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鴉の虹彩  作者: ちがみ
8/13

3-3


 頬にぽつりと水滴が落ちてきて、エリオットは頭上を見上げた。雨だ、と思うのが早いか、奥行きのないのっぺりとした黒い空から次々と雨粒が降り出す。頬や首筋を濡らす滴は目が覚めるような冷たさだった。

 視界が悪くなるのは厄介だったが、鴉を追うには好都合かもしれない。雨に濡れて滑りやすくなった屋根の上を逃げていくことは難しい。逃走のスピードは著しく減じ、いずれ下に降りて来ざるを得なくなるだろう。

 エリオットとロランは再び花屋の近くまで戻り、周囲を歩き回っていた。屋根の上を注視しながら歩いてきたが、鴉の姿は未だ見つからない。下から探すには死角が多く、見逃している可能性もあった。ロジェの姿もまだ見えない。彼らがそう遠くまで行ってしまったとも思えなかったが、手掛かりが無く探しあぐねていた。

 隣を歩くロランは、やや眉を寄せ、じっと前を見つめていた。エリオットの視線にも気付かず、あるいは降り出した雨にも気付いていないのではないかと思えるほど深刻に何かを考え込んでいる。

 鴉は女だった。エリオットがそう告げたときからロランは様子がおかしい。連続殺人の犯人が小柄な女であったことにはエリオットも驚いたが、ロランの反応は驚きと言うよりはむしろ、悪い予感が的中してしまった落胆の方に近いように見えた。

 加えて、先程のロジェの反応も引っ掛っている。冷静な彼にあんな顔をさせたものは一体何なのか。もしかすると、同じ何かがロジェを当惑させ、ロランを悩ませているのではないか。エリオットは隣のロランの顔をじっと睨みながら考えた。見る限りにおいては、平凡で裏表の無さそうな男だった。穏やかで優しそうだが、狡猾さからは縁遠く、度胸や勇ましさもそれほど持ち合わせが無さそうだ。少なくとも、エリオットたちを出し抜いて何かをしでかそうとするような人間には見えなかった。

「なあ」

ロランは気付かない。

「おい!」

肩を掴んだところでやっと、エリオットの方を見た。

「あんた、何か俺に言わなきゃならないことはないか」

目が合うと、あからさまに不安そうな顔をする。沸き上がる疑念の分だけ、エリオットは肩を掴む手の力を強めた。

「鴉が女だって、知ってたのか?もしかして本当は、鴉が誰なのか知っているんじゃないのか」

詰問されたロランがとうとう逃げ出すように目を逸らした、その時、頭上で水が跳ねる音がした。屋根を踏み切る鴉の姿が脳裏を瞬く。エリオットは咄嗟に掴んでいたロランのコートの肩口を強く引いて後ろへ飛び退いた。二人が立っていた場所に黒い影が落ちてくる。地面に溜まった水が四方へ飛び散った。飛び降りてきた鴉の姿を目にとめたエリオットは、はっと息を飲んだ。頭を殴られたような衝撃を受け、一瞬にして、ロジェが青ざめた理由を理解する。黒い髪に黒い目。顔がひきつるのを感じた。とんでもないものに会ってしまった。

 着地から立ち上がるその一歩で鴉はエリオットとの距離を急激に縮め、下から上へダガーを振り抜いた。エリオットは無理矢理動揺に蓋をして、ロランを背中の後ろに庇いながら後方へ大きく下がって刃を避ける。動きに遅れたロランが躓き、後ろ向きに体勢を崩す。鴉は上方へ振り切ったダガーの刃を即座に翻す。エリオットは腰を落として右ポケットから素早くナイフを取り出し、落ちてくる切っ先を畳んだままのハンドルの底で受け止めた。木製の柄が軋み、わずかにヒビが入る。そのまま足を踏み込んで押し返すと、小さな体は軽々とはね飛ばすことが出来た。

 鴉はダガーを握り直してすぐに向かってくる。まるでバネが跳ね返るように機敏に次の動きへ移る。エリオットは乱暴にロランを引っ張り起こし、後ろへ突き飛ばす。

「下がってろ!」

突っ込んでくる刃を避けて手首を掴んだ。鴉はすぐさまダガーを落として左手に渡し、掴んでいる腕を狙う。エリオットはやむなくその手を離した。距離を取ろうと後退するが、鴉はすぐに間合いを詰めて次々と攻めてくる。小さな体がさらに体勢を低くして足元を動き回る。背の高いエリオットにはやりづらい相手だった。とにかくこの距離を脱しなければならない。エリオットはダガーを避けると同時に、踏み込んできた鴉の胸元にすばやく手を伸ばし、襟を掴んで横方向へ思いきり投げた。鴉の体は軽々と宙へ放り出され、地面に叩き付けられる。その衝撃で手を離れたダガーが濡れた地面の上を滑った。鴉はすぐに体を起こしてそれを拾い上げる。立ち上がり様に振り抜かれる刃の軌道を狙って、エリオットは脚を蹴り出す。振り切った右足が鴉の手に当たりダガーを遠くへ弾き飛ばす、はずだった。

