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鴉の虹彩  作者: ちがみ
5/13

2-3

 ロランは美しい紙に、丁寧に言葉を並べていく。その様をロジェとエリオットがじっと見つめているのを感じた。

 ロランが契約書を書き終えると、ロジェがそれを引き取って確認した。緑の視線がすらすらと紙面を流れていく。

「上出来だよ」

そう言ってロジェは万年筆を手に取ると、ロランのサインのすぐ下に名前を綴った。そして胸のポケットから折り畳み式の小振りなナイフを取り出し、指の先を軽く切って血判を押す。何の迷いもなく慣れた手つきで行われたその動作をロランは呆然と見ていた。

「なにびびってんの。血判で腰が引けた?」

エリオットが後ろから馬鹿にしたような声を出した。

「い、いや……」

「これくらいどこもやるよ」

エリオットはテーブルの傍へやって来てロジェから契約書を受け取り、滑らかに目を通してからサインをし、血判を押した。エリオットの名はロジェの名の下に綴られた。ロジェはフルネームでサインした一方で、エリオットは簡潔にファーストネームだけを書いた。

「これで契約は成立だ。僕らは出来る限り貴方の要求に答え、貴方は沈黙を約束する」

ロジェは血判を押したのとは反対の手を差し出した。

「よろしく、パトリック・ロラン中佐」

ロランは椅子から立ち上がり、その手を取って握手を交わした。ロジェの手は細く滑らかだった。明るいオリーブブラウンの前髪がかかった美しい緑色の目にはロランの顔が映っていた。

「……よろしく」

ロランが視線を移すと、エリオットはぶっきらぼうに手を差し出した。エリオットはすらりとした長身で、三人のなかでは最も背が高い。ロランはわずかに見上げるかたちでその目を見て、手を握った。

「命拾いした上に人探しの手伝いまで見つかって良かったじゃないか」

エリオットは嫌味っぽく言った。青い目の一方は拒絶を、一方は侮蔑を浮かべている。お前を受け入れるわけではない、とその両目が伝えている。ロランは苦い顔でそっと手をほどいた。

「では三日後の夜、塔の下の広場でまた会おう」

「分かった」

「エリ、中佐を通りまで送ってくれるかい」

「…………分かった」

エリオットはロランをじっとりと睨み付けたあと、頷いてコートを羽織った。早足で出ていく背中に遅れないように、ロランは小走りで小さな家を飛び出した。




「中佐!ロラン中佐!」

気が付くと、アルローが青い顔でロランの腕を揺すっていた。

「……ああ、大尉。どうしたんだ」

「それは私の台詞です!一体どうなさったんですか、このようなところで……!」

そう言われて周囲を見回し、ロランはやっと自分が大通りの真ん中に立っていたことに気付いた。多くの人々が行き交い、足音が不規則に響いている。冬の太陽はとうに天球の正中を通り過ぎていた。

「本部から中佐がまだ到着しないと連絡を受けて街中探し回ったのですよ。途中、塔の近くで発砲があったという話も聞いて、本当に心配で心配で、やっと見つけたと思ったら大通りの真ん中にぼんやり立ち尽くしていらっしゃって……」

アルローは胸に手を当てて大きく息を吐いた。街中を走り回ったせいか、あるいは行方知れずの上官をひどく心配したせいか、軍服からわずかに覗く首筋に汗が滲んでいるのが見えた。

 ロランは、エリオットと別れてから自分がどれくらいの間この場所で立ち止まっていたのか思い出せなかった。緊張から解放され、頭の奥が炭酸水に浸かったように痺れていた。アルローの顔を見ていると、エリオットやロジェと交わした会話が急速に現実感を失っていく。つい先刻彼らと会っていたことがまるで遠い過去の出来事のように思われ、ロランは目をきつく閉じて眉間に手をあてた。

