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夢の彼方と君の六割

作者: 夏野ほむわ

 夏休み最終日の宿題の手を止めて、家の奥深くにある古びた大きな本棚の一番上にある本を手に取った。八月が終わる頃に何としてもその本を読みなさいとおじいちゃんに言われていたのを思い出したからだ。僕はその本を開いて本棚の上に座りながら読み始めた。その本にはとある夏の日のことが書かれていた。しかし僕はここ最近の寝不足から来るにわか雨のような睡魔に襲われて、うとうとと首を浮き沈みさせ、やがて深い眠りに吸い込まれた。


 僕が意識を取り戻して顔を起こした場所は、薄明るい学校の教室の中だった。パッと目に飛び込んできた日捲りのカレンダーは八月三十一日を映していた。ヒラヒラと音を立てるようにゆったり風に揺れる蒼いカーテンが窓からの光を六割ほど遮断しているが、それでもただ座っているだけなら十分な明度だった。見回した教室の風景は、どこか懐かしいような、それでいて僕には一切覚えがないものであった。クラスメイトの顔もよく見てみたものの、誰一人として顔見知りはいなかった。黒板には大きく「自習」と書かれているが、真面目にペンを運ばせているのはほんの数人、あとは皆自由に喋り続けていた。

 僕は隣で真面目に勉強しているポニーテールの女の子に恐る恐る「ここはどこなんだい」と訊いた。彼女は一つ深い溜め息をついてから鬱陶しそうに「あんた馬鹿なの。ここはどこって教室じゃない。集中してたんだから冗談なんか言って邪魔しないでよ」と言った。僕は臆しそうになったが、彼女がノートに一生懸命に書いているのが数学の公式でも英語の和訳でもなく小説であることがわかると、どうしても訊きたくなって我慢できずに訊いた。

「君は小説を書くのが好きなんだね」

 彼女は僕の目を二秒見ると顔を真っ赤にしてノートを閉じ、「見ないでよエッチ」とかなり大きめの声で言った。後ろの席から男子同士の囁く声が聞こえてきそうだったが、どうせ知らない人であることはわかっていたから、特に気にも止めなかった。しかし、僕は相手のことなど知る由もないが相手は僕のことを知っていて、彼らの記憶の中には僕だけが知らない「僕」がいるはずであるということも忘れてはならなかった。その「僕」にも周囲からの評価があっただろうし、それを僕が壊すわけにはいかない。下手に喋ったり動いたりしない方が「僕」は助かるはずなのだ。

「僕じゃない僕がいるんだな」

 ポニーテールの女の子は僕のどうでもいい独り言に反応し、まるで馬鹿にするような口調で「ねえあなた、本当におかしくなったんじゃないの。先生呼ぼうか?」と言った。

「いいや、構わないよ。僕は普通だ。それよりも君の書いた小説が読みたいな」

 ポニーテールの女の子はほんのり赤くなった顔を逸らし「い、嫌よ、どうしてあなたなんかに読ませなくちゃいけないわけ?」と言った。

「僕、わかるよ。今君はとっても嬉しいはずだよ。僕も小説を書いていたことがあるから、誰かから読みたいと言われたときの喜びは本当によくわかる」

「うるさいわね、こんなの遊びよ。小説って言っても純文学じゃあるまいし――」

「純文学じゃないのか。なら読まなくてもいいや。」

 僕が言った言葉は彼女の胸にぐさりと刺さったらしく、「え」と弱々しい声が彼女の小さくて麗しい口元から漏れた。

「ほら、やっぱり読んでほしかったんだね。君の小さい顔がそう言ってるよ」

「あなたまさか、読まなくてもいいやって冗談で言ったの?」

「もちろん」

 ポニーテールの彼女は「もう、何て酷いからかい方するのよ」と言って溜め息をついた。

「じゃあ、読ませてよ」

 ポニーテールの彼女は僕の方を見ずに、「仕方ないわね」と言いながら執筆していたノートを左手で渡してくれた。

「ありがとう」

 僕はそのノートを開き、そこにびっしりと書かれていた文章を読み始めた。その小説は、過去にタイムスリップした女の子が現代ではすでに死んでいる男の子に恋をするという筋の短編だった。淡く切ない十代の恋愛と絡み合うようにして、いつか現代に帰らなければならない女の子の複雑な気持ちが比喩表現と色彩が与える効果によって情緒豊かに描かれていた。

