4-3
二人を追いかけたロランが狭い路地にエリオットの後ろ姿を見つけるのに、それほど時間はかからなかった。
「なんだ、来たのかよ」
ロランの姿を認めると、エリオットはキャスケットを脱いだ。滑り出した金髪が光る。傍にヤンはいなかった。
「あいつはどっか行った」
辺りを見回すロランに向かって、エリオットはそっけなく言った。
「……そうか」
「なんだその顔。せっかく助けてやったのに、不満か?」
「まさか。違うんだ、なんというか、……困ったことになって」
「あんた四六時中困ってるじゃないか」
そう言われると返す言葉がない。苦笑いを浮かべると、その顔でごまかすの癖なんだろ、と追い討ちを掛けられた。
「まあいいそれで?今度は何」
「……怒らないんだな」
「怒られたいならまた腹に一発入れてやろうか」
「すまない余計なことを言った」
口調は変わらないが、エリオットの纏う雰囲気はどことなく穏やかになってきたような気がした。少なくとも初めて会ったときのとげとげしい拒絶の態度が大分和らぎ、目を合わせていても圧迫感や恐怖をほとんど感じない。
「ヤンがどこへ行ったかは分からないか」
「あいつに用があるのか」
「彼は、多分、事件の被害者の家族なんだ」
昨晩、彼はヤン・ジスカールと名乗った。五日前の早朝に発見された五人目の被害者の男の名もジスカールだった。男は住所不定で決まった職もない、いわゆる浮浪者だった。付近で同様の生活をしていた者たちへの聞き込みから氏名や年齢などのごく基本的な情報は調べがついたが、配偶者や親族がいるのか、いるとすればどこで暮らしているのかなど、男の身元に関して詳しいことを知っている者は見つからなかった。憲兵本部は遺体の引き受け先に困り、ラジオや公告によって引き取り手を探していたところだった。
「遺体を引き取らせたいってこと?」
「死亡から五日経っている。保管もそろそろ限界で、明日の朝には憲兵本部で埋葬される予定になっている」
「昨日会ったときには分からなかったのか?」
「面目ない。昨晩気付いていれば……」
ヤンが出したクイズの答えは、きっとこのことだったのだろう。ロランは苦い思いで肩を落とした。
「まあ、引き取れって言ったところでそれに応じたとは思えないけど」
エリオットが腕を組んだ。
「どうしてだ?」
「あいつは鴉を探してる。ということは、父親が死んだこと、しかも鴉に殺られたってことを知ってるんだ。公告かラジオか、新聞か。少なくとも何かからある程度の事件の情報を得ている。それなら憲兵本部が親族を探してることだって、知っていると見るべきじゃないか」
彼の推理はもっともに聞こえた。
「それでも名乗り出ない。それなら、理由は知らないが、引き取る気はないってことだろ」
」
「……しかしなぜ」
「んなの知るかよ。そのジスカールって男、麻薬中毒の浮浪者なんだろ?そんなやつどうなったって関係ないって思ってるんじゃない?」
「実の父親でも、そういうものなのか」
そう呟くと、エリオットは不意に、寂しそうな顔をした。
「家族だからってさ、何でも許してもらえる訳じゃないだろ」
それはまるで彼自身のことを話すような口振りだった。うまく言葉を返せないロランを待たず、エリオットはすぐに表情を戻して話を続ける。
「でもまあそうだとすると、鴉を探してることと辻褄が合わなくなる気もするけどね。どうでもいいなら、わざわざ犯人探しなんてしない」
ロランの前で彼は、父親の死に傷付いているような様子を一切見せていなかった。その一方で、鴉に対しては、エリオットに脅されてもなおロランに会いに来るほどの執着がある。
「よく分からないな」
「ともかく、遺体の件は諦めることだ。あいつはどこへ行ったか分からないし、仮に見つかっても引き取りに応じる可能性は低い。どっちにしたって明日の朝までにまとまる話じゃない。本部で処分しな」
