5-1
翌日も空は雲の少ない冬晴れだったが、空気は冷え込んでいた。朝と夜が入れ替わる度に冬は駆け足で深まっていく。もう一週間もすれば初雪が降るかもしれない。
「あいつ面倒くせえ!」
仕事を終えたロランと待ち合わせたエリオットは、開口一番大声で愚痴を垂れた。その勢いとは対照的に白い息がふわりと曇ってゆっくりと空気に溶けていった。ロランはその剣幕に困惑しているようだったが、エリオットを宥めるように何度も頷きながら話を聞いた。
エリオットを苛立たせたのは、ハルが何をするにも許可を求めたことだった。良いと言わなければ何にも触れず、何も口にせず、放っておくとその場から動きもしない。理由を聞くと、自分は汚いからだと答える。そう言われると、確かに彼女の動きは自分の体で周囲のものを汚さないかと怯えているように見えた。雨や泥はもう拭いたのだから汚くないだろうと言ったが、困った顔をするだけで一向に直らない。
「挙げ句の果てには床で寝るとか言い出しやがって頭おかしいだろ!」
最後には、凍え死なれると迷惑だからせめてソファで毛布を掛けて寝ろと怒鳴りつけ、やっとのことで人間らしく一晩を越させた。
「それともなんだ、向こうにはそういう習慣でもあったのか!?」
エリオットの剣幕に、広場にいる人々がちらちらと視線を寄越す。ロランは苦笑して、そんなものはないよと言った。
「汚いというのは雨や泥のことではないんだよ」
それはハルがあのような振る舞いをする理由をよく知っている言い方だった。ロジェと同じだ。彼もまた、ハルが過敏に許可を求めることに対してエリオットのように苛立つことも面食らうこともなく、彼女の問いかけの背景をよく理解している様子で、気長にそれに付き合っていた。
「なあ」
エリオットはロランとの距離を一歩詰めた。
「家へ行く前に、少し話がしたい。構わないよな?」
「話?」
ロランは目をぱちぱちと瞬かせた。緑色の二つの目に、覗き込むエリオットの姿が映っている。その奥にしまってあるはずの六年前の経験を聞きたい。あの日一体あの森の奥で何があったのか。長い間知りたいと思っていたのに、その機会を失ってしまっていた。征伐隊の隊長だったこの男は、あの日のことを誰よりもよく知っているはずだ。
大通りを早足で進む。といっても、あくせく足を踏み出しているのはロランの方だけで、エリオットの歩みは悠然としていた。エリオットは今日も昨日と同じ地味なロングコートとキャスケットを身に付けている。目立たないための方策なのだろうが、あまり役には立っていないように思えた。傍を通り過ぎるとき、彼を振り返る女性が何人もいた。帽子の影で美しい顔や髪がよく見えなくとも、すらりと高い背丈と勇敢な体つきから滲む雰囲気が彼女たちの視線を引き寄せるのかもしれない。エリオットもそれを分かっているのか、すぐに人気の少ない道に入った。
「歩きながらでもいいか」
歩みの速さを大幅に緩めてエリオットは言った。わずかにトーンを落とした声は、隣のロランだけが正確に聞き取れる。
「遠回りして帰るから、その間に話して欲しいんだけど」
青い目は前を見つめたままでいる。ロランは分かったと答えた。
「見て分かると思うけど、俺はこの国の人間じゃない。六年前、アンカーランドからこっちに来た。北落征伐の一ヶ月ちょっと前だった」
二つの足音が両脇の建物の外壁に反響して狭い道に響く。二人の他に人の気配はない。
「俺は北落のことも、征伐のことも、よく知らない。だから教えてほしい。あんたの知ってる限りで構わないから」
エリオットがロランに視線を向けた。思いがけない懇願に戸惑いを覚えたが、エリオットは真剣な眼差しで頼むよ、と加えた。
「……何から、話せばいいかな」
やり場に困った目を空に上げる。両脇を挟む建物に区切られた長方形の空の明るさに目の奥が痛んだ。ぽつりぽつりと浮かんでいる雲を辿りながら、ゆっくりと記憶を遡っていく。思えばこれまで、数えるほどしか自分の意思であの日のことについての記憶の蓋を開けたことはなかった。
「事の発端は、北落征伐の一年程前、先王夫妻が立て続けに急逝なさったことだったんだ」
ロランは呟いた。
当時、国内では熱病が大流行し、多くの人々が命を落とした。ソフィの両親である夫妻も同じ病に襲われ、突然この世を去った。訃報は瞬く間に国中に届けられ、その日から光の国は絶望の闇に翳った。
「塔の中に籠りっきりでも流行り病にはかかるんだな」
「塔からお出にならないのは、ソフィさまだけだよ。ソフィさまが即位されてからは形骸化してしまったが、本来王は国教の指導者であるとともにこの国の統治の全権を持っている。籠るどころか、毎日ご公務に追われて忙しくしていらっしゃったはずだよ」
