3-1
コナンを見送った後、アルローは急いで大通りまで駆け戻った。息を切らして元の場所に到着すると、道の脇のベンチにはまだロランが座っていた。傾き始めた太陽が黒い影を引き伸ばしている。歩み寄るうちに少しずつ近くなるロランの横顔は、深刻に何かを考えているように見える。顔色は幾分良くなったようだが、その様子からは、やはりアルローと会う前に何かがあったのではないかと思われてならなかった。
「ロラン中佐」
アルローの呼び掛けに、ロランははっと顔を上げた。アルローが傍まで来たことにも気づかないほど、深く何かを考え込んでいたようだった。
「お加減はどうですか」
少し屈んで尋ねると、ロランはすぐに表情を緩め、にっこりと笑って大丈夫だと答えた。
「ありがとう、大尉。すぐに行くと言ったのに結局君に任せきりにしてしまったね。すまなかった」
「このくらい何てことはありません。詳しい書類を受け取って、話も聞いてきましたので、後程ご報告します」
「分かった。ありがとう」
ロランは立ち上がり、腰の埃を両手で払った。
「では、塔に戻ろうか」
「ま、待ってください」
アルローはロランとの距離を一歩詰めた。
「あの……中佐、本当に大丈夫なのですか。先程、私と会う前に何かあったのでは」
不安そうに覗き込んだアルローの視線をするりとかわして、ロランは一歩アルローから離れた。
「大丈夫だ、何もない」
普段と変わらない優しい口調だったが、何も話すつもりはない、と扉を閉ざされたような気がした。途端に、もやもやとした根拠のない不安が胸の底から沸き上がる。ロランが真っ青な顔で通りに崩れ落ちた瞬間を思い返して、息がつまる思いがした。何もないなんて、きっと嘘だ。
「そう、ですか」
行き場を無くした視線を落とした。ロランは言わないのではなく、言えないのかもしれない。そう思うと、胸がちくちくと痛い。歩き出したロランの背中を見る。あの背に付いていくのが精一杯の自分では頼りないのかもしれない。次々生まれてくる後ろ向きな考えを振り払おうと、アルローは大股で足を踏み出す。
「そういえば、随分君に時間を取らせてしまったが、塔は大丈夫だったのか」
聖塔に着く少し前、ロランが思い出したように言った。
「はい、リシャール准尉に任せてあります」
「そうか、……困ったな」
アルローの答えに、ロランが苦笑いを浮かべる。
「塔に戻ってはじめに私がしなければならないことは、まず間違いなく彼のお説教を聞くことだ」
「中佐が、准尉に叱られることがあるのですか?」
「たくさんあるよ」
ロランは近付いてくる塔を見上げて笑った。
「彼とは付き合いが長いんだ。近衛隊は六年前に私の隊にいた者が多いが、彼はそれよりももっとずっと前から私といるから」
アルローはリシャールの顔を思い浮かべて苦い顔をした。頭の中の彼はいくらも経たぬうちに、早く帰ってこいと言ったじゃないか、これだから貴方は、と冷たい声で説教を始める。急いで首を振り、頭の中から出ていってもらった。叱られるのは本物だけで十分だ。
「彼は君にも色々厳しいことを言っているんだろう」
ロランが塔の方へ視線を遣ったまま言った。頭の中を見透かされたような気がして答えに窮すると、ロランはアルローの困惑を察したようで、返事を待たずにまた口を開いた。
「だが許してやってくれ、大尉。彼はしばしばきつい言い方をするが、それは君を嫌いだからでも、君の能力が欠けているからでもないんだ」
思わず足を止めたアルローを振り返って、ロランもすぐに立ち止まる。そして一歩アルローの方へ近付いて、顔を覗くように首をかしげ、微笑んだ。
「ときどき君は、そうやって、とても自信の無さそうな顔をするね」
眉尻を下げ目を細めたその表情は、まるで子供をあやす大人のように見える。アルローは何も答えることが出来なかった。顔がひきつってしまっているのが自分でも分かった。
