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鴉の虹彩  作者: ちがみ
10/13

4-2

 弾かれたように椅子から立ち上がったエリオットは扉を乱暴に開けた。部屋には窓がある。開ければそこから逃げられられないことはない。ロランには大人しく従う姿勢を見せていたがやはり一人にしておくのは不用意だったのかもしれない。鈴の音が止んでからどれくらい経っただろう。その時間で逃げられる距離はどれくらいだろうか。扉が開く一瞬の間に思考が急速に展開する。

 しかし心配とは裏腹に、部屋の奥にはいきなり開いた扉に驚いて身をすくませた鴉の姿があった。エリオットはほっと胸を撫で下ろす。すぐ後ろでは一歩遅れて部屋を覗き込んだロランが息をついた。

 鴉は与えた服を身に付けている。男物の服は緩かったようで、袖口やウエストにはたっぷりと余裕があった。

「終わったなら早く出てこい」

鴉はエリオットの顔をちらりと見たあと、視線を伏せて大人しく指示に従った。歩みの音は静かだったが、その代わりに踏み出す足に合わせて鈴の音が転がった。先ほど鈴が鳴っていなかったということは、着替えを終えた後はその場で動かずにただじっと待っていたということだろうか。

 鴉はロランの隣、エリオットと向かい合うようにして立った。近くに来てみると、その背丈の小ささや身体の細さが際立って感じられた。鴉は女にしてもとても小柄だった。花屋での見立て通り、エリオットより少なくとも三十センチは背が低い。見下ろす頭の少年のように短い髪が目についた。

「本当に、何から何まで真っ黒だな」

北の民を初めて目にするエリオットは驚きを覚えずにはいられなかった。

 アンカーランドでもこの国でも、人々は皆日の光に映える鮮やかな目と髪を持っていた。しかし目の前の小さな女は、髪、目、眉から睫毛に至るまで、全てが深い黒色に塗り潰されている。額の傷にあてたガーゼは目がちかちかするほど白く見える。

「それで、これからどうするつもりだ?」

エリオットが尋ねると、ロランはまた困り顔になった。

「まさか何も考えてないのか?鴉がこいつかもしれないって、ある程度は予想してたわけだろ?」

「……どうしたらいいだろうか」

「だから俺に聞くなっつってんだろ」

エリオットは舌打ちをした。ロランは困惑の色を隠さなかったが、もはや怯える様子はなかった。

「私と、君たちの契約はこれで終わりということになるのか」 

「後始末をして、あんたが金を払えばな」

「後始末?」

「あの花屋だ」

エリオットはロザリーと至近距離で会話している。目がほとんど見えていないというのは事実のようだったが、あの距離で対面したことにはやや不安が残る。

「彼女をどうするつもりですか」

じっと黙っていた鴉が急に口を開いた。

「なんだ、気になるのか?お前には関係ない女なんだろ」

エリオットが冷たく言うと、鴉はきつく口を閉じて俯き、また黙り込んでしまった。

「ひとつあんたに宿題を出す」

長い間その単語に触れる機会がなかったのか、ロランは外国語を習いたての学習者のようにぎこちなく、宿題を出す、と繰り返した。

「確かめてくるんだ。あの女がさっきの騒ぎを誰かに知らせたのか、知らせるつもりはあるのか。あんたの部下があの女と親しいんだろ?そいつを使うなり何なり、どうにかして調べてこい」

「知らせていたとしたら?」

相手にもよるが、ロザリーが憲兵隊に通報していたとすればあまり好ましい展開ではない。今後の仕事の妨げにならないように、ロランにはもう少し働いてもらわなければならなくなる。エリオットがそう伝えると、ロランは指示を噛み砕いて飲み込むように何度か頷いた。

 部屋の奥では、ロジェが相変わらず黙ってソファに座っている。右手を口元にやって、目は斜め下をぼんやりと見ている。先程までのロランと同じ目だ。意識が記憶の中にどっぷりと沈んでいて、あの緑色の目が拾っている映像は彼の頭に届いていない。

