2-1
「……なーんてね。あはは、びっくりした?」
銃口は引き金を引く寸前で空へ逸らされていた。ロランは強く閉じた目をゆっくりと開く。心臓が痛みを伴いながら大急ぎで鼓動を刻んでいた。強い緊張のせいで、視界の端が歪んで見えた。
「やっぱり憲兵さんを殺すのは聞きたいことを聞いた後にするよ」
背後に立つ男は飄々とした口調で言った。怒鳴ることも凄むこともせず、まるで挨拶をするように何気なく、"殺す"という言葉を口にする。それは男がこの街の裏側の暗い場所で生きる人間であることをロランに確信させた。
「腰の拳銃を捨てて、そこの壁に手をついて」
ロランは男を刺激しないよう、言われた通りに腰から拳銃を抜き、地面に置こうとした。しかし、硬直した指は一度握ったグリップから離れようとしなかった。頭では分かっていても、手が言うことを聞かない。
「手が震えて動かないの?」
男は鼻で笑って、背後から手を伸ばしロランの手から拳銃を剥がす。
「情けないな、あんた憲兵さんだよね?こういうの慣れてないの?」
それからロランの手を壁につかせ、その後ろに立った。男の動作は手慣れていて滑らかだった。
「まず前提として、大声をあげたりしたら駄目だ。いいね?叫んだり、助けを呼ぶような素振りを見せたらすぐ殺す」
男は銃口をロランの後頭部に押し付けて言った。分かった、と声に出そうとしたが、緊張で喉が締まってそれは叶わなかった。ロランがその代わりに何度も頷いたのを確認すると、男は話し始める。
「じゃあ、まず始めにひとつ確認だ。あんたは俺を知っているんだろ?」
はっきりと首を左右に振る。ロランの返答に、男は軽やかだった声色をくるりと翻して苛立ちを見せた。
「正直に。嘘をついても良いことはないよ。憲兵隊は俺らに目をつけてたんだろう」
ロランはかすれた声で否定の返答を繰り返す。ロランが男を見たのはこれが初めてだったし、憲兵隊が捜査している人物の中にこの男は含まれていないはずだった。男にとってはロランの答えが予定外だったのか、訝しげに何度か同じ問答を繰り返したあと、渋々納得して次の問いを投げ掛けた。
「……だったら、俺の後をつけてきた理由は何?」
ロランは男とすれ違う瞬間を思い出しながら、震えそうになる息を整えて口を開く。
「……君の、その靴」
「靴?」
男は革靴の表面に付いた血の痕に気づいたようだった。僅かな間の後、再び声色を変化させてロランに続きを促す。
「他には?まさかこれだけを根拠に俺を追いかけてきた訳じゃないだろ?」
「すれ違うときに、君からは血の臭いがした。だが見たところ君は怪我をしていない。……きっとほかの誰かを傷つけ、あるいは殺して、浴びた血の臭いだ。少なくとも、君がまっとうな世界で生きている人間だとは思えなかった」
「……あはは、随分大雑把な推測だけど、面白いよ、確かにまっとうとは言えないよね。それで?」
「それで、私は、君が鴉ではないかと考えた。だから君を追いかけた」
「ふーん。憲兵さんは鴉を追いかけてるんだ」
背後で、きゅ、と靴のシミを擦る音がした。
「でも残念、大外れだ。俺は鴉じゃない」
男は鴉ではない。その言葉は一方ではロランの予想を裏切り、一方では胸の奥にしまってある小さな予感にわずかな息を吹き込む。男は鴉ではない。これが良い知らせなのか悪い知らせなのか、ロランには分からなかった。
しかし男が鴉ではないと分かっても、問題は何一つ解決しない。ロランがなお危難に捕らえられたたままであることに変わりはなかった。丸腰で頭に銃を突きつけられている。男の人指し指が数センチ動いただけでこの世から消え失せることになる。何とかして、この状況から脱しなければならない。必死で策を練ろうとするが、思考はどこかぼんやりとピントがぼけていた。輪郭の定まらない不安ばかりが膨らんでいく。ロランは目を閉じ、無理矢理に肺の中の息をはき出した。
「鴉ではないなら、君は何者なんだ。私とすれ違う前に一体何をしてきた?」
「その質問に俺が答えると本気で考えているんなら、あんたはどうしようもない馬鹿だ」
男は嘲るように言った。
「次の質問をするよ。あんたは一人で追いかけてきたんだよね?」
「……そうだ」
「なら仲間は助けに来ない、そうだろ?」
男の声の中に、嫌な気配を感じる。男の声は、ロランが必死で押さえ込もうとしている恐怖や怯えを胸の奥から誘い出すような、気味の悪い色に変わっていく。
「次。さっき、俺の顔を見たよね?」
張りつめた空気が胸を圧迫する。息を吸ってみても吐いてみても、肺がうまく動いていないような気がした。