「大丈夫だ。君はとてもよくやっているよ。周りは君より長く軍に居て、君と十も二十も年の離れた人たちばかりだから、きっと気後れしてしまうこともあるだろうけれど、でも、彼らの先頭に立って歩くのに君では不足だなんてことは少しもない」
じわりと目の奥が痛んできて、アルローは思わず顔を伏せた。ロランには自分の不安や恐れが何でも分かってしまうのだろうか。
「不安がる必要はないよ。リシャール准尉も近衛隊の皆も、口には出さなくたって、君のことを頼りにしているんだ。勿論、私もね。だから大丈夫」
ロランは励ますようにアルローの肩を優しく叩いた。それからまた、塔を見上げて言った。
「パレードの準備も大詰めだな」
どこからか微かにトランペットの音が聞こえてくる。近くで音楽隊が練習しているのかもしれない。
「……はい」
声が震えそうになるのを必死でこらえた。
「本番は君が、私たちを率いて一番前を歩くのだから、胸を張って、自信を持つんだよ」
アルローには、帽子を深く被って、何度も頷くことしか出来なかった。
事件がさらに動いたのは三日後のことだった。それはちょうどロジェたちと会う約束の日で、そわそわと落ち着かない気分でいたロランは路面に転がる遺体によって無理矢理に現実へ引き戻された。現場では憲兵たちが手早く検証と通行整理を進めている。空はどんよりとした曇り空で、いつ雨が降り出してしまうか分からない。そうなる前に作業を終わらせてしまおうと、その場にいる者は皆、焦りの色を滲ませていた。
その中で、ロランはふと、アルローが遺体の傍に立ち尽くすのを見た。忙しなく動き回る憲兵たちとは対照的に、彼はただ茫然と血まみれの遺体に目を落としている。帽子の影になっているその顔は、白く青ざめていた。ロランは周囲の憲兵たちに礼を返し、足早にアルローに歩み寄る。
「大尉、どうしたんだ、大尉」
ロランの呼び声にやっと反応したアルローは、急いで軍帽をかぶり直して丁寧に頭を下げた。
「何かあったのか、青い顔をして」
ロランが尋ねると、アルローは帽子のつばに手を掛けて苦い顔をした。その視線は再び地面の遺体に注がれる。身に付けている服装から、遺体は女だということが見てとれた。薄汚れたブルーグレーの服の布には赤黒い染みが出来ている。手足のシワや体つきから、中年の女であるように見えた。両目のあった位置にはぽっかりと黒い穴が口を開いている。その不気味な様相は、女が鴉に殺されたものであることを表していた。首筋には致命傷と思われる一筋の深い切り傷があり、その反対側には大きな火傷の痕があった。
「知り合いかね?」
アルローは答えずに眉間に皺を寄せた。
「大尉、どうしたんだ」
青い顔で黙り込むアルローの肩を両手で掴み、ロランはアルローと向かい合った。
「アルロー大尉」
軍帽の黒いつばの下から、細い目がおずおずとロランを見る。目尻の長い睫毛が不安げに揺れた。
「……会ったのです、三日前、この女に」
小さな声で言った。
「……私の、知り合いがやっている、小さな花屋で会いました。そこからこの女が出てきて……。火傷の痕が印象的で、よく覚えていますから間違いないと思います」
それからアルローは意を決したようにきつく目を閉じ、開いた。
「それだけではありません。この前の被害者の男、写真を見せてもらったとき、見覚えがあるような気がしてならなかったのです。このことはレイトン先生にも話してあります。今この時まで、何故見覚えがあるのか思い出せずにいました。けれどこの女を見て、はっきり分かりました。あの男ともその花屋で会っているのです。彼が死ぬその数日前に」
一息にそう言いきったアルローの声は、不安と疑念を塗り込めたような声だった。
「偶然かもしれませんが、そうではないかもしれない」
「つまり君は、その花屋を訪れた人間が標的になっているのではないかと」
アルローは目を伏せて頷いた。