「中佐、大丈夫ですか?なにがあったのですか?」

アルローの声が頭の中で跳ね返り、エコーがかかって聞こえる。それはやがてゆっくりと頭痛を呼び起こし、次第に強いめまいに変わった。ぐらぐらと周りの景色が揺れだす。列車に酔ったときのような吐き気がした。前後の感覚が分からなくなって思わずその場に座り込んだ。

「中佐、中佐!」

肩を支えるアルローの声が、近づいたり遠ざかったりするように聞こえる。目を開けていられずに右手で目元を覆う。

「……大丈夫だ」

声を出すと、喉がひどく乾いていることに気が付いた。

「どうなさったのですか、具合が悪いのですか?車を呼びましょうか、それとも、病院へ」

すぐそばでアルローがうろたえている。ロランは肩に添えられたアルローの手を軽く叩いた。アルローが落ち着くよう、なんとか目を開けて笑って見せる。

「大丈夫、大丈夫だよ大尉。少しめまいがしただけだ」

「しかし……!」

「君は、塔に戻らなくて大丈夫か?」

アルローは一瞬答えに詰まったが、すぐに何度も頷いた。

「そうか、……なら、すまないが、先に本部の担当官のところへ行ってくれないか。ずいぶん待たせてしまっているから」

「そんな、中佐を置いては行けません」

「私も少し休んですぐに行く。……頼むよ、大尉」

しばらく苦い顔で戸惑いを見せたものの、アルローは頷いて立ち上がった。それからロランを近くのベンチに座らせたあと、本部の方へ駆けていった。




 ロランを送り届けて帰ったエリオットは、コートを脱ぎ、冷えた手を擦り合わせて息を吹き掛けた。指先がわずかに赤くなっている。モスグリーンのソファに掛けていたロジェは立ち上がって、小さなキッチンへ向かった。

「寒かっただろう、コーヒー淹れるよ」

「うん」

ロジェは棚からカップを二つ取り出した。陶器が触れあう音が、狭い家のなかに微かに響く。エリオットはコートを木の椅子の背に掛けて、ソファに腰かけた。

「さっきね、電話があったんだ」

少し間を置いて、キッチンから、からかうような声が飛んでくる。

「君の大嫌いな彼から」

「げっ」

顔をしかめたところを、振り返ったロジェに見られて笑われた。思い浮かんできた"彼"のすました顔を振り払おうと、エリオットはぷるぷると頭を振った。"彼"とは数年前から付き合いがある。時々ロジェとエリオットに仕事や情報を与えてくれる男で、エリオットは認めたがらないが、いわば三人目の仲間のような存在だった。ロジェは"彼"と親しくしていたが、エリオットは会うたび喧嘩ばかりしている。外面は良く、とりわけ女性には紳士的な態度をとるため"彼"を好意的に捉える者は多いが、それは"彼"の表層の、それも一部分しか知らないためであるとエリオットは常々憤慨していた。彼らが見せられているのは、"彼"のなかの最も丁寧に取り繕われた部分だ。エリオットやロジェの前になると、別の一面が覗き見える。人をバカにしたような目つき、賢さをひけらかすような口調、熱を感じられない笑いかた。しかしこれもまた、"彼"の表層の他の部分に過ぎないのだとエリオットは確信していた。"彼"の嫌いなところをあげればきりがなかったが、エリオットが最も嫌厭しているのはその狡さだった。するりと他人の懐に潜り込むくせに、自分の内側は誰にも見せようとはしない。まるで透明な殻をかぶっているようで、誰も"彼"には触れられない。そして、触れられないのだということすら、分からないように上手く誤魔化され、周囲は"彼"と親しくしているのだと錯覚させられるのだ。

「あいつ、何て言ってた?」

「今晩の列車で一度帰ると言っていたよ」

「帰るって、どこへ?まさかアンカーランド?」

「そう」

「はあ?何それ、何で突然そんなこと」

「急用だって」

「用事の内容は?」

「言っていなかった」

ほらまただ、とエリオットはため息をついた。何を考えているのかが分からない。分かろうとしても、"彼"はその態度で、"彼"とエリオットたちの間の隔たりを明確に突き付けてくる。