「見てるよね?俺と目があったもんね、あのとき」
男は分かっていることをわざと尋ねて、ロランに逃げ道のないことを突きつけようとしているようだった。男が言葉を切る度、耳鳴りのするような沈黙が場を包む。心臓の音が耳元で聞こえる。鼓動が拍を刻むごとに、焦りは加速していく。助けは来ない。たった一人きりで、この危機を打開しなければならない。
男は黙ったままでいるロランを無視して話し続ける。
「俺の言いたいこと、分かるよね?分かるから手が震えているんだ、そうだろ?」
男は明らかにこの状況を楽しみはじめていた。時おり、喉の奥から微かに笑いを漏らす。
「憲兵隊はどうやらまだ俺たちの尻尾を掴んでいないようだし、あんたが死ねば憲兵隊に俺の顔を知ってるやつは居なくなる。これまで通り、俺たちの仕事は誰にも妨げられる心配はない。あんたもそう思うよね?」
男はロランを殺す理由をもっともらしく話すが、そんなものはただの口実にしか聞こえなかった。男の笑いの裏側には、隠しきれない狂気的な興奮が見え隠れする。ロランを殺すのが楽しみで仕方がない、引き金を引くのを待ちきれない、笑い声はそう言っているように聞こえた。
ロランは壁についた掌を握り締めた。唾を飲み込む音が耳の奥に響く。
「せっかく勇気を出してひとりで追いかけてきたのにね。人違いだった上に死ななくちゃならないんだから、本っ当に可哀想!」
とうとう男は吹き出して、笑い声をあげた。
「ねえ、何で黙っちゃったの?死ぬのがそんなに怖い?」
首筋のすぐ後ろで聞こえるその声は、ネジの外れた悪意に満ちている。
「そうだよね、怖いよね。誰だって死ぬのは初めてだもんね。初めてのことって、怖いよね」
そう言った後、男は突然ロランの両肩を掴んで無理矢理に自らの方へ向きなおらせた。薄汚れた壁に埋め尽くされていた視界に、唐突に男の顔が映る。キャスケットのつばの下、金色のまつげの奥、冬の空と同じ色をした目が不気味に笑っている。よろめくロランの肩を左手で乱暴に押さえ、男は額に銃口を押し付けた。冷たい金属に押さえ付けられた頭が壁にぶつかった衝撃も、強い力で肩を掴まれている痛みも、緊張で痺れた体ではほとんど感じ取れない。乱れた呼吸が耳の奥でこもった音を立てる。
「塔の上の聖女さまにお祈りする時間はどれくらい必要?」
男が笑みを深め、金色のまつげがきらりと光った、そのときだった。
不意に、二人きりだった路地裏に誰かが慌ただしく駆け込んでくる音がした。
「エリオット!」
その足音と呼び掛けに反応して男が後ろを振り返る。考えるよりも先に、ロランは拳銃を握る男の右手に向かって手を伸ばしていた。銃を奪い返すことができれば、ほんのわずかであっても形勢を立て直せるはずだった。一瞬とは言え、男の注意がロランから逸れたことは明白だった。今しかない。窮地を脱するためにはこの機を逃すわけにはいかない。銃身に指が触れる寸前、視界の端に、華奢な飾りの付いた金色のピアスが揺れるのが映った。次の瞬間、ロランが伸ばした手はすばやくはね除けられ、そのまま男の左手に掴まれた。息を飲む間に男が身を翻す。ロランの頭が失敗を認識するのは、男の動きに比べてあまりに遅かった。腕を強く引っ張られて身体が前方にバランスを崩すのと、強烈な衝撃が腹部を襲ったのはほぼ同時だった。男の膝はロラン鳩尾に直撃した。意思に反して膝が折れ、体は地面に崩れ落ちる。喉の奥から声にならない呻きが絞り出される。腹の中が引っくり返るような吐き気と激痛がロランに襲いかかった。息を吸うことも吐くことも出来ない。口の端から唾液が漏れ出す。
「下手くそ」
男は地面に這いつくばるロランに向かって吐き捨てるように言った。
「エリ」
足音がロランと男のすぐそばまで駆け寄って来た。頭上で二人の男が親しげに話すが、ロランにはその姿を確認することは出来なかった。
「あれ?集合はここじゃないよね?」
「人が集まってきている、さっき撃ったのは君かい」
「あー、ごめん、ちょっと脅かしてやろうと思ってつい」
「ここにいたらすぐに見つかる、早く行こう」
「待って、こいつを殺しておかないと。俺をつけてたんだ、顔も見られてる」
ロランは倒れたまま、動けずにいた。なんとか息を吸おうと口を開けても、まるで身体が呼吸の仕方を忘れてしまったかのように肺が詰まって動かない。痛みと息苦しさで、意識が遠退く。
「このひと……」
「どうしたの?まさか知り合い?」