先王の面影を思い浮かべながら言った。
「それに、どちらかと言えば行動的な方だったんだ。公の訪問ではなかったようだが、北落を頻繁に訪れていたと聞く。北との融和を図ろうとなさっていたとか」
ふうん、とエリオットは顎を撫でた。
「じゃあどうしてあの女の子はあの塔に籠ってるんだ?」
まるでおとぎ話のお姫様じゃないか。エリオットの言葉はなんとも的確であるように思えた。
「ソフィさまはお体が弱かったんだ。公の場に姿を見せたのは、生まれたばかりのときに一度か二度だけ。不治の病を患ってもう永くないとか、奇病で顔が崩れてしまっているとか、当時は様々な憶測や噂が飛び交っていた。だから、彼女には後継など務まらないのではないかと皆不安がった」
「でも結局あの女の子が後を継ぐことになった」
「他に手がなかったんだろう。先王には兄弟がいなかったし、ソフィさまの他には子どもも無かった」
具体的な議論と合意の過程は知り得なかったが、いずれにせよやむを得ない手段であったことは間違いなかった。
「それで、何がどうなればあの征伐に繋がるんだ?」
ロランは苦笑いを浮かべた。エリオットの疑問はもっともだった。ロランにとっても、あの日の出来事の鮮明さに比べればそこに至る道のりはぼんやりとぼやけたものだった。経緯を知らないわけでも、覚えていないわけでもないのに、どこか漠然とした印象が拭えない。まるで地面が勝手に動いて、自分の足では一歩も動かないままいつの間にか目的地に連れていかれていたような感覚だった。
「あの頃は、国中真っ暗だった。偉大な王を亡くし、病で塔に籠りきりの十歳の女の子を頭に据えなければならない。国の行く先は曇って見えなかった。アンカーランドとの関係も当時から冷えきっていたから、王が倒れたこの期を狙って争いを吹っ掛けられるかもしれないなんて言い出す人も多かった」
覚えている限りのことを並べる。
「ともかく、掴みきれない不安ばかりがどんどん膨らんでいたんだ。そこで、こんなことを誰かが言い出した」
誰かは分からない。しかし、誰かが言ったのは確かだ。
「北の民は光の神に疎まれた悪魔の民族だ。彼らに近づき過ぎたせいで先王は神の怒りを買ってしまわれた。彼らを滅ぼせば神は我々を再び愛し、レールボートンに救いの手を差し伸べて下さることだろう」
そのときロランの頭の中でその台詞を吐いたのは、なぜだか、アルローだった。現実には有り得ないことなのに、妙に滑らかな口調でアルローは演説した。ロランはすぐさまその映像を振り払う。良くない想像だ。小さな罪悪感を覚えた。
「時代錯誤だ」
エリオットが眉をひそめて言った。
「私も同感だよ。だがそう感じない人たちもいた」
「たくさん?」
「そうだね。それに、私はそう聞かされているというだけでそれは単なる建前にすぎないかもしれない。漠然とした不安を前にして、何か行動を起こさずにはいられなかったのかもしれない。暗く落ち込んだ国を手っ取り早く高揚させる起爆剤のようなものだったのかもしれない。どのようにして、何のためにあの征伐が行われることになったのか、本当のところはもっと偉い人たちしか知らない」
「あんたは偉い人の中には入ってないのか?」
「私は隊長に選ばれて初めて中央へやって来たんだ。だから物事を決める部分には全くもって関与していない」
「へえ、それまでは何してたんだ?」
「生まれは南の田舎なんだ。征伐隊の隊長になるまでは南方本部に所属していた」
南方本部は、小さなこの国の各所に設けられた地方本部の中でも最も規模が小さいもののひとつだった。
「六年前って言ったら、あんた何歳だ?随分若かったんじゃないか?」
「私だけではないんだ。他の隊長たちも、隊員たちもほとんど経験のない若者ばかりが集められた」
預けられた隊員たちはみな、まだあどけない顔つきの青年たちだった。加えて、隊員同士が実際に顔を合わせたのは当日のことで、お互い顔も名前も分からない、不思議な隊だった。
「組まれたのは四隊。隊長はフィリップ・ユーゴー、ジャン・ヴィヨン、エミリー・バルザック、それから私で四人だ。総指揮はユーゴー大佐が執った。彼だけは、君の言葉を借りるなら、"偉い人"だった」
当時、急進派の中堅であったユーゴー大佐は、征伐隊の中でただひとり、上層部の意思決定に関与していた人物だ。
「でもそんな即席の隊で上手くいくものなのか」
「簡単だったんだ」
「簡単?征伐がか?」
「そう。拍子抜けするほど」
不意に日が陰った。見上げると、緩やかに風に流される小さな雲の塊が丁度太陽に重なったところだった。
「彼らは気味が悪いくらい、無抵抗だった」