「彼女に、……その花屋に、殺しができるとは思いません。殺しに関わるようなことをするひとだとも、思いません。ですが……」
アルローは掌を強く握って、口を結ぶ。ロランはその様子をじっと見つめ、暫く考えた後、何度か頷いた。
「……わかった。ひとまず、今からその花屋を調べよう。何か分かることもあるかもしれない」
アルローは酷くショックを受けているようで、青ざめたまま、頷くのがやっとの様子だった。
「それで?」
エリオットが左耳のピアスをいじりながらロランを見た。
その夜、ロランはエリオット、ロジェの二人と、サン・ソレイユ塔の傍にある広場で話していた。
仕事を終えたロランが三日前の約束の場所に到着すると、二人は揃ってどこからともなくふらりと現れた。三日前の出来事はロランの頭の中でもはやすっかりと現実感を失っていて、二人が目の前に現れたときにはまるで夢の続きを見せられているような気分がした。
広場に人の姿は無く、暗闇と静寂に包まれている。未だ雨は降っていなかったものの、空は相変わらず曇に覆われていた。月が見えないせいで辺りは余計に暗く感じるが、広場を囲むように立っている幾つかの灯りのお陰で、ベンチに掛けているお互いの姿はよく見えた。日が落ちた後は一層気温が下がり、吐き出す息が白く浮かんではすぐに消えていくのが目に見える。コートを着込んで来て正解だった、とロランは冷えた指を擦り合わせながら思った。
「行ったらどうだった?血の付いたナイフでもしまってあった?」
「いいや、何もなかった。本当に、何も」
「はあ?」
エリオットが呆れた声をあげた。ロランは苦い顔をして、目線をそらす。エリオットは馬鹿にしたような目でロランをじろじろと見て、じゃあ見当違いだったんじゃないの、と口の端で笑った。ロランは気まずくなり、行き場のない視線を足元に伸びる影に落とす。外灯に照らされた地面に三人分の黒い影がくっきりと張り付いている。ロランの影は、二人に比べて頼り無さそうに見えた。
「被害者の多くは麻薬中毒者だったんだろう。薬の取引に一枚噛んでいるということは無いのかい」
ロランが黙っていると、エリオットに続いてロジェが静かに口を開いた。
「……その線も考えたが、駄目だった。私と部下で調べた限りあの店には麻薬の類いは一切見当たらなかった」
「では店主に怪しいところはなかったかい。もしその店を訪れた人たちが殺されることになっているのなら、店主は他の被害者にも見覚えがあるのではないかい」
「残念ながら、それは確認できない。あの店は若い女性が一人きりでやっているのだが、彼女は生まれつきの病で酷く目が悪いらしい。これまでに来た客の顔も分からないそうだ」
「目が見えないのに一人で店をやってるの?」
エリオットが眉をひそめ、口を挟む。
「路地裏の、ほとんど人通りもないような場所にあるから客も少ないそうだ。なんとか一人でやっていると言っていた」
「ふーん、なんか変な感じがするけど」
ロランは顎を撫でた。弱視の若い女が一人きりで花屋を営んでいることには、ロランも違和感を感じていた。
「本当に何にも怪しいところはなかった?あんたが見落としただけってことはないの?」
店主のロザリーは大人しそうな人物だった。その言動に不審な点は無く、店先にも家の中にも凶器や麻薬はおろか、事件と関わりのありそうな物は何一つ発見されなかった。
「その家には本当にその女しかいなかったのかい」
ロランは首をかしげ、ロジェに目を移す。
「彼女は独り暮らしだと言っていたが……」
「家に入ったんだろう。そのときに、誰かと暮らしているような形跡や、誰かが隠れているような気配を感じたりすることはなかったかい」
「け、気配か……」
ロランは眉をひそめて唸った。ロザリーの家の中を確認したときのことを思い返す。人がもう一人暮らしているような形跡はなかったはずだった。一人で暮らすには広すぎるようにも感じられたが、他の誰かが暮らすことができるほどには家具や食器は多くなく、またそれほど生活に余裕があるようにも見えなかった。