「僕のほうも、詳しく聞こうとしなかったから」

「それが良いよ。答えたところでどこまで本当かなんて分からないし」

エリオットは背もたれに体を預け、脚を組んだ。

「でも、何でこんな時間に電話があったんだろう。仕事中じゃないの?」

「仕事で会う約束をしている人がなかなか来なくて暇だったから電話したって」

「へえ、待ち合わせの相手は到着したらボロクソになじられそうだ」

「君以外に彼から暴言を吐かれる人なんてそういないと思うけど」

「…………知ってるよ」

しばらくして、ロジェが二人分のコーヒーをテーブルに並べた。エリオットはソファから立ち上がって木の椅子に移る。二枚の紙と万年筆を手に取りテーブルの端に寄せた。上質な紙に並べられた形の良い文字の列を目で追うと、先程の会話が思い出される。随分綺麗な字を書くものだ、とエリオットはそのブルーブラックのインクの上をそっと指先でなぞった。インクは既に乾いていて、文字は滲んだり掠れたりしなかった。

「……ねえ、ロジェ」

「なんだい」

「あの人のこと、よく知ってるの?」

カップの持ち手に触れる寸前で、ロジェの指が止まった。

「……あの人って?」

「さっきの憲兵」

「君が知っているのと同じくらいさ」

「嘘」

エリオットがすかさず言葉を被せると、ロジェは少しだけ笑って、視線を伏せてコーヒーに口をつけた。エリオットが知っているのは、せいぜいその名前くらいで、平凡そうなあの男がこの国で英雄扱いされるきっかけとなった六年前の出来事のことはほとんど知らなかった。

「会ったことは?」

「……あると言えばあるよ」

「なに、その曖昧な答え」

「あの人と僕では色んなものが違ったから。僕はあの人を知っているけれど、あの人は僕を知らない。それに僕だって、"よく"知っている訳じゃない」

コーヒーカップを両手で包むと、冷えていた指先がじわりと溶けた。

「俺、びっくりしたよ。貴方が進んで話をまとめようとするなんて珍しいから」

「そうかな」

「そうだよ」

それからロジェはしばらく黙り込んでしまった。エリオットが口をつけないままでいたコーヒーがすっかり熱を失った頃に、ロジェが視線を伏せたままでぼそりと呟いた。

「ねえ、エリ」

口からこぼれ落ちて、コーヒーの中に溶けてしまいそうな声だった。

「なに」

「あの人に僕の昔話はしないで」 

そう言って曖昧な表情を浮かべたロジェに、エリオットはそれ以上何も聞けず、小さな声で分かった、と答えた。




 本部の建物内に入るとすぐ、アルローは向かいから歩いてくる男の姿を見つけて軍帽を取った。その男もアルローを見て、軽く会釈をする。

「レイトン先生!」

コナン·レイトンは、白衣の下に白いワイシャツとネイビーブルーのスラックスを身に付けていた。身長はそれほど高くなく、色白で、色味の薄い金の髪は遠目にもはっきりと目立つ。