 口を閉じると、静かになった部屋の中に紙を破き続けるような音が聞こえる。外はまだ雨だ。カーテンを少し開けると、真っ暗な窓ガラスに部屋の中の様子が映った。ガラスの向こう側を雨粒が次々と流れていく。外の冷気が隙間から入り込んで来ていて、窓際は余計に寒かった。

「止みそうか」

背後からロランが尋ねた。エリオットは振り返り、肩をすくめて首を振った。この様子ではもうしばらく降り続くだろう。

「……三時半か」

ロランはそう呟いて、時計から窓、玄関の順に視線を移していき、最後に鴉の横顔にゆっくりと降ろした。

「今出てったら馬鹿だぞ」

エリオットはロランの意図を透かし見て言った。せめてもう少し雨の強さが収まるまで待たなければ、濡れた服を替えた意味が全く失われてしまう。

「そもそも、そいつを連れて帰っていいのかよ。家には他に誰もいないのか」

「私だけだよ」

「この近くか?」

ロランは頷いた。

「ただ、あまり都合は良くないんだ。だから夜中のうちに、と思ったのだが」

「独り暮らしなのに都合が良くない?」

「家の中にはひとりなのだが、周りに人が多い」

「アパートか」

「ただのアパートなら良かったのだが」

「……まさか、軍の合同宿舎とか言うんじゃないだろうな」

ロランは完成度の低いごまかし笑いで返事に代えた。エリオットは大股でロランに近付き、その肩を指で突いた。

「いいかポンコツ、そういうのは"あまり都合が良くない"とは言わないんだ」

「……そうだな、非常に都合が悪い」

出来の悪い生徒に無理矢理答えを訂正させる気分だった。

「あんなところ、見つけてくださいって言ってるようなものだ。たとえ上手く連れ帰れてもそこで行き止まりだぞ」

出入りする者のほとんどは憲兵隊員や本部所属の職員だ。長く匿っていれば、人目に触れぬよう監禁するのでもない限りいずれその中の誰かに見つかることは避けられないだろう。そうなったとき、ロランが語った不安は恐らくそのまま現実になる。連続殺人犯であり北の民である鴉は、何だかんだと聞こえの良い理由をつけられて、目も当てられないような酷い仕打ちを受けるのだ。

「君の言う通りだ」

「他にあてはないのか。一時的にでもいい、これからどうするのか考える間、そいつを隠しておく場所とか、代わりに預かってくれる人間は」

ロランはうーんと唸って眉を寄せ、必死で考えを巡らせているようだった。そういうことは事前に考えておくべきだと頬をつねってやりたい気分だったが、腕を組んでそれを堪え、ロランのひらめきを待った。

「あてがあるとすれば」

しばらく考えたロランは、ふと溢した。しかしそれは思い浮かんだ良い考えを披露すると言うよりは、絡まった思考の一部がぽろりと口から出てきてしまったといった様子で、案の定、その中身も酷いと言うより他なかった。

「君たちかな」




 パレードの事前練習を終え、アルローはロランとともに塔へ向かっていた。昨晩降りだした雨は夜明けとともに止み、空は鮮やかに青く晴れ渡った。とはいえ、石畳にはたっぷりと水溜まりができており、それを避けるために蛇行しながら進まなくてはならない。空気は冷え込んでいて、吐き出す息が白く曇る。手袋をはめていても指先がかじかんで痛んだ。

「君は覚えが早くて感心するよ」

ロランが言った。頬が寒さに赤くなっている。目元がやや疲れているようにも見えたが、浮かべた優しい笑顔はいつも通りだった。

「私は今年でもう六度目なのに、結局毎年覚え直しになってしまう」

アルローが近衛隊の隊長になってからは初めてとなるサン・ソレイユ祭が、約二週間後に迫っている。

 サン・ソレイユ祭は六年前の北落征伐の成功を記念して行われるようになったイベントで、二ヶ月後の建国記念日とあわせて、国中が祝いのための明るいムードに包まれる。祭典の中心となるのは、いまアルローたちが歩いているこの大通りだ。征伐隊に参加していた者たちは隊が解かれたあと様々な場所に散ったが、一年に一度、この日のために集まって隊列を組み、パレードを行う。これがサン・ソレイユ祭の目玉だった。大歓声の中、四つの隊は大通りの南端から、北端の聖塔に向かってゆっくりと歩みを進めていく。アルローは近衛隊を連れて、その先頭を歩く。一番先に到着して、塔の最上階からソフィの手を引いて降りてくるのがその役目であるからだ。四隊が集合すると同時に、ソフィとアルローは塔の下部の教会を抜けて人々の前に現れる。