「見た限り一人で暮らしていたはずだが……私には……その、気配というのはよく、分からなかった」
「だろうね、鈍そうだもん」
エリオットが鼻で笑った。ロジェはロランから聞いた話を反芻するようにゆっくりと何度か頷いてから、分かった、と静かに言った。
「もう一度その花屋に行ってみるのが良いと思うのだけど、貴方はどう?」
緑の目がわずかにロランの方を向いた。不意に意見を求められてうろたえたロランが曖昧な返事をすると、ロジェは再びするりと視線をどこかへやってしまった。
「目撃者無し、共通の麻薬入手経路も不明、殺害の確たる法則性も動機も不明。次いつどこで起こるかが分からない以上、先回りは出来ない。なら、ひとまず痕跡を追っていくしかない。目の見えない女が一人でやっていけるような客足の乏しい店を被害者が二人も訪れたことは、疑う根拠としては確かに妥当だと思うよ」
アルローの怯えた顔がロランの頭をよぎった。花屋を調べに行ったときの様子から、アルローはロザリーに少なからず好意を抱いているようだった。そしてロザリーもまた、アルローを慕っている様子だった。思いを寄せる女性の連続猟奇殺人への関与を疑わなければならなかったその不安を思うと、いたたまれない気持ちになる。
「ただ、仮にその花屋を訪れただけで殺されるのなら貴方の部下はとっくに死んでいるだろう。けれどそうではない。その人は何度通っても殺されない。ということは、鴉の標的となるには、やはり、訪れて花を買うことではない、何らかの特別なアクションを起こす必要があるはずだ」
「……例えば」
「例えば、そうだね、薬を売ってくれと持ち掛けるとか」
「だがさっき話したように、あの店には確かに薬物の類いは何もなかった」
「どこか別の所に保管しているかもしれないし、売り主は別にいて、仲介で儲けているかもしれない。やり方なんていくらだってあるよ」
ロジェの話し方には説得力があった。ロランは次に用意していた言葉を一瞬喉につまらせる。花屋を調べたときにロジェの言うような可能性に思い当たらなかったことを後悔した。
「……だが、なぜ殺す必要がある?顧客が死んでしまったら金蔓を失うことになる」
「そうだね、その通りだ。僕にもそれは分からない。それに、そもそも今の話は花屋が関わっていると仮定しての推測だ。仮定から間違っていることだって大いにあり得る」
ロジェは視線を伏せて首を振った。冬の風になびいたオリーブブラウンの髪の間から、金色のピアスが揺れて光ったのが見えた。
「分からないことは沢山あるんだ、まだ手がかりが少なすぎる。とりわけ、一番知りたい鴉についての情報が足りない。いまここでどんなにもっともらしい理屈を組み立てようと、全ては僕らと貴方の憶測に過ぎない」
ロランは再び視線を落として、ロジェの言葉をゆっくりと飲み込んだ。外灯の光を反射した革靴の表面は、夜の闇の黒を飲み込んで滑らかな艶を湛えていた。
ロランは未だ、二人に鈴の音の話をしていなかった。そして当然に、鈴の音から推測した鴉の正体についてもまた、話をしてはいなかった。事件現場に居合わせた女性が聞いたという複数の鈴の音には心当たりがある。話してしまうべきだと心のどこかが囁き、黙っておくべきだと頭のどこかが忠告する。
「全てはまだ憶測だ」
ロジェはもう一度繰り返した。その通りだ、とロランは口を結ぶ。これは憶測と呼ぶのさえ憚られるような、根拠に乏しい直感的な考えだ。まだ話さなくていい。あの子のためにも、ぎりぎりまで黙っておくべきだ。
「だから、その花屋にもう一度行ってみるのが良い。今度は僕らがついていく」
ロジェが立ち上がる。見下ろされた緑の目と視線がぶつかった。今度視線を逸らしたのは、ロランの方だった。