸元から黒い革の表紙の手帳を取り出し、挟んであった赤い飾り紐をテーブルの上に置いた。所々が焼け焦げて黒ずんでいる。ハルがあの日髪を結っていたものだった。

「私は必死で探したんだ。何故いなくなってしまったのか分からなかったから、とても不安になった。自分で逃げ出したのならまだ良いが、もし誰かに見つかって捕まったのだとしたら取り返しのつかないことだ」

遺体と瓦礫の処理をする作業隊員たちのいない隙を見て、夜の間に北落へ向かったこともあった。しかしそこに人の気配は無かった。それどころか、希望を感じられるようなものは何も残っていなかった。焼け焦げて炭化し、元は何であったのか分からなくなってしまった、光を通さない黒い塊が散乱しているばかりだった。

「何日探しても、ハルは見つからなかった。だが同時に、何日経っても北の民の生き残りが捕らえられたという知らせや噂を聞くこともなかった。結局それ以来、彼女がどこでどうしているのか、生きているのか死んでしまったのかも分からないまま六年経ってしまった」

六年の間、ロランの頭の片隅にはいつもハルのことが引っ掛かったままでいた。雪の降る度、薄暗い路地裏でひとり膝を抱えて凍える姿が目に浮かんでは胸を締め付けた。

「憲兵隊が鴉騒動を追って一年になるが、彼女と事件に関係があるなどと考えたことはただの一度もなかった。だが五件目の殺人の現場で、ある女性が鈴の音を聞いたという証言をしたんだ」

「それがあいつの背中の鈴の音だと考えたんだな」

ロランは頷いた。

「証言を聞いて以来、こんなことを言ってはいけないかもしれないが、半分は、彼女が鴉であれば良いと思っていたんだ。彼女が鴉だということは、あれから六年、無事という言葉が正しいかは分からないけれども、それでもどこかで生きていてくれたということだ。だがもう半分で、それと同じくらい強く、彼女が鴉ではないようにと願っていた」

「あんたがあいつを助けたせいで何人も人が死んだってことになるもんな、まあ、実際そうだったわけだけど」

エリオットの言う通りだった。ハルとの再会はロランにとってこれ以上ない喜ばしい出来事だったが、同時に、あの日のロランの行いが巡り巡って六人もの命を奪うことになったということに目を向けなければならなかった。

「あんたはあいつをどうするつもりなんだ」

「どうするというのは」

「俺たちとの約束を忘れたのか?あんたは憲兵として鴉を捕らえたことにして、その報奨で俺たちに報酬を支払う契約だ。あいつを本部に引き渡すつもりはあるのか?」

「ない」

考えるよりも先に、口が勝手に答えていた。意図せず普段の口調よりもずっとはっきりした言い方になって、ロランは内心ひやりとした。しかし、改めて考えてみても、やはりハルを軍へつき出すことなど到底出来るはずがなかった。

「引き渡すつもりはない」

ロランはもう一度、自分とエリオットの両方に言い聞かせるように言った。




「良いのか?あいつは街を震え上がらせた連続殺人犯だぞ。なあ、憲兵さん。私情を挟んでこんな酷い犯罪を見逃すのか?」

エリオットはわざと嫌味っぽく尋ねた。鴉より遥かに多く罪を重ねている身では非難も正論も所詮はただの空洞で、見るからに誠実そうな目の前の男をからかってやるくらいの意図しかなかった。しかしロランは真剣さを塗り重ねるように重々しい表情を浮かべて、

「君の言う通りだ」

と答えた。法廷の被告人席に引っ立てられたような顔をしたこの男は、今自分がどんな人間と向かい合って話しているか分かっていないのではないか。呆れて口の端から笑いがこぼれそうになっているエリオットとは対照的に、ロランは大真面目に言葉を続けた。

「だが、北の人間である彼女がこの国の中で、適切な手続きの下で公平な裁きを受けられるとは到底思えない。どんな酷い扱いを受けるとも分からない。見せしめのようなことをされるかもしれない」

緑の目は焦げた赤い紐をじっと見つめている。

「確かに彼女は犯した罪を償わなければならない。だが、彼女の罪は人を殺したことであって、決して、彼女の目や髪が黒いことではないだろう。被害者がいることを忘れたわけではないし、自分の立場を忘れたわけでもない。私情を挟んで正義や秩序を犯すべきではないと、分かっている。しかし私は、どうしても、もうこれ以上彼女が理不尽に虐げられることのないように守ってやりたい。だから彼女は渡せない」

力を込めて言葉を吐ききると、不意にロランは強張っていた顔をふっと崩して、エリオットを見た。

「許されないだろうか」

きつく寄せられていた眉は一転して傾き、情けないという表現がよく似合う顔だった。許してやると言ってくれ。ロランは言葉の裏面でそう懇願しているのだと確信的に感じた。誰の助けも得ず、自分の行いが正しかったのか間違っていたのかも分からないままたったひとりで秘密を抱えてきた不安や苦悩が、その情けない目元の端にちらりと覗いて見えたような気がした。

「馬鹿か、俺に聞いてどうする」

なんとなく居心地の悪くなったエリオットは乱暴にそう返した。するとロランはしばらくじっと黙った後で、また、

「君の言う通りだ」

と言って、今度は微笑んだ。眉は未だハの字を描いたままで、情けない顔を抜け出せてはいなかった。けれども、穏やかなその笑いかたは険しい表情よりずっと自然で、普段この男はこういう優しい顔をして生きているのだろうと思わせた。

「すまなかったね」

「……まあ俺たちに不都合がないならあんたがあいつをどうしようと構わない。あと金は踏み倒すなよ」

「勿論だ」

 エリオットは足を組み直して、鴉のいる部屋を見遣った。扉は静かに閉まったままで、鴉はまだ出てこない。女は着替えに随分と時間がかかるものだと思った、そのとき、ふと気付いた。

「どうしたんだ?」

じっと扉を見つめるエリオットに、不思議そうにロランが尋ねた。

「……静かすぎないか?」

いつの間にか、鈴の音が止んでいた。


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