エリオットがキャスケットを被った。
「そんなことで困ってる暇があったらこの先どうするのかとっとと決めろ」
「そうだな、すまない。君と彼には、迷惑を」
昨夜のロランの苦し紛れの提案を、ロジェは受け入れた。これから先ハルをどこへどのようにして匿い、あるいは逃がすのか。それを考える間、ハルの身はロジェとエリオットが預かる。ソファでじっと黙っていたロジェが突然その意思を表したとき、驚いていたのはロランよりもエリオットの方だった。ロジェはエリオットの考えを尋ねたが、エリオットはただ一言、あなたの言うようにする、とだけ答えた。
「君は良かったのか、本当に」
「あの人が良いって言うんだから良いんだ」
当たり前だ、くだらないことを聞くな。エリオットの口調には、そういった響きがあった。
初めに受けた印象以上に、彼はロジェに対して従順であるようだった。彼らは二人組だと言っていたが、一見して、ロランには二人が完全な対等関係にあるようには思えなかった。表面上はエリオットは威勢が良く、高圧的で態度が大きい。しかしその根はロジェに対しどこか依存的な気質を有しているように感じられる。青い目は時おり隠しもせずに、彼の心情を読み取ろうとするように鋭く動く。一方のロジェは、三白の眠そうな目をじっとどこかに縫い付けて何かを考え込んでいることが多いようで、エリオットの視線を気に留める様子はない。エリオットとは対照的な、抑揚の小さい静かな話し方をするが、たった一声名前を呼ぶだけで騒ぎ立てる彼を黙らせる。会って間もないが、不思議な二人だと思った。
「次はいつ時間が空く?出来るだけあれの様子を見に来いよ」
「今夜は一晩、塔に詰めなければならないんだ。明日の昼前に交代が来るから、その後すぐに向かうようにする」
「じゃあ明日の正午に広場で待っててやる」
「分かった」
不思議な二人ではあるが、悪人ではないはずだ。ロランはそう考えていた。ハルを見て驚きはしても、蔑みの目を向けることは一瞬たりともなかった。濡れた彼女を家に上げ、タオルや服を貸し与え、着替えるための部屋を用意した。疑いもためらいもなく、彼女を人間の女の子として扱ってくれた。彼らならば、ハルを人間の女の子として匿ってくれる。
「おい」
去り際、エリオットはロランを引き留めた。
「あらかじめ言っておくけど、憲兵として必要な部分より多く、ヤンと関わろうとするなよ」
帽子のつばの下で、真っ青な目がじっとロランを見ている。
「要するに、あいつを助けてやりたいだなんて考えるなってことだ。泣き付かれても、振り払えってことだよ」
ロランは黙ったままエリオットを見ていた。
「ヤンを助けてやりたい。鴉を守ってやりたい。優しいのもお人好しなのも構わないが、この二つはどうしたって両立しない。誰にでも優しい顔をしてやるのは気分が良いかもしれないが、無責任だ」
どうやら彼の泉のような目は、ロジェだけではなく、おしなべて他人の考えを推し測るのが得意なようだった。
「……そうだな」
返答が静かな小路の水溜まりに溶け落ちる。彼は悪人ではない。ロランはそう確信して、穏やかに微笑んだ。
「ありがとう、君の言う通りだ」
エリオットはそっけなく視線を逸らして、ロランよりも先にその場を去っていった。
紅茶を淹れたカップを二つ用意した。白いふちから白い湯気がゆらゆらと上っていく。テーブルの上にゆっくりと置くと、ロジェは部屋の隅で黙っている鴉―ハルに向かって声を掛けた。
「君はそうやってずっと立っているつもりかい」
ほんの一瞬視線が上がったが、答えは返ってこない。ロジェは指先でテーブルを叩き、カップを置いた席の一方を示した。
「ここへ座れよ」
ハルはしばらくの間様子を窺っていたが、恐る恐る足を踏み出し、ゆっくりと椅子の傍まで来た。しかし、背もたれに伸ばした手は触れる前にふらふらと引き込められてしまった。
「……あの」
