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鴉の虹彩  作者: ちがみ
13/13

5-2

 その日は雪が降っていた。その年初めて降った雪だった。真っ白に埋まった地面を踏みしめ、鈍い黒色の軍靴が列を成して進む。目を開けていることに自信がなくなるほど、辺りは暗い。夜に濡れた森の木々の間を静かに抜けていく。足元に気を付けなさい、と掛けた声が白く曇って闇に溶けた。代わって吸い込む冷たい空気が肺を刺す。掻き分ける暗闇は深く、重い。

「ロラン大尉はここで止まって下さい。皆には持ち場につくように伝えてください」

しばらく歩いたところでリシャールがロランに言った。ロランは一度隊の足を止め、予め決めてあった通りの持ち場に移動するよう指示した。

 計画では、始めに動き出すのはヴィヨン隊とバルザック隊だった。北側へ回り込み、南方向に向かって追い込んでいく。征伐の計画はアンカーランドにも事前に通知してあるが、出来るだけ事は南寄り、すなわち自国側で片付けよというのが上からの指示だった。少し遅れて南側から迎え撃つように進むのがユーゴー隊だ。そして、三隊による挟撃で取りこぼした者たちを逃がさないことがロランの隊に任された仕事だった。集落を囲むように広がる森の東側と西側で待機し、動き出すのは一番最後だ。隊の半分は既に東で待機している。

 ややあって、全員が配置についたことが伝達された。

「ではこのまま」

待機、と言い掛けたリシャールの声を遮って、遠くに叫び声があがった。追いかけるようにして立て続けに銃声が轟く。心臓が飛び跳ねた。

「始まりましたよ」

リシャールの声が冷たく落ちた。



「なあ、シモン」

しばらく経って、ロランが絞り出した声は震えていた。

「お静かに」

リシャールの声もまた、ひどく強張っていた。

「これはなんだ」

 身を隠す木々の隙間から見えた集落の中の様子は、惨憺たるものだった。火をかけられた家々が燃え上がり、あちこちに死体が転がり、怒号と悲鳴と銃声が鳴りやまない。その地獄のような景色の中で、なぜだか、武器を持って刃向かって来る者がほとんどいない。彼らは気味の悪いほどに呆気なく死んでいく。

「なぜ彼らは抵抗しない」

黒い目の中には恐怖や絶望が溢れていたが、憎悪が見えない。

 物陰から乱暴に引きずり出され、地面に転がされて銃弾を撃ち込まれる男。子供を抱いたまま切り捨てられる女。走る少年の足がもつれたところに撃ち込まれる弾丸。華奢な体が跳ねて地面に叩き付けられる。

 ひどい有り様だった。それなのに、隊員たちが振りかざす剣を、構えた銃を、彼らはまるで神の鉄槌が下るのを見るような顔で受け止めていた。

「こ、んな」

こんなのは争いとは呼ばない。

「大尉。そのような情けない声を出してはなりません。隊員たちに聞こえれば士気が下がります。我々も間もなく出るのですから」

雪の上に撒き散らされる真っ赤な血が、神に疎まれた悪魔の民族だと呼ばれている彼らも間違いなく人間だということを突きつけてくる。今からロランたちがなそうとしているのは、悪魔退治などという絵空事ではない。

