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鴉の虹彩  作者: ちがみ
1/13

1-1

角を曲がって通りに出た途端、初冬の冷たい風に運ばれた血の匂いがロランの鼻をついた。早朝の街はようやく明るくなってきたばかりだったが、大通りには人だかりができている。話題の連続殺人の現場を間近に見ようと集まった人々が、押し合ったり背伸びをしたりしながら通りの真ん中に目を向けていた。ロランは、その中を押し潰されそうになりながら潜り抜けなければならなかった。立ち入りの規制をかけている憲兵のひとりが四方から揉まれるロランを見つけると、慌ててその体を野次馬の波から引き出した。

「ああすまない、ありがとう」

ロランは崩れた軍服の襟を正して礼を言った。その姿を見つけた他の憲兵たちは、すぐさま礼儀正しく敬礼をした。ロランは控えめに敬礼を返してから、開けた現場に目を移した。通りの真ん中に灰色の布が被せられた遺体が転がっている。遺体の周りには赤黒い血溜まりが円状に広がり、その円の縁は石畳の凹凸に沿って奇妙な模様を成していた。遺体との距離を一気に詰めたためか、先程より強く鉄臭さを感じてロランは顔をしかめた。

「ロラン中佐!」

ロランに駆け寄ったのは部下のアルローだった。アルローは軍帽を取って丁寧に礼をした。

「お呼び立てしてすみません」

「いや、御苦労だったね、大尉」

そう言ってロランが肩を叩くと、アルローは細い目の端に皺を作って笑った。

「さて、すまないが状況を教えてもらえるか」

「はい」

アルローは遺体発見の経緯を話した。通りを歩いていた男性から通報があったのは一時間ほど前だった。塔に泊まり込みで警備の仕事をしていた大尉とその部下の憲兵たちが現場に駆け付け、血まみれの遺体を発見した。

「まだ検死前なので正確な時間帯は分かりませんが、犯行は昨晩だと推察されます。手口はこれまでと同様、何らかの鋭利な刃物で頸部を切りつけて殺害した後、両眼球をくり貫いています。……遺体、ご覧になりますか」

ロランが頷くと、アルローは灰色の布を静かに上げてみせた。野次馬たちには中が見えない角度で、遺体が露になる。ロランはアルローの背後から覗きこんだ。そこには暗い洞穴のような眼窩をもつ血まみれの男の姿があった。首筋には深い傷が刻まれている。布の中にこもっていた血の匂いが流れ出て、ロランは僅かに噎せた。

「今回は随分傷が多いんだな」

男の頬や腕には無数の切り傷がついていた。

「ええ、珍しいですね。いつもは一撃なのに」

ロランはアルローに布を戻させた。

「犯人の遺留品などはなかったか」

「それは今回も無しです。ですが、昨晩現場近くを通りがかかったという方がいまして」

アルローは憲兵の傍に立つ一人の女性を示した。

「あちらのご婦人なのですが、なんでも、犯人と被害者の争うところを」

「見たのか?」

「いえ、……音を聞いたと」

「音?」

アルローは頷いて、女性をロランの元に連れてきた。気の弱そうな初老の女性だった。

「ご協力いただけて助かります、マダム」

アルローは軍帽を少し上げて会釈した。

「昨晩どちらに?」

ロランが尋ねた。

「娘の家から帰ってくるところで、日付をまたいでからいくらか経っていたと思います、この大通りの隣の、細い方の道を歩いていました」

女性は手を揉みながら答えた。皺の入った、色の白い手だった。

「それで、そのときにどんな音をお聞きになったのですか」。

「はじめは、大通りの方で何かが落ちるような音がしました。高いところから地面に、何かが。そのすぐあと、男の人が大声で怒鳴ったんです。だから私、驚いて、そんなつもりはなかったのに立ち止まって聞いてしまったんです」

「内容は分かりましたか?」

「はっきりとは分かりませんでした。でも、このやろう、とか何するんだ、とかそういった類いのことだったと思います。そのときは喧嘩だと思いました」

「声は二人分ですか」

「いいえ、一人です。声は怒鳴った人のものしか聞いていません」

女性が首を振ると、白髪の混じった前髪が揺れた。

「そのあと、人が倒れるような音が何度か聞こえました。そのすぐ後に、また男の人が叫ぶような声がして、巻き込まれたらと思うと怖くなって走って逃げたんです。だからその後は分かりません」

ロランとアルローが女性に礼を言うと、女性は会釈をして元々いた場所に戻っていった。

アルローは帽子をかぶり直し、ロランは腕を組んだ。

「声はおそらく、被害者のものだろうな」

「ええ。ただ、はじめの"何かが落ちる音"というのが気になりますね」

「そうだな……」

ロランは顎を撫でて、小さくため息をついた。

「とりあえず検視にまわしてくれ。まずは身元の確認を頼むよ」

「分かりました」

アルローは礼をしてからロランの元を離れ、憲兵たちを集めて遺体を運び出す準備を始めた。遺体の頭部と脚を二人がかりで支えて持ち上げると、地面から浮いた背中から固まりかけた血が雨のように幾筋もゆっくりと垂れていく。担架からは血まみれの手が力無くこぼれた。使い古された担架には黒ずんだシミが幾つも付いていた。