「ハル!」

唐突に投げ付けられた声に、鴉が振り返り動きを止めた。そのせいで間合いがずれ、エリオットの蹴りは狙ったはずの右手に当たらない。しまった、と思うときには無防備な側頭部を直撃し、鴉ははね飛ばされた。地面に打ち付けられ、水溜まりの上を転がる。小さな体はぐったりと倒れたまま、今度は起き上がらなかった。頭を打ったせいで意識を失っているのかもしれない。急いで様子を見に近寄ろうとするが、それよりも先に鴉に駆け寄ったのはロランだった。

 そこへ、鴉が降りてきた建物の陰からロジェが駆け込んできた。その場の様子に目のあたりにし、目を見開いて足を止める。混乱から助けを求めるようなエリオットの視線に気付いても、強張った表情で首を横に振るだけだった。

 何がなんだか全く分からない。降りしきる雨の音が思考を邪魔する。

 困惑する二人のことは目に入らない様子で、ロランは鴉を抱き起こす。鴉は手足を放り出し、力無く目を閉じている。遠目にも額が切れて血が流れ出しているのが分かった。ロランが青い顔でそれを拭おうとするが、降りしきる雨のせいで鴉の顔は余計に赤く濡れていく。

「ハル、しっかりしろ、ハル……!」

ロランは狼狽えた様子で血に汚れた頬を撫で、肩を揺らした。それを見た瞬間、エリオットの頭が反射的に警告音を鳴らし、絡まっていた考えが無理矢理に吹き消される。

「おい、動かすな!」

エリオットは慌ててロランに駆け寄り、そばにしゃがんだ。濡れて目元に張り付いた金髪を掻きあげ、鴉の顔を覗き込む。

「じっとしてろ。このままだ、いいな」

鴉を抱きかかえている腕を押さえ付ける。

「あんまり揺らすと死ぬぞ」

表情を強張らせたロランの腕のなかで、鴉が呻き声をあげた。黒い睫毛がゆっくりと持ち上がり、中から夜色の虹彩が覗く。

「ハル」

ロランの呼び掛けに、鴉はふらふらとさ迷わせていた視線を上げた。ロランとエリオットをぼんやりと見つめたと思うと、はっと表情を蘇らせてその場から逃げ出そうとする。ロランから離れようと腕をはねのけて身体を起こしたところで、顔を歪めて頭を押さえた。細い足が踏ん張りきれずに地面を滑り、よろめいてうつ伏せに倒れ込む。雨と混ざった血が鴉の顔を流れては顎の先から次々と垂れていく。ロランは身を乗り出して再び鴉を抱き上げた。なおももがこうとする肩を今度は離さないようにしっかりと抱え、もう一方の手で頬を包んだ。

「ハル」

真正面から目を合わせ、ロランは鴉に呼び掛けた。まるで愛しい娘の名前を呼ぶ父親のように、甘く、柔らかく、優しい声だった。鴉はぴたりと動くのをやめ、丸い二つの目でロランを見た。

「大丈夫。大丈夫だから、もう動かないでくれ」

鴉は困惑した表情で、眉を潜めてじっとロランを見つめていたが、やがてその顔色が変わった。

「……あのときの、お兄、さん」

鴉は茫然とした顔で、すぐ傍にいる二人がやっと拾うことのできるような小さな声をこぼした。ロランは優しく微笑んで頷くと、そのまま鴉を強く抱き締めた。

「あれから随分経ったから、もうお兄さんではなくなってしまったけれどね」

そう笑って言った声は、涙声だった。鴉は戸惑いを見せつつも、大人しくロランの腕の中に収まった。

「良かった。君が生きていてくれて本当に、本当に良かった」

きつく目を閉じて鴉を抱き締めるロランの頬が濡らしているのは、雨だけではなさそうだった。

 事情を説明しろと怒鳴りつけてやろうかとも考えたが、その顔を見て一瞬で気が冷め、エリオットは何も言えなくなってしまった。ずぶ濡れの二人の姿に理由の分からない痛々しさが感じられて、目を離せなくなる。