「こんなのは」

分かっていなかったわけではなかったが、分かっていたわけでもなかったと気付く。事態が転がり出して初めて、その重大さを知る。

 リシャールがロランの軍服の背中を乱暴に掴んで引きずり寄せた。

「パトリック」

囁くような小さな声で、しかし力を込めて、リシャールがロランの名を呼んだ。深く沈み込んでいた意識が一瞬にして引き揚げられる。心臓が締め付けられたように痛む。

「お前の考えていることが私には分かる」

リシャールは真っ直ぐにロランの目を見据えていた。口から情けない息が漏れた。背中の手がさらに力を込めて握り直された。

「だがここまで来たらもう戻れない。どんなに残酷非道なことでも、やるしかない。やらなければ終わらない」

視界が揺れを止め、鋭い一対の翠眼に焦点が合っていく。

「私がついている。後ろも下も見るな。何も聞くな。今からお前には恐ろしいものは何も見えないし、何も聞こえない。何も考えずに、やるべきことをやれ」

悲鳴のような耳鳴りが続く中で、リシャールの声だけがロランの頭に届き、止まろうとしていた思考を叩き起こす。

「大丈夫だ、パトリック」

ふ、とリシャールが笑った。南を出て以来表情を崩さなくなった旧友の、場違いに穏やかな顔つきに、押し潰されていた肺が少しだけ息を吹き返す。

「罪も、罰も、お前を苦しめるものはすべて私が代わってやる」

リシャールはロランの肩を支えて立ち上がらせると、握った拳でロランの胸を叩いた。

「恐れるな、私がついている」

 ロランの合図と共に、身を潜めていた隊員たちが一斉に動き出す。

対面の分隊も攻撃を始めたのか、森の方へ散り始めていた北の民が集落の中央に向かって囲い込まれていく。サーベルの刃が鞘から滑り出す音が銃声に重なる。白かった地面は血ともに踏み固められてどろどろに汚れていた。耳を引き裂くような甲高い音が、もはや悲鳴なのか耳鳴りなのか分からない。真っ暗なはずの雪の夜は、四方で上がる炎に照らされて赤く光っていた。

「その後は、一晩かけて、確認できる限りの全員を殺して回った。性別も年齢も無関係に、全員だ」

 エリオットは強張った表情でじっとロランを見つめながら話に聞き入っていた。形の良い眉が額の真ん中に皺を寄せている。

「先陣を切ったヴィヨン隊とバルザック隊は、特に、……こういう言い方が正しいかは分からないが、……大変だったと思うよ」

征伐の後、少なくない数の隊員たちがフラッシュバックや不眠など様々な症状を訴えた。中でも、心にひどい傷を負って職務を継続することが難しくなり軍を去った者の数が最も多かったのが、バルザック隊だった。

 エリオットはますます深刻な顔つきになって、青い視線を地面に落とす。それからしばらくの間、エリオットは黙りこくってしまった。



「夜明けが近づいて、もうほとんど生きている者がいなくなった頃だった」

 しばらくしてからハルを連れ出した経緯を尋ねられて、ロランはまた話を始めた。

「燃えて崩れそうな家の中に、どこの隊かは分からないが、隊員がひとり残っているのが見えた」

そのとき、ロランは一人で、周囲には誰もいなかった。隊のまとまりは既に崩れ、散々になって生き残りを潰していたせいだった。

 彼を外へ連れ出さなければいけない。疲労で停止する寸前の頭がロランにそう告げた。屋根ばかりが一際酷く燃えていたその家は、もう何分ももたないように見えた。

「それで、私はその家に駆け込んだ」

「馬鹿か、そんな、焼け崩れる寸前の家なんて」

エリオットが呆れ顔で言った。

「確かに今考えると危険だな。あのときは、私もおかしくなっていたんだと思う」

 水を被って駆け入った小さな家の中は呼吸もままならないほど熱くなっていた。身体中が痛みにも似た熱さに蝕まれる。思わず呻き声が漏れたが、代わりの空気を吸い込むことは出来なかった。煤と火の粉が舞うなかを必死に踏み込んでいく。勝手にあふれて勝手にこぼれていく涙を両手で払う。目の前がぐらぐらと揺れて見える。家の中は燃え上がる炎に照らされ、目が眩むような禍々しい明るさがあった。

 やっとの思いで目指した部屋に辿り着く。開かれた扉の傍には、女がうつ伏せに転がっていた。真っ黒な髪が床の上に散らばるように垂れている。その下には赤い血だまりがあり、目を凝らすと、その縁はじわりじわりと床の上を這って進んでいた。身に付けている服には火が燃え移っていて、溶け落ちた布の下に鈴が並んだ白い背中が見える。胴の下にも流れ出た血が溜まっている。脇腹にも傷があるようだった。

 ロランは女を跨いで部屋に踏み入った。

 部屋の奥では若い隊員が必死の形相で銃を構えていた。帽子の下から覗く金髪が炎に照らされてきらきらと光っている。炎が家を焼く音は圧倒的な力でもってそれ以外の音を食い殺していたが、彼の荒い呼吸音だけは、耳元で聞こえるような気がした。

