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鴉の虹彩  作者: ちがみ
2/13

1-2

 翌朝、花屋へ向かうアルローの足取りは軽やかだった。その小さな花屋は、大通りから二つ奥へ入った、細く人通りの少ない路地にひっそりと立っている。建物の影になっていて一日中薄暗いためか、大通りよりわずかに気温が低いように感じられた。客足は少なく、普段アルローが訪れるときにもほとんど他の客を見たことはない。それゆえ、花屋から出てくる女の姿を見たとき、アルローは思わず立ち止まってその様子を眺めてしまった。中年のその女はくたびれた服を着ていた。苛立った様子で、早足でアルローの横を通りすぎていく。首もとの大きな火傷の痕が目立っていた。女は花を持っておらず、アルローを一瞥して去っていった。

アルローが花屋の中を覗くと、華奢な背中が見えた。

「ロザリー」

アルローが名前を呼ぶと、その背がびくりと震えた。狭い店の中に声が跳ね返る。ロザリーは両の手を握り合わせて、ゆっくりとアルローの方を振り返った。

「ミシェルさん、ですか?」

アルローが返事をすると、ロザリーはそばかすの多い頬を緩めてほっとした様子を見せた。

「えっと……入っても、いいかな」

「はい、どうぞ」

ロザリーは白いエプロンを手で払い、緩く編んだ三つ編みから垂れた髪を耳に掛けた。狭い店の中には銀色の長いバケツが整然と並べられていて、その中に花が種類ごとに入っている。街にある他の花屋に比べれば、その数はあまりに少なかった。

「また来てくださったんですね、嬉しいです」

ロザリーは長いまつげを伏せて優しい笑みをこぼした。豊かで艶のある髪と同じ色のまつげが、店の中に差し込むわずかな日光を集めてきらりと光って見えた。切り揃えられた柔らかな前髪の下で、太めの眉が温和な性格を反映するような優しい弧を描いている。この世界の優しくない部分とは縁の無さそうな、柔らかく穏やかな顔立ちだった。アルローはしばらくの間ロザリーから目を逸らすことが出来なかった。

「今日もまたソフィ様のところへお持ちになるんですか」

視線に気付かないロザリーが、そのまま会話を続けた。

「あ、ああ、うん、だからまた少し花を選んで欲しくて」

「分かりました」

ロザリーは頷いて、バケツの花を選び始めた。ときどき顔に触れそうなほど近付いて花を見る姿を、アルローは優しい眼差しで見つめる。緩やかな三つ編みが、ときどきロザリーの肩の上を滑った。

「そういえば、お仕事はどうです?先日いらしたときはなんだかお疲れの様子でしたけれど」

「もう大丈夫だよ。昨日は少し早く帰ることが出来てね、お祈りのために塔にも寄れたし、よく眠れたから。本当は調べることが山積みなんだけど、中佐が気遣って帰してくれたんだ」

「そうだったんですね、良かったです。心配していたんですよ」

「ありがとう、僕の周りは優しいひとばかりだ」

アルローは嬉しそうに笑った。

「中佐、というのはこの前のお話に出てきた方ですか?」

「そう、いつも一緒に仕事をするひとだよ」

ロザリーは桃色の花を選びとり、折れた葉などをよく見ながら切り取った。

「中佐は、本当に本当に優しくて良いひとなんだ。やっぱり、あのひとは英雄だ」

「英雄?」

「話していなかったっけ。ロラン中佐は六年前の北壁征伐に参加していたんだ」

アルローは惚れ惚れと軍服の袖に視線を落とした。

「僕はね、あの人に憧れて軍学校に入ることを決めたんだよ」

アルローは今でも初めてロランの姿を見た日のことを鮮明に覚えていた。

 六年前、珍しく積もった初雪もあっという間に溶けて消えるような、光溢れる暖かい日。聖塔に向かってまっすぐに伸びる広い通りを大歓声に包まれながら行進した四組の征伐隊は、沿道にいたアルローの目を釘付けにした。マートルグリーンの上着の中央に一列に並んだ金色のボタン、よく磨かれたつややかな黒い軍靴、隊員たちの纏うものすべてが太陽の光を受けて輝いていた。四つの隊はそれぞれがまとまって整列し、順にアルローの目の前を通りすぎて行った。そのなかの一番後ろの隊を率いていたのが、ロランだった。二百人もの隊員たちを従えて凜然と歩くその姿は強い光のように目の奥にくっきりと影を焼き付け、アルローが軍学校に入った後も薄れることなくその心を惹き付け続けた。

