桶狭間の戦いで、織田軍はどうして義元本陣まで行けたのでしょうか?
最近、改めて桶狭間の戦いについて考えています。
従来の奇襲説は現在では完全に否定されています。
ネット上に有る信長公記の現代文には、織田軍が「桶狭間の山際まで’密行’した」などと訳されている物もあり、それを読むとやっぱり奇襲なのか? と、一瞬思いますが、信長公記の原文には密行などとは書かれておらず紛らわしかったりもします。
結局、信長公記から分かるのは
①信長が出陣したのは、鷲津砦・丸根砦が囲まれたとの報が入った(て)から。
②まず善照寺砦に入って陣容を整えた。
③信長が善照寺砦に入ったのを知った佐々隼人正らが300人ほどで義元に向かって(本陣に向かってか?)攻めるが、50騎程討ち取られて敗退。
④信長、敵から丸見えにも関わらず中島砦に移動。
⑤桶狭間(山)の義元本陣まで近寄ったところで大雨が降る。
⑥雨が止んだ後に突撃を開始すると義元本陣が崩れ、更に追って義元の首を討ち取る。
この中で不思議なのは、①と③と④と⑤です。
②と⑥は、それぞれ、そうしたんでしょう。そうなったんでしょう。としか言いようがないです。
ちなみに大前提として、私は『桶狭間での信長の言葉』でも書かせて頂いたとおり、信長は義元本陣の位置を把握していたと考えています。
そもそも奇襲説とは、小瀬甫庵『信長記』を元にしています。しかし、信長公記には『信長記』にある簗田出羽守が義元本陣の位置を探ったなどの記述はなく、奇襲説は否定されています。ですが、逆に、奇襲説を否定するのに引き摺られ、義元本陣の位置を信長が知っていたという事も’ついでに’否定されてしまっているのではないでしょうか。
義元本陣を探った記述がないのだから、義元本陣の場所を知らないはず。という事です。
ですが、そもそも、本陣は敵に隠すものなのでしょうか? 本陣とは、馬印を掲げ、敵味方に、我こそはここにありと宣伝するものなのではないでしょうか? 勿論、劣勢の時には隠すでしょう。(三方ヶ原や大阪夏の陣の家康の様に)。ですが、今川勢は圧倒的に優勢でした。
実際、義元は敵味方から見えやすい桶狭間山という高所に本陣を構えています。当然、馬印も掲げ、義元本陣を間違えようがないでしょう。つまり、特記する必要のない常識的な索敵をすれば義元本陣の位置は分かるのです。信長公記にも、義元の本陣の位置など、当たり前の情報として記述されています。
そして次に、私自身を含め、当時の合戦の常識、習慣というものを理解できていないのではないでしょうか。
壇ノ浦の戦いで源氏と平家が戦った時、源義経は敵船の漕ぎ手を狙います。船を操る者が居なくなり敵船は大混乱です。私達から見れば、当たり前の作戦とも思われますが、平家の者どころか味方である源氏の武士からもそんな非常識なと言われました。
海外の話ですが、クロスボウ(滑車で引く威力の強い弓)という武器が使用禁止になりました。理由は、致命傷を与えてしまうことは、生け捕りにして身代金を要求するという当時の戦争のやり方にもそぐわない物だった為です。当然、それほどの武器ならば使った方が勝てるのにです。
私達からみて、こんなこと当たり前だよね。こうやったら勝てるよね。という行動が、当時の人々から見れば予想外、非常識だったりするのです。
そして私が考えるのは、当時の軍勢(各部隊)は、臨機応変に他の部隊と連携し主体的に動いたりはしない。のではないかという事です。やれてといわれた任務をこなす。これだけを動き、それ以外の動きは命令を待つ。よくてお伺いを立てに行く。私達から見て、こうやったら勝てるのに、ということをしないのです。
勿論、真横に居る味方が攻められていては助けに行くでしょう(自分も巻き添えになるので)。ですが、数キロ先で戦っている味方には、よし! 命令はないけど救援に行こう! とはならなかったのではないのか。
つまり、当時の軍勢(各部隊)は、命令されたことをするだけ。
上記のことを踏まえて、①と③と④と⑤を考えてみましょう。
まず①です。敵の前衛が鷲津砦・丸根砦を囲ったという事は、彼らへの命令は「鷲津砦・丸根砦を落とせ」です。これによって信長は、鷲津砦・丸根砦の救援に’行かなければ’彼らと戦わずに済むことを知ります。
次に③です。鷲津砦・丸根砦を落とした敵を無視し、義元本陣と戦う為に善照寺砦に入った信長ですが、ここである確認をする必要がありました。その為に、佐々隼人正らが、義元本陣に攻めかかります。そして、佐々隼人正らは、めでたく義元本陣に破られました。
義元本陣を救援に来た今川勢に破れたのではなく、義元本陣に破れた。つまり、義元本陣が敵に攻められた時に、’義元本陣を救援に行く’という命令を受けた敵部隊は存在しないのが確認できたのです。
④です。でも、300人ではなく、2千人なら敵の動きも変わるかも知れません。何せ、中島砦に2千の軍勢が動くのは敵からもよく見えるのです。ですが、敵は動きません。中島砦を攻めるなんて命令も、義元本陣に向かう敵を迎撃しろとの命令も受けてないからです。(中島砦に向かっただけならば、そこから2千の織田軍が義元本陣に向かうとは思わなかったのかも知れませんが)
しかし結局⑤で、織田軍が桶狭間(山)の義元本陣に近寄って、大雨が降り、それが止む頃になっても、他の今川勢は義元本陣の救援には来ませんでした。その結果、織田軍と義元本陣の一騎打ちとなり信長の勝利となりました。
ですが、ここで一つ大きな疑問があります。今川義元は桶狭間の戦いで敗れた為、愚将といわれる事もありますが実際は名将だったと言います。それにも関わらず、上記の説明ではあまりにも配慮不足に感じられます。本陣を狙われるという事を全く考えていなかったことになるのです。(考えていれば、本陣が攻められたときには救援に来るように命令を出しておくとか、もっと本陣近くに他の部隊を置くなりしています)
そして更に、信長公記の記述を信じれば、義元本陣の兵達は、織田軍が攻めてきたのを見て、それだけで慌てふためき逃げ出しています。
つまり当時の合戦として、前衛の部隊を無視して直接本陣に攻撃を仕掛けるのが、それほど非常識でありえないことだったと言えるでしょう。
勿論、兵士達に限って見れば、こっちの方が数が多いのだから織田軍の方から攻めてくるはずがないと、戦う心構えがないところを攻められ逃げ出したのかも知れません。ですが、本陣を狙われることを義元が全く考えてなかったのは、やはり、本陣直接攻撃は当時としては非常識だったからだと考えます。
そして、その義元の常識的な行動の確認をしたのが信長の動きなのです。
つまり、信長が一生懸命探っていたのは、義元本陣の位置ではありません。信長が一生懸命探っていたのは、義元本陣が孤立しているかどうかです。
***************** 2015/1/4 追記 ***********************
PS
そういえば、③の佐々隼人正らが300人ほどで義元を攻めるというのが、従来説ではただの自殺行為にしか見えず意味不明といわれているそうです。
とりあえず、前線まで出て来た信長に良いところを見せたかったのではないか、義元を油断させる為ではないかとも言われているそうですが、奇襲するわけでもないので油断も何もない気がします。
ですが、一応今回の私の説では、③にかなり重要な理由があったとしています。その意味ではタイトルは「どうして義元の本陣までいけたのか」ではなく「どうして佐々隼人正は僅か300人で突撃したのか」にすべきだったかも知れません。
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