口から出た途端テーブルにも届かないままこぼれ落ちてしまうような、弱々しい声だった。
「触っても、良いということですか」
エリオットがこの場にいれば、訳の分からない質問をするなと乱暴にあしらっただろう。彼は北の民とこの国の人間の関係性をよく知らない。北落征伐が行われ、北の民がいなくなってしまったのは、彼がこの国へやって来てすぐのことだった。征伐の後、時間の経過と共に人々は北の民の話をしなくなり、エリオットがこの国の言葉を十分に理解できるようになる頃には、一年に一度サン・ソレイユ祭の日を除いては彼らを思い出すこともしなくなっていた。
そうだ、と答えた。思っていたより冷たい声が出た。ハルは強張った表情で、小さな体をさらに小さく縮ませた。もう一度手を伸ばし、おぼつかない手つきで椅子に触れる。まるで、自分の手が触れることで古びた木の背もたれが腐り落ちてしまうとでも思っているような様子だった。やっとのことで椅子に腰を下ろしても、黒い目は居心地が悪そうにふらふらとテーブルの上をさまよっている。胸より上には決して視線を上げようとせず、ロジェと目線が合うことはない。下を向いているせいで、黒いまつ毛の長さがよく見えた。
沈黙が続く。黙りこくる彼女から染み出す緊張や不安にじわじわと首を絞めつけられ、息苦しくなってくる。かといって話し掛ける言葉も見つからない。相変わらず黒い目線は少しも持ち上がらず、ハルはロジェの視線には気付かないようだった。
ハルは、形容し難い不思議な雰囲気を持っていた。顔つきや体躯、仕草、その全てが、大人とも子どもとも言い難い不安定な印象を与える。どちらにもなりきれない曖昧さは強く視線を引き寄せた。狭い肩。骨ばった胸元。くすんだワイシャツの襟元から伸びる細い首には、所々に小さな火傷の痕が覗いている。同じような痕は、服に隠れて見えなくともきっとこの小さな体の至る所にあって、一生居座るのだろうと思われた。心臓がちくりと痛む。ゆっくりと、わずかに視線を上げる。不安そうに引き結んである薄い唇、が、不意に歪んだ。はっとして思わずその顔を見る。
そこにいるのは、ハルではなかった。目の前には、見覚えのある別の女が座っていた。まだ若い色白の女。頬や胸元が柔らかな線を描き、そこにくっきりと黒い髪が掛かっている。深い黒色の瞳の中に、真っ赤な炎が揺れているのが見えた。
「お腹に赤ちゃんが」
女が言った。女は目の前にいるのに、その声は遠くで泣き叫んだようにも、耳元で呟かれたようにも聞こえた。心臓を掴まれたような痛みが走った。わずかに遅れて背中を悪寒が駆け抜ける。思わず身を引くと、カップに手が触れ、甲高い音を立てる。椅子の足が床に擦れて鈍い振動を与える。その瞬間、我に返った。強ばった体のままもう一度前を見たとき、そこに女はおらず、代わりに、陶器のぶつかる音に身をすくませたハルが座っていた。
「……君いま何か言ったかい」
喉に詰まった息を吐き出しながら言った。声が震えそうになるのをなんとか押さえ込んで、平静を装う。
ハルは首を横に振った。
「いいえ」
女とは全く違う声だった。ロジェはそうか、と小さな返事をして、右手で目元を覆った。背中を冷や汗が伝って降りていくのを感じる。もう一度息を吐く。今度はわずかに震えた。嫌なものを見てしまった。
右手を下ろしてハルを見遣ると、心配と困惑を半分ずつ混ぜたような顔でロジェの様子を窺っていた。
「悪いね、おかしなことを聞いた」
ちらちらと投げ掛けられる視線を拾い上げてそう言うと、ハルは大袈裟に首を振って、いいえとかごめんなさいとか、ほとんど聞き取れないようなことをぶつぶつと呟きながら下を向いてしまった。
それからまた部屋の中は静かになった。紅茶がすっかりその熱を失い、ロランの様子を見に行っていたエリオットが帰ってくるまで、その沈黙は途切れることがなく、終ぞハルがカップに触れることもなかった。