 男の視線の先には、女の子がいた。部屋の隅、壁に背を向けてべったりと座り込み、細い腕でさらに小さな女の子を抱きかかえている。その小さな女の子の頭は、撃たれた衝撃のせいか、後ろが崩れていた。そこから流れ出した真っ赤な血が女の子の白い腕や胸元を染め、ぬめった光を湛えている。女の子はまっすぐに銃口を見つめていた。一瞬たりとも視線を逸らさず、またまばたきをすることもなく、黒い目はまるで吸い込まれるように冷たい穴に引き付けられていた。

 隊員と女の子は、刻々と深刻さを増す周囲の危機からは切り離された二人きりの世界の中で対峙しているように見えた。

 ロランはその場に立ち尽くした。身体を襲う熱さと目の前の光景の強い衝撃のせいで、思考の回路は千切れしまっていた。

 先にロランに気づいたのは、女の子だった。わずかに首が傾いて、ゆっくりと顔がロランの方を向く。黒い目が動く。その視線がたどった軌道をはじめから終わりまで追いかけられそうなほどにゆっくりとした動きだった。火の粉が黒いまつげを揺らす。濡れた瞳の表面を赤い光が駆け抜ける。

 目が、合った。その瞬間に、二人の世界に引きずり込まれたように周囲の音が消えた。同時に、女の子の頭の上にはらはらと降り注いでいる火の粉が破れかけの袖に触れて、燃え移るのが見えた。

「危ない」

口と足が勝手に動いた。ロランはいつの間にか女の子に駆け寄り、そばにしゃがんで燃え始めた服をはたいていた。女の子の腕が揺れた拍子に、抱えられていた小さな体は床に滑り落ちた。頭が床にぶつかって固い音を立てた。しかしそれにも気付かない様子で、女の子は丸く開いた目をロランに向けていた。その顔には驚きも恐怖もない。感情と呼ぶべきものは何もなかった。

「大丈夫か、怪我はないか」

女の子に呼び掛ける自分の声が、どこか遠くから聞こえるような気がする。

「一体何をするんですか」

はっと顔を上げると、隊員がひきつった顔でロランを見ていた。青い目が困惑に揺れている。その手に握られた銃は変わらずに女の子を狙っていた。

「そこを退いてください」

隊員が詰め寄る。ロランは女の子の肩を抱いて引き寄せた。小さな身体は簡単に腕の中に収まった。

「待ってくれ」

声はまた遠くで聞こえたが、隊員には届いているようだった。

「何をですか」

隊員がまた一歩距離を詰める。指は引き金にかかったままでいる。ロランは女の子を抱き締める腕に力を込める。

「頼む待ってくれ」

「馬鹿なことを言うな‼」

青い目にかっと激情がともったのが見えたと思うと、隊員はロランに掴み掛かった。軍服の肩口を強く引かれ、態勢を崩しかける。抱えた腕が緩みそうになるのを必死でこらえ、もう一方の手で隊員を押し返す。

「あなたたちが僕らに殺せと命じたんじゃないか‼」

悲鳴のような叫び声だった。ロランはありったけの力を込めてその手を振りほどき、突き飛ばした。隊員は後方にはね飛ばされてよろめき、背中から倒れ込んだ。銃が手を離れて床の上を滑っていく。隊員はすぐさま立ち上がろうと、前のめりになって、ロランの方に手を伸ばす。その姿が、まばたきをした次の瞬間、瓦礫に変わった。消えていた周囲の音が唐突に蘇る。轟音と爆風がロランを襲った。背面に吹き飛ばされ、壁に叩き付けられる。目の前が赤く明滅して、頭の中がひっくり返されるような衝撃に襲われた。喉の奥に呻き声が詰まった。打ち付けた身体が軋む。

 やっとの思いで目を開いた。焼け崩れた天井が、隊員を飲み込んでいた。燃え上がる瓦礫の中にその姿を確認することは出来ず、声もしない。血の気が引いて、手足が痺れていく。真っ白だった頭にくっきりと恐怖が焼き付く。喉の辺りで心臓が跳ねていた。

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