遺体が運ばれていく様子を見送って、ロランが本部に戻ろうと踵を返したとき、先程の女性がロランに駆け寄ってきた。

「憲兵さん、待ってください」

「どうなさいましたか」

「言い忘れていたことが」

女性は服の裾を触りながら言った。

「どのようなことですか」

「私、あのとき鈴の音も聞いたんです」

ロランは眉をひそめた。

「鈴?」

「ええ、それも一つではなくて、五つとか六つとか、それくらいの数が鳴っていたと思います」

ロランは、鈴、と小さな声で再び呟いて、目を伏せて考え込んだ。脳裏で小さく鈴の音が響く。何かの知らせのようなその音が、記憶を鮮明に呼び起こした。燃えさかる集落、夥しい数の鈴の音、雪の夜の暗い森。頭痛を伴って、六年前の記憶が温度や匂いまで明確に蘇る。

「あの……憲兵さん」

女性の声にはっとしてロランは顔をあげた。

「変なことを言っていると思われるかもしれませんが、本当なんです。どうか信じてください」

女性は不安そうに言った。

「一度目に人が倒れるような音がした後、鈴の音がしたんです。それから私がその場から逃げるまで何度も聞こえました」

「貴女が最後に聞いた、叫び声の後もですか」

「ええ、そうです」

男が襲われた後も鳴っていたということは、犯人の音である可能性が高かった。ロランは女性の肩にそっと手を置いた。

「ありがとうマダム。私に教えてくれて感謝します」

ロランの頭の奥で、夜の闇のような双眸が鈴の音とともにゆっくりとまばたきをした。


 ロランは本部に戻り、書類をまとめていた。現場で見聞きしたことやこれまでの関連事件を反芻しながら、ペンを走らせる。暫く書類を書き進め、鈴の音を聞いたという女性の証言を記入しかけたところで、ロランは思い留まって手を止めた。女性は鈴の話をロランにだけ話した様子だった。犯人と鈴の関連は、ロランしか知らない。

 ロランは胸元から黒い小さな手帳を出して開いた。その表紙に挟んであった赤い飾り紐に目を落とす。飾り紐は所々焦げて黒ずんでいた。

「まさか、君なのか……?」

ぼそりと呟いたところで、扉がノックされた。ロランは急いで手帳を閉じ、返事をする。やって来たのはアルローだった。時計を一瞥すると、針は午後四時を回った頃だった。

「ロラン中佐、御苦労様です。コーヒー淹れましたのでどうぞ!」

白いカップに注がれたコーヒーからは湯気が立っていた。ロランは礼を言って受けとり、よく冷ましてから一口啜った。

「美味しいよ、ありがとう」

アルローは嬉しそうに笑った。

「検視にはまわせたか」

「はい、鴉騒動の担当官に」

「そうか、良かった」

「それで、ひとつだけ、取り急ぎ調べてもらったのですが」

ロランはカップを机に置いた。

「また、麻薬常習の形跡が見られました」

アルローは左手で持っていた資料をロランに差し出した。資料にはこれまでの被害者の情報がまとめられていた。一番上に重ねられた書類にはほとんど記入が無く、写真を張り付ける欄も空白のままだった。

「やはりこの線で辿って行く他無さそうです。被害者の年齢、性別はバラバラですし、殺人の周期も一定ではありませんから」

「そうだな。一年前から突然始まって、これでもう五人目か」

「ええ、ですが、妙です。あれだけの殺し方をしておきながら、標的があまりに漠然としていて、ほとんどが麻薬中毒であること以外に繋がりが見当たりません。動機は、怨恨ではないのでしょうか、それとも彼らには、何か隠れた繋がりが……」

アルローは眉を寄せて視線を落とした。ロランは暫く資料に目を通してから、顔をあげてアルローの腕を軽く叩いた。

「ともかく、調べるのはまた明日からにしよう」

難しい顔をしていたアルローは拍子抜けしたように何度かまばたきをした。ロランはアルローの顔を見て表情を柔らげた。

「君は今日はもう帰ると良い。ここのところ忙しくてあまり寝ていないだろう。私は今日は遅くなりそうだから先に行きたまえよ」

ロランは机の上に嵩んだ書類を示して笑った。

「そんな、とんでもないことです。お手伝いします、私にできることなら何だって」

「いや、いいんだ。ありがとう、君は優しいね」

ロランは椅子から立ち上がると、アルローの肩に手を掛けてくるりと向きを変えさせた。そしてそのまま背中を押して、ドアの方へ歩かせる。

「こ、困ります中佐!」

「君に倒れられたりしたら私が困る」

「これくらいでは倒れません」

「サン・ソレイユ祭が近いのだから、休めるうちに休みなさい」

「でも」

「明日私は塔に行くのだが、君もたしか、また塔の警備だったね」

「はい、そうですが……」

アルローはいつの間にか、ずるずると部屋から出されていた。

「ではまた明日、塔で」

「ま、待ってください中佐!」

ドアを閉めようとするロランを間一髪のところで制止して、アルローは深々と頭を下げた。

「あの、お気遣い感謝します!」

ロランは笑って、また明日、ともう一度言ってドアを閉めた。


 ロランが仕事を終えたとき、見上げた時計の針は十一時を指そうとしていた。机に広げていた書類をまとめて封筒に入れ、息をはきながら伸びをした。結局、鈴の証言は書かないままにしていた。