「こんにちは、アルロー大尉」

コナンが穏やかな笑顔で言った。丸眼鏡の奥の目は、冬の朝の空のような薄い青色をしている。

「お待たせしてすみませんでした、先生」

アルローはもう一度深々と頭を下げ、ロランの代わりにやって来た事情を説明した。コナンは何度も頷きながら話を聞き、アルローを廊下の奥の部屋へ招き入れた。

「大尉が来てくださって助かりました。実はこのあと急用ができてしまいまして、すぐにでもここを出なければならないところだったのです」

小さな部屋の中には、本棚と机と椅子、そして大きなトランクがあった。

「遠くへ行かれるのですか?」

「ええ、少しだけ。でもすぐに戻ります。鴉騒動に関わっているのですから、あまり長い間留守にするわけにもいきません」

部屋の中を見回すと、本や書類は丁寧に整頓されていて清潔な印象を与える。彼らしい部屋だ、と思った。

 アルローがコナンと会うのはこれが初めてではなかった。連続殺人事件の担当検視官として、一年前からコナンはアルローたちの捜査に関わってきた。コナンは常に協力的で、まだ若く経験の浅いアルローにも丁寧な態度で接する紳士的な男だった。アルローよりいくらか年上だが、本部に勤める他の者たちの中では若く、アルローとの年齢差は少ない方だ。アルローはコナンに対して好感とささやかな親しみを抱き、信頼を寄せていた。

 コナンは机から数枚の書類を取りだし、アルローに渡した。そこには昨日遺体で発見された男の顔写真と、身元や死因に関する情報が集められていた。写真の中の男は、昨日は真っ黒な空洞だった位置に正しく両目を備えている。

「死因は頸部の切創による失血死、両眼球は死後損壊されたものです。両腕に防御創があります。犯人と争ったと見て間違いないでしょう」

コナンの話を聞きながら、アルローは記憶の奥に何かが支えるような気分を覚えた。眉をひそめ、左手の指で顎を撫でる。写真の中からこちらを見る男の顔は、どこかで会った顔であるように思えてならなかった。

「どうかされましたか、大尉」

アルローはコナンに書類にじっくりと目を通しながら唸った。

「名前にも身辺の情報にも心当たりは全く無いのですが、ただ、何故だか、どこかで会ったことがあるような気がして……」

「どこで会ったか、思い出せませんか」

写真を見つめて記憶を手繰っても、いつ、どこで会ったのかわからなかった。資料を見る限り男の過去に犯歴は無い。憲兵として彼と会ったわけでは無いのかもしれない。しかし町を歩いているときにすれ違った程度なら、その顔を記憶しているとは思えない。

 それから二人はしばらく事件について話し合ったが、アルローが被害者の男について思い出すことはないままコナンが本部を発つ時間が来た。

 アルローは大きなトランクを代わりに抱え、コナンを門まで送った。

「今日はありがとうございました、本当に助かりました」

「とんでもありません」

「私がいない間は臨時の検視官と解剖医を呼んでありますから、ご迷惑をお掛けしますが、その者たちに指示してください。それから、先程の男のことですが」

「見覚えがある、という話ですか?」

「ええ、何かの手がかりになるかもしれません。思い出したら、私にもお知らせください。こちらに戻り次第、私の方でも調べを進めます」

「わかりました」

アルローはトランクをコナンに手渡そうとした。そのとき、コナンの指に巻かれた絆創膏が目に留まった。右手の親指と人差し指の先に一枚ずつ貼ってある。

「指、どうなさったのですか」

「ああ、これですか」

コナンは広げた右手の指に目を落とした。

「昨日、ちょっと割れ物を触ってしまいまして、そのときに」

それからまた視線を上げて、アルローの方を見た。その一瞬、コナンが何かを探るような冷たい目をしたように見えた。普段の優しく穏やかな表情からはかけ離れたその視線の鋭さに心臓が跳ね、トランクを落としそうになった。

「すみません、重かったでしょう」

そう言ってアルローからトランクを引き取ったコナンの顔は、いつもの優しい顔だった。気のせいだったのかもしれない、とアルローは思い直して、いいえ、と返事をした。

「こう見えて力持ちなんですよ」

「助かりました。ダメですね、私のようにデスクワークばかりでは」

コナンは恥ずかしそうに目尻を下げて笑った。

「本日はご足労頂きありがとうございました。事件の解決に向け、出来る限りの協力をさせていただきますので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」

「こちらこそ。道中お気をつけください。お帰りをお待ちしています」


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