視界の端がじわりじわりと暗くなる。血の気が引いていき、背中を冷や汗が伝った。二人の男が話し声が遠くなる。
「おい!」
はっと目を開くと、金髪の男の顔がすぐそばにあった。
「しっかりしろ、自分で歩け、重たいんだよ」
男はロランの肩を支えて立たせようとしていた。一瞬、深い眠りから目覚めたときのように、状況が掴めなかった。何をしていたところだったのか、この男は誰なのか、どうしてこんなところにいるのか。混乱しかけたところで、頭と思考がやっと起動した。記憶は欠損なく復旧し、ロランを再び窮地へ呼び戻す。周りを見回しても、状況は全く変わっていない。意識を失っていたのは一分にも満たない時間であるようだった。両足に力を込めてなんとか立ち上がると、腹が鈍く痛み、頭の奥には割れるような感覚が走った。
「おい、名前は?」
男がぶっきらぼうに尋ねた。
「名前……?私の?」
唐突な問い掛けに訳も分からず聞き返すと、男は苛立った様子でロランの腕を引く。
「はあ?他に誰がいるんだよ」
「い、一体なぜ」
「あーもううるさいなあ、いいから早く言えよ」
銃は既にどこかへしまったのか、男は手に何も持っていなかった。その目からは先ほどまでの狂気的な色は抜け落ちていた。目を合わせていても、ほんの数分前まで押し付けられていたような恐怖は感じない。あれほど明確に示していた殺意は、どこか表面からは見えないところへしまいこんでいるようだった。
「……ロランだ」
声を抑えて答えると、舌打ちとため息が同時に聞こえた。金髪の男はロランを睨み付け、あからさまに不愉快そうな表情を浮かべている。まるでロランの答えを予め予測していたような反応だった。ため息の聞こえた方を振り返って見ると、先ほど駆け込んできたと思われる男が、苦い顔をして立っていた。ロランと同じ色の目をしたその男は、しばらくロランの姿を眺めたあと、金髪の男に視線を移した。
「一旦場所を変えよう。それで良いね?」
静かなで抑揚の小さい声だった。
「……分かったよ」
金髪の男は渋々そう答え、着ていたコートをにわかに脱いでロランに向かって突き出した。
「着な」
勢いに押されてコートを受け取ったものの、その意味が理解できずに二人の男の表情を交互にうかがう。遅々として言うことに従わないロランを見て、男はまた舌打ちをした。
「早くしろよ、ここから移動するのにあんたのその服は目立つからコートを着ろって言ってんだよ」
男たちはこの場からロランを連れてどこか別の場所へ行くつもりのようだった。いつのまにか二人の男の間では今後の算段が話し合われ、結論が出てしまっている様子だった。ロランがこれからどうなるのかを知らないのは、ロランだけだ。薄れかけていた不安が背骨の内側を駆け抜けた。
「ま、待ってくれ。移動する?一体どういうことなんだ」
「うるさいなあ、命拾いしたんだから大人しく言うことを聞きなよ。ぐだぐだ言ってるとぶっ殺すよ」
「エリオット、やめるんだ」
苛立ちを募らせる金髪の男を見兼ね、もう一人の男が落ち着いた声でたしなめる。金髪の男はエリオットと呼ばれていた。エリオットは嫌々ながらも、もう一人の男の言うことには必ず従う姿勢を見せた。
「憲兵さん」
もう一人の男はロランに向き直った。
「貴方をどうするかはここを離れてから考えます。貴方は名の知れた人だ。殺すにはリスクが高すぎる。けれど、貴方と僕らの関係上、何の手も打たずに帰ってもらうわけにはいかない。分かりますね」
抑揚の小さい口調は、静かだが有無を言わせぬ強さがあった。ロランはその口調に押されて頷いてしまった。
「はじめに言っておくけれど、貴方一人では僕ら二人に太刀打ちできないし、僕らから逃げ切ることも出来ない。絶対にだ」
男が話す間は、エリオットは大人しく黙っていた。
「だから変な気を起こさないで、大人しく言うことに従ったほうがいい」
言葉の内容は威圧的だったが、男の話し方はどこか懇願をするようにも聞こえる。好戦的で気の短そうなエリオットとは大きく異なって、落ち着いていて理性的な印象を受けた。
今は男たちに従っておく方が良いように思える。彼らの口ぶりからは、少なくとも殺される心配は無くなったと見て良さそうだった。落ち着いていれば、どこかで状況が好転する可能性もある。
ロランは静かに息を吐いて、心を決めた。丈の長いコートを羽織り、二人に従って歩き出す。蹴られた腹の痛みは先程までに比べると少しだけ和らいでいた。踏み出す足に力を込めて、自分を奮い立たせる。すぐ傍を歩く男の右耳には、エリオットと同じ形のピアスが歩調に合わせて揺れていた。