 雨は一向に止む気配を見せず四人に降り注ぐ。ロランが黙ってしまうと、その場に聞こえるのは雨の音だけになった。

 しばらくしてエリオットが振り返ると、ロジェは少し離れた場所に立ったまま、どこか苦しげな表情でロランの背中をじっと見つめていた。




 鴉を抱きかかえたロランを連れ、エリオットとロジェは二人の家へ戻ってきた。

「ここで待ってろ。タオル持ってきてやるからびしょびしょのまま家ん中入るなよ、分かったか。あんたら二人ともこの雨の中思いっきり転んでるんだからな」

ロランたちを玄関先で待たせると、エリオットは濡れた厚手のコートとその中に着ていたウエストコートを脱いで家の中に入る。開けたままの扉から風が吹き抜けて、ワイシャツごと体が凍りつきそうだった。ポニーテールの先から零れた水滴が首筋に落ち、ぞわりと鳥肌が立った。外にいる間は気が張っていたためあまり気にならなかったが、足の先まで凍ったように冷えていた。冬の夜中に全身ずぶ濡れで外を歩き回れば当然の結果だ。

「うー、畜生、寒い」

後ろから入ったロジェが手を出し、濡れた服を引き取る。礼を言おうとして振り返ったとき、ロジェが青い顔をしているのが見えて、エリオットはその手を掴んだ。掴んだ手はエリオットの手よりも更に冷たかった。

「ねえ大丈夫?」

ロジェは苦い表情で目を伏せた。オリーブブラウンの前髪の先からしずくが垂れる。薄い唇を引き結んで、やや眉間にしわを寄せている。顔色が悪いのは寒さのせいだけではないのかもしれない。

 エリオットはロランの待つ方を一瞥する。ロランは抱えていた鴉を下ろし、屈んで何かを話しかけている様子だった。

「ポンコツ野郎のくせに、とんだ面倒事を持ち込みやがって」

ロランには聞こえない大きさで悪態をついた。ロジェは相変わらず固い表情のままで何も言わなかった。

「……あとは、俺に任せて大丈夫だからさ」

エリオットは掴んでいた手を離し、わざとらしく明るい顔と声を作って言った。しかしロジェはさらに顔を俯かせ、申し訳なさそうにきつく目を閉じた。

「……すまない」

「分かってる。大丈夫だってば」

励ますように肩を叩くと、ロジェはまた小さな声ですまない、と呟いた。

 ロジェが自分の部屋へ入るのを見送り、ドアが閉まる音がした瞬間に肺が詰まるような感覚を覚えた。それを追いかけるように胃がきりきりと痛みだす。何故こうも続けて過去を掘り返すような人間が現れるのだろうか。目を閉じると、仄暗い部屋の中で、何日も眠らずにただじっと、握り合わせた手の上に視線を落として朝を待つ横顔がありありと浮かんだ。もう六年も前のことなのに、部屋の寒さや、静けさや、彼の疲れた顔、気の狂いそうな夜の長さを鮮明に思い出すことが出来る。ロジェが柄にもなく酷く弱った目をして、夕暮れの風に吹き消されそうな声でただいまとエリオットに言った、あの瞬間から、エリオットは出来るだけ彼が後ろを振り返らずに済むようにと願い続けてきた。しかし、今、その願いは脆くも破れていこうとしている。漠然とした不安が腹の底で頭をもたげる。

 また風が通り抜け、体が震えた。振り返ると、鴉を気に掛けるロランの背中が見えた。通りでの様子を思い出す。鴉をきつく抱き締めたロランの顔には、安堵だけではない、それよりもずっと深い色の、後悔と苦しみと懊悩が窺われた。思い返せばそれは、あの日ただいまと言った彼の顔にも似ていたような気がして、ほんの少しだけ息が通るようになった。

 エリオットは自室へ戻り、洋服棚からバスタオルとセーター、ズボンを二枚ずつ引っ張り出す。てきぱきと体を拭いてからそのうちの一方に着替え、残ったもう一方を手に抱えた。ロランにはいささか大きいかもしれないが、あのずぶ濡れの服を着たままでいるよりは余程ましだろう。棚の扉を閉めると、その上に置いてある紙袋に目がとまった。やや埃を被っているそれを降ろして中を確認し、一緒に抱えて部屋を出た。

「迷惑を掛けて本当に申し訳ない」

エリオットが玄関に戻ると、ずぶ濡れのロランが深々と頭を下げた。鴉はその背中の後ろに隠れるように立っている。ロランの首や頬には鴉を抱き締めたときに移った血がべったりとついていた。

「雨と血をこれで拭け。後ろのそいつもだ。そしたら中入ってこっちに着替えろ。サイズは合わないだろうけど文句言うなよ」

「彼女も家に上がっていいのか」

「外で待たしておく訳にもいかないだろうが」

乱暴なエリオットの口調にも、ロランはほっと息を吐いて安堵の表情を浮かべた。エリオットたちが鴉をどう扱うのか、余程心配していたようだった。

「分かったら早くしろ。事情はきっちり話してもらうからせいぜい今のうちに上手い言い訳を考えておけよ」


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