 十五分ほどでその小説を読み終えてノートを閉じると、ポニーテールの彼女は「ねえ、どうだった?」と興奮したような聞き方で僕に訊ねた。僕は「すごくよかったよ。特に主人公の女の子が現代に帰る直前の描写とか、真夏の日陰にある金属みたいな冷たさがあって感動したね」と言った。

「本当にそう思ったの?」

「もちろん。この作品はほぼ純文学じゃないかな。例え世界中の人がこの小説は駄作だと言ったとしても僕はこの作品は九割九分完成されていて素晴らしいと言い続けるよ」

「そういうのってとても嬉しいんだけど、どうしてもお世辞に聞こえちゃうのよね」

「どうして?」

 ポニーテールの彼女は酷く落ち込んだような顔をして答えなかった。

「僕でよければ話を聞こうか?」と僕は言ってみた。ポニーテールの彼女は「いいの?」と儚げな乙女のような目で僕を見た。

「もちろん。でも、そういう目を突然するのはやめようね」

「ありがとう。じゃあ、今日の放課後に三階の図書室に来て。今日は誰もいないはずだから、約束だよ」とポニーテールの彼女は言った。

 不意に、窓からかなりの強風が注ぎ込まれ、教室の蒼いカーテンが大きく膨らんだ。風に乗ってポニーテールの彼女の髪の毛からとても甘い匂いがした。僕はそれを自然に嗅ぎながら風を避けるように目を閉じ、長かった風が止むと僕はゆっくり目を開けた。


 目を開けると、僕はどこかの喫茶店らしいシックで落ち着いた場所にいて、さらに僕はスーツを着ていた。僕は不思議と混乱したりせずに、隅にある二人用の小さなテーブルで一人、ミルクは入っていないが砂糖が一個入ったくらいのほどよい苦味のコーヒーを飲んでいた。場所こそ変わってしまったものの、ポニーテールの彼女が書いた小説を読んだことだけは鮮明に覚えていた。「恋の傀儡」という題名のそれを読み終えたときに感じた滑りのある爽やかさはまだ心の表面に残っているのに、ポニーテールの彼女も僕がいたはずの教室もどこかへ消えてしまった。それと引き換えに僕は、自分の舌にぴったり合うコーヒーと黒いタブレット端末を手に入れたのだ。そのタブレット端末の大きな画面に目をやると、一通のメールが届いていることに気づいた。僕はコーヒーカップを持っていない右手で画面に触れ、メールを開いた。そのメールには絵文字が所々に散りばめられ、今日の晩御飯は何が食べたいかという旨の簡単な文章が書かれていた。しかし、僕はその差出人の名前を見たことも聞いたこともなかった。「ちかちゃん」とだけ記された差出人の名前やメールの内容、それから僕の左手の薬指にはめられた銀の指輪から察するに、恐らくメールの相手は僕の妻だ、とわかった。だが僕にはメールをする女友達なんていないし、ましてや「ちかちゃん」と呼ぶくらい仲のいい女性の知り合いなんていた記憶がない。

「変なところに来たな」

 僕が無意識に口にした独り言は、髪型をしっかりセットした若い男の店員の耳に届いてしまったらしく、僕は勘違いされたのではないかと不安になった。

 しかし僕はまた僕の知らない「僕」になってしまったようだった。この喫茶店のような場所は一体どこなのかという疑問類が脳内の六割を占め、残りの四割はただぼうっとそこにあるだけだったのだ。タブレット端末の画面右上に映された時刻は午後二時二十四分で、日付は八月三十一日だった。