机の上に置かれた空のカップを手に取り、立ち上がる。帰り支度をする前に洗ってしまおうと、ロランは部屋を出た。

 廊下には、見る限り人は誰もいなかった。所々明かりがつけたままにしてあるが、足音や話し声は聞こえず、とても静かだった。

 ロランは食堂のある三階へ階段を降りていく。規則正しい足音が薄暗い階段に響いては消えていった。

ロランの目が人影を捉えたのは、四階に差し掛かったときだった。廊下を慌ただしく、しかし限りなく静かに駆けていく影に、ロランは一抹の不信感を抱いた。ロランは僅かに逡巡したが、すぐに足音を立てないようにその影が駆けて行った後を追いかけた。その男は廊下を早足で進んでいく。気付かれないように距離を置きすぎたせいで顔を見ることは出来ないが、後ろ姿にもはっきりと目立つ金色の髪が目に焼き付いた。正規の軍服ではなく、白いワイシャツとネイビーブルーのスラックスを身に付けている。男は小柄で、華奢な体つきをしていた。見た目には軍の人物かどうかさえ分からない。金色の髪からして、男がこの国の人間ではないことは明らかだった。もう少し近付いて男の様子を伺おうとしたとき、男が不意に立ち止まった。気付かれたのではないかという不安がロランの心臓を突き刺した。急いで周りを見回すが、真っ直ぐな廊下の脇に部屋が並ぶばかりで、身を隠すにはドアを開けて部屋に入るしかない。しかしドアを開ければその音で気づかれてしまうかも知れなかった。走って戻るにも時間が足りない。ロランには、その場で立ち止まるより他無かった。どうせ見つかるのならば自然な様子でいたほうがましだ、と自らに言い聞かせ、男の動きに注視した。すると、ロランの心配をよそに、男は振り返ることなく静かに廊下の右の部屋に入っていった。ドアがしまる音を確認して、ロランはため息をつく。冬だというのに、背中を汗が流れていくのを感じた。それから男の入っていった部屋を確認しに行くと、ロランの不信感はさらに強さを増した。金髪の男が何者なのかは分からなかったが、ロランには、彼が許可を得てこの部屋に入ったとは到底思えなかった。ドアには小窓が無く、中の様子を窺うことは出来ない。ロランは音を立てないようにドアに耳を当てた。息を止めて耳を澄ますものの、中の音は何も聞こえない。今ここで部屋に入って彼を問い詰めるべきなのかどうか、ロランには分からなかった。本部に残っている人間がほとんどいない時間を狙ってこの部屋に忍び込んだのならば、いま中で行われていることは隠さなければならないような性質のことであるはずだった。しかし、男が凶器を携帯していることは容易に推察される。左手のカップ以外に何も持たないロランには抵抗のしようがなかった。ロランはドアに耳を当てたままの姿勢で悩んでいた。手に汗が滲む。せめて中の男が何をしているのかだけは確認しなければならないという義務感と、相手の手の内が分からない恐怖が拮抗する。頭のなかを同じ障害がぐるぐると駆け巡り、ロランはあまりに考えることに集中しすぎていた。

 突然、部屋の中で本が落ちるような音がしたとき、ロランは驚いてカップを持つ手を滑らせた。ロランの手を離れたカップは高い位置から床にぶつかり、砕けて、甲高く大きな音を廊下中に響かせる。その直後、部屋の中で拳銃の遊底を引く音がした。部屋の中に確かな敵意と殺気を感じ、さっと血の気が引いていく。首筋が寒くなり、指先が痺れる。足が固まって動かなくなる前に、ロランはなんとか駆け出した。ドアが開く音を聞いたのは、ちょうど廊下を曲がって階段に差し掛かるところだった。男がロランの後ろ姿を見たのかどうか、ロランには分からなかったが、今はただ階段を駆け降りるより他に選択の余地はなかった。男は銃をもっている。対抗する術は今は無い。一階まで降りたところで、ロランは後ろを振り返った。男が追ってくる気配はない。階段を降りる足音も聞こえない。ロランの洗い息づかいだけが暗い階段に染みていく。心臓が速い鼓動を刻むのは走ったせいだけではなかった。ロランは荷物を六階に置いたままだったが、戻ることはできそうになかった。しばらく悩んだが仕方なくそのまま本部を出ることにし、早足でその場をあとにした。

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