「憧れの英雄の傍で、ソフィ様をお守りする仕事が出来るなんて僕は幸せ者だ」

花を紙に包む乾いた音が店の中に響く。太陽をかたどった華奢なネックレスが、アルローの首もとで静かに揺れた。





「……アルロー大尉は来ないのかしら」

ソフィが窓の外を見ながら呟いた。耳を澄まさなければ聞こえないような小さな声が大きな窓に跳ね返る。

 ロランとソフィは、サン・ソレイユ塔の最上部に位置する小さな部屋の中にいた。

 太陽と光の神を信仰の対象とする国教のシンボルであるこの塔は、小さなこの国にある他のどの建物よりも高い。建国以来固く遵守され続けた建築制約によって、最上部のその部屋は太陽に最も近い場所を侵されることなく今日まで君臨してきた。部屋の周囲は半円状に窓に囲まれており、室内には光が溢れている。ソフィは窓際の椅子に掛け、ロランは部屋の扉のすぐ前に立っていた。塔は国家憲兵隊に属する聖塔近衛隊によって厳重に警備されている。ソフィの部屋に入ることを許されているのは国内でもごく少数の者に限られており、近衛隊のなかでは隊を束ねるアルローと、その目付役であるロランだけだった。

「もうすぐ来ると思いますが、何か急ぎのご用ですか」

「いいえ……そういう訳じゃないの」

窓の外には、塔の下部に設けられた教会にやって来る人々の姿がある。杖をつきながらゆっくりと歩む老婆の横を、二人の女性が話しながら早足で通り過ぎていった。ソフィはただ黙ってぼんやりとその様子を眺めた。

 ソフィがこうして人形のようにぼんやりと過ごすことが多いのを、ロランは心配に思っていた。ロランの隊がサン・ソレイユ塔の専属警護を任されて三年、少なくともその間はずっと、ソフィは同じように毎日窓の外を眺めるばかりだった。口数が少なく、いつも目を伏せて誰にも心を開こうとしない。まだわずか十六歳であるにも関わらず、ソフィはひどく大人びて見えた。ロランは初めて間近にその姿を見たとき、まるで早々と世界を見限ってしまったかのようだと感じた。しかし同時に、それはその生い立ちを思えば仕方のないことのようにも思われた。近衛隊の中には何を考えているのか分からないと言ってソフィを不気味がる者もいたが、そこに神々しさを見出だす者はそれよりもずっと多かった。

 暫くしてアルローが部屋へ入ってくると、ソフィは伏し目がちにアルローの方を見た。アルローは深々と頭を下げ、手に持っていた小さな花束を部屋の隅のテーブルに置く。

「ソフィ様、また花をお持ちいたしました」

ソフィは花束を見て、ほんのわずかに頬を緩めた。

「ありがとう大尉」

アルローはもう一度丁寧に深く頭を下げた。

ソフィが呼び出した使用人に花を花瓶に生けるようにと話している間、アルローはひとつ咳払いをしてからロランに囁き声で話しかけた。

「解剖の結果が判明したと、ここへ来る途中に連絡を受けました」

その言葉を聞いて、ロランは昨日の遺体の血の臭いを思い出す。

「許可はとってありますので、中佐は今から本部へ戻ってご確認ください。コナン·レイトンという医師が担当ですので、その者を呼ぶように言ってくだされば大丈夫だと思いますから」

「分かった。では、すまないが後を頼むよ」

ロランは上着の襟元を正し、ソフィの部屋を後にした。


 大通りは人で混み合っていた。塔から本部まではそれほど遠くないが、冬の風の冷たさは体をすぐに冷やした。ロランは早足で通りを進んでいく。すれ違う人々は服を着込んでいる者が多かった。

 六年前のあの日も、冬の始まりの寒い日だった。その年初めての雪が降り、初雪にしては珍しく、深く積もった。森を抜けて集落に向かう途中も大勢の靴が雪を踏みしめる音が規則正しく聞こえていたのを思い出す。あの日の記憶が鮮明に残って薄れないのは、雪が降ったせいではないかとロランは思った。白い雪と黒い目と赤い血。くっきりと主張する三つの色が、網膜に焼き付いて消えない。