 その場面を何度思い描いてみても、その度に興奮と緊張で汗がにじんだ。本番に平常心を保っていられるのか、アルローは不安でならなかった。

「今年は百周年の記念式もあるから、頑張らないといけないな」

「緊張しますね」

今年、この国は建国から百年目を迎える。聖塔を中心に盛大な祝典が執り行われることになっており、アルローはここでも、ソフィに付き添って式に出席することになっている。ロランは近衛隊の指揮を執り警備に回るため、アルローは一人でその役目をこなさなければならない。国の百周年を祝う記念すべき日に、失敗は許されない。パレードと記念式、二つの大役を立派に務めることが、近衛隊の隊員たちからの信頼を得るきっかけにもなるだろうとアルローは期待していた。

「君はきっと上手くやれるさ」

そしてなにより、こうして背中を押し、励ましてくれるロランへの恩を返すために、与えられた役目をしっかり果たしたいと願っていた。

「そういえば」

塔に着く直前、思い出したようにロランが言った。

「君は今朝もソフィ様に花を買ってからパレードの練習に来たと言っていたね」

「はい」

「様子はどうだった。何か、変わったことは無かったか」

「いつも通りだったと思います。窓際に掛けていらっしゃって」

「ああ、いや、そうではなくて」

ロランはアルローの方を見ないまま言った。

「花屋の彼女だよ」

「ロザリーですか?」

昨日花屋の中を調べに入ったことを気にしているのだと思った。アルローも事件については気掛かりだったが、今朝のロザリーの様子には、特段の変化は見られなかった。敢えて挙げるとすれば、アルローが訪れたときにドアを開けるのをややためらうようなそぶりを見せたが、これは今日が初めてではなく以前にも似たようなことが何度かあった。目がよく見えない彼女が来客に対して過敏になるのは仕方の無いことだと思い、アルローはそれほど気に留めたことは無かった。

「そうですね、変わった様子はなかったと思います」

「鴉の事件について何か話していたかな」

「いいえ、彼女からはなにも」

「……そうか」

ロランはわずかに眉を寄せ、顎を撫でた。何か引っ掛かるところがあるという顔だった。

「あの、もしかして彼女に何か」

アルローは言い掛けた。しかし、その声は背後からの高らかな呼び掛けに阻まれた。

「見つけた」

驚いて振り返ると、そこには細身の少年が立っていた。三日月型の目が、猫に似た印象を与える。結んだ前髪が軽やかに揺れていた。

「また会ったね。まあ、偶然ってわけではないんだけど」

少年は満面の笑みでロランに語りかける。一方のロランは、表情がひきつっていた。様子を見る限り全くの初対面という訳ではないようだが、かといって、こうして声を掛けられたことを喜ばしく思える関係でもないようだ。