 視線を落としながら歩いていると、前から歩いてくる一人の男の足元がロランの目に留まった。その男の靴の爪先の部分には、小さな赤い滴が垂れていた。鮮やかに赤いそれは男の革靴の深い茶色とコントラストを成し、くっきりと目立っている。その滴が、ただの水には無いべったりとした粘性を持っているということが一目で見てとれた。血だ、とロランは瞬間的に確信する。背筋がぞわりと痺れる。おそるおそる顔を上げると、一メートルほどの距離でちょうど男と目が合った。目深に被ったキャスケットのつばの下で、泉のように透き通った青い目がロランの翠眼を捉える。帽子からもれて額にかかる前髪やその下の太い眉、青い目を守る長いまつげまで、すべてが金色だった。半ば男に見とれるように視線を合わせたままゆっくりとすれ違う。男との距離が最も近くなった瞬間、鉄に似た臭いがロランの鼻に微かに届いた。この男は何者なのか。早鐘を打つ心臓とは対照的に、頭が上手く回らない。男は蝋燭を吹き消すようにふっとその視線を外してロランの横を通り過ぎて行った。

 視界から男が消えてからも、ロランは視線を動かすことができないまま前を見続けていた。心臓の焦りが次第に収まるにつれ、思考回路が繋がり始める。あの男を引き留めるべきではないのか、と頭のどこかが警告した。靴先を血で汚し、血の臭いを纏って歩くあの男が悪事と何ら関係の無い場所で生きているはずがない。ロランの足は徐々に速度を落とす。歩みの速さに反比例して、思考はさらに明瞭になっていく。男は何者なのか。いま、この街で血の臭いを纏って歩いているとすればそれは、鴉ではないのか。

 そう思い至った瞬間にロランは立ち止まり、振り返った。大通りには多くの人々が行き交っている。その中にはすでに金髪の男の姿は無くなっていた。人々は、通りの真ん中に立つロランを邪魔そうに避けながらその脇を通り過ぎて行く。誰ひとりあの男の存在を気に止めていない様子だった。ロランはもう一度本部の建物がある方へ顔を向ける。あの男を追いかけるべきだ、頭の奥で再び警告のシグナルが明滅した。息を深く吸い込む。それから心臓の音が十回鳴る間に肺のなかの息を吐ききって、ロランは踵を返した。

 近くに男の姿は無かった。ロランは周囲を見回しながら来た道を急ぎ足で戻っていく。広い通りの両脇から伸びているいくつもの細く狭い道を一つずつ確認しながら進んだ。

 やっとのことでキャスケットを被った後ろ姿を見つけたのは、大通りをしばらく戻り聖塔の近くまで来たときだった。通りから一つ外れた細い路地の奥に見えたその背丈や服装は、先程の男に間違い無さそうだった。ロランは腰の拳銃に手を伸ばしかけたが、思い直してそのまま男の後を追う。男は狭い道をさらに何度も曲がり、どんどんひと気の無い方へ進んでいく。その足取りは滑らかで、どこか特定の場所を目指して歩いているように見えた。ロランは男に気づかれないよう、大きく距離を取ったまま尾行していくことにした。

 それが仇になったのは、男が三回目に角を曲がったときだった。続いてロランがその角を曲がるとそこは行き止まりで、男の姿は無かった。焦って周囲を見回しても、どこにも男は見当たらない。

「そんな……」

呟いたロランの声が立ちふさがった壁に跳ね返る。わずか十数秒の間に、男はどこかへ消えてしまっていた。しばらくその場に立ち止まったが、引き返すより他に選択肢は無かった。

 もやもやと苦い思いを胃のなかに抱えたまま、ロランが来た道を帰ろうとした、そのときだった。

「止まれ」

突然背後に現れたその声は、若い男のものだった。はっとして振り返ろうとすると後頭部に硬いものが当たった。

「聞こえなかったか、止まれって言ってるんだ」

撃鉄を起こす音がして、ロランは硬い感触が銃のものであることに気付く。男はロランの頭に向けて銃を構えている。数分前とは反対に、思考が冴えわたる代わりに体が動かない。遅れて心臓が痛み始める。腰の拳銃に手を伸ばすことが出来ない。男は背後に立っているため、ロランにその顔を見ることは叶わなかった。

「残念だったね、俺の後をつけて来たりしなければ死なずに済んだのに」

その言葉で、背後にいるのは追いかけてきた金髪の男であると確信する。

「さよなら」

軽やかな別れの挨拶のあと、動けずにいるロランを嘲笑うように銃声が轟いた。


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