「あれ、もしかして困ってる?」

少年は片眉を上げ、困惑するロランをからかうような口調で言った。いたずらっ子のような目線の中に、大人びたミステリアスな雰囲気が混じっている。

「ねえ、昨日、あの後どうなった?結局、から」

「ち、ちょっと待った!」

何かを言い掛けた少年をロランが慌てた様子で遮った。

「すまないがまた今度にしてくれないか。頼む、今は困るよ」

すると、少年はへえ、と言ってまた笑みを深め、今度はアルローに視線を寄越した。目尻の長いまつげが揺れるのが見えた。

「なるほどね、このお兄さんがいるのはまずいってわけだ。昨日の話は、この人にも言ってないの?」

「昨日の話?」

アルローが聞き返すと、ロランの表情はさらに焦りの色を増した。

「違うんだ、大尉」

「ふーん、やっぱり秘密なんだ」

「違う、ヤン、待ってくれ」

「違うの?なら話しても良いんだね?」

「それは」

「困る?どっちなの?」

アルローを置き去りにして、少年は次から次へ言葉を投げつける。三人は立ち止まっていたが、後ずさりするロランに向かって少年が早足で距離を詰めて行くのを見ている気分だった。少年はわざと混乱と焦りを煽るような話し方をして、戸惑うロランの様子を楽しんでいる。自分が主導権を握っていることを相手に分からせるための会話だ。時おり"昨日"という単語をちらつかせ、隣に立つアルローをも利用して、少年はロランを上から見下ろそうとしている。そしてそのやり口に、ロランは完全に振り回されていた。

「ちょっと、君」

アルローは見兼ねて声をあげた。しかし、そのとき同時に、誰かが少年を呼んだ。少年が反応したのは、後者に対してだった。

 アルローとロランもつられて声の方を見る。こちらに向かって歩いてくる若い男の姿があった。男は長身で、遠目にもスタイルが良いのが分かる。キャスケットを目深に被り地味な色のコートを着ていたが、通りを行く人々から浮き上がって見えるような凛々しさがあった。男は両手をポケットに入れたまま長い足を大きく踏み出して、あっという間にアルローたちの元へやってこようとしている。

「あーあ、また見つかっちゃった」

少年は肩をすくめた。表情を崩すことはないが、その端には心なしか緊張が滲んだように見える。

 男は傍まで来ると、少年の腕を掴んでやや乱暴に自分の方へ引き寄せた。少年が当て付けのように痛いと喚いても、男は少しも気にする様子を見せない。

 男の登場にロランは混乱を加速させているようだったが、しかし彼ともまた、初対面というわけではないようだった。状況を掴めていないのが自分だけだと分かると、途端に背中の奥から不安と疎外感が染み出してくるのを感じた。

「ご迷惑をお掛けしてすみませんでした」

男はロランとアルローに向かってそれぞれ会釈をした。ロランは何かを言いたげだったが、男が顔を向けるとそれを飲み込むように口を閉じた。男は続けてアルローの方を向いたが、やや俯きがちなその顔はキャスケットの影になってよく見えなかった。唯一陰りを免れている形の良い唇は、穏やかそうな微笑みを形作っている。

「うちで預かってる子なんですが」

アルローが訝んでいるのに気付いたのか、男は丁寧な口調で言った。

「目を離すとすぐこうで。昨晩もこちらの憲兵さんにはお世話になったんです」

男はロランを手で示した。

「夜中にひとりでふらふらしていたところを保護していただいたんですよ。本当に助かりました。近頃は物騒ですからね」

「この辺りは鴉が出るから危ないんだよね?そうだよね、憲兵さん」

腕を捕まれたまま少年がロランを見上げた。鴉という言葉を不自然なほどに強調したその言い方には、どこか仕返しめいた響きを感じた。

「分かっているなら反省することだ」

ロランが答える前に男が言った。

「注意を受けたことを逆恨みしてこんな風にお仕事の邪魔をしてはだめじゃないか」

「お仕事の邪魔をされて怒ってるのはどっちかな?」

「からかうのはやめなさい」

「俺は大真面目さ」

男は少年の挑発的な態度にも動じなかった。言い返すことを諦めたのか、小さくため息をつき、またすみませんと言ってアルローたちに頭を下げた。

 男が少年の腕を引いてその場を去っていくとき、帽子に隠れていた男の顔が覗いて見えた。若々しく、清明な顔立ちをしていた。豊かな金色の睫毛を携えた目元は、甘い、という表現がよく似合う。美しい男だ、と思った。その姿は強引なまでにアルローの視線を捕らえて離さなかったが、その一方で男はやって来てから去っていくまでの間、結局一瞬たりともアルローに視線を向けなかった。


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