 僕はいい苦味のコーヒーを飲み終えるとすぐに立ち上がり、会計に向かった。レジに人は立っておらず、僕は店員の誰かが気づくまでおよそ二分間待ち続けた。ようやく一人の女性店員が僕に気づき、小走りでレジに近づくと「大変お待たせいたしました」と言った。僕は「いいえ。全然待ってませんよ」とまるで女性とデートの待ち合わせをしたときの決まり文句のような言葉を口にした。その女性店員は「アイスコーヒーのブラックがお一つで、お会計三百五十円になります」と言って僕の顔を見た。それとほぼ同じようにして僕もその女性店員を見た。そして僕は会計の女性店員に見覚えがあることに気づいたのだ。

「君はもしかして、小説が好き?」と僕が訊くと彼女は「はい、好きですよ」と答えた。

「君って実は、小説を読むより書く方が好きだったりしないかな」

 彼女はしばらく黙っていたが、ふと何か思い出したような顔をして「あなたもしかして、私が書いた小説を読んだ人ですか?」と言った。

「はい。確かその題名は――」と僕がいいかけると彼女は「恋の傀儡」と言った。

「ああやっぱりそうでしたか。あなたはあのポニーテールの作家さんですね」と僕は言った。

 彼女は「今はツインテールですけどね」と言うと故意的に髪を揺らした。すると鼻に覚えのある甘い匂いが僕の方に流れてきた。とても懐かしい感じがした。

「髪の束が一本増えたんですね。よかったです」

「あなたは何も変わっていないわね。そうだ、今日は特別にコーヒーの代金を六割引きにしてあげるわ」

「どうして六割引きなの? 五割引きでは駄目なのかい?」

「あら、あなたが五割引きにしてほしいと言うなら別にそれでも構わないのよ、どうする?」

「喜んで六割引きにさせてもらいます」

 彼女は優しそうに笑った。そして「では六割引きにして、百四十円です」と言った。

 僕は丁度百四十円を払い、その店をあとにした。ふと振り返ると、店名が粋に描かれた看板が飾ってあった。

「ラブ・マリオネットだなんて、随分と洒落た名前の店で働いてるね、ツインテールの作家さん」

 僕は独り言を呟くと、どこへともなく歩き出した。


 僕はその後タブレット端末に送られてきたメールを見て日が暮れるまで行動した。恐らく僕はどこかの会社で健気に働くサラリーマンであるらしい。けれどそれ以外に僕を特定する手がかりはないのだ。夏休みの最終日に宿題をして、それを途中で止めて本を読んだのは覚えていた。そしていつの間にか知らない教室にいてポニーテールの彼女の小説を読んだことももちろん、ツインテールになった彼女に会ったこともまるで数分前のことのように思い出せた。僕は一体、どこへ来てしまったというのだろう。

 その日は日付が変わる前にホテルを予約し、日付が変わる頃にチェックインして「六十」という筆記体の算用数字が箔押しされたカードキーを受け取った。帰るべき家がどこにあるかわからなかったし、帰るべきではないと思ったからだ。ホテルの六十番の部屋に入ると「ちかちゃん」にはメールで「今日は仕事の都合で帰れなくなった、ごめん」とだけ伝えた。まだ顔すら知らない人に謝罪をするのはどこか不思議だなと考えながら、僕はスーツを脱ぎ捨てて白い大きなベッドに飛び込んだ。するとどこからかどっと疲れが降ってきて、僕を深い眠りへと誘った。


 僕は目を開けた。蝉の声が直に耳に聞こえてくるような不快感を覚えたからだ。

 僕が目覚めた場所は、六畳ほどの部屋だった。初めは違和感さえなかったが、徐々に昨日の記憶を取り戻すと「またおかしな場所に来たか」と独り言を吐いた。壁には水着姿の女性が艶かしい格好で映るポスターが一枚貼られ、勉強用と思われる机には教科書類がまばらに積まれていた。僕はベッドから降りて、向こうがほんのり透けて見えるような白いカーテンを開けた。窓からは光が射し込み、僕はふっと目を細めた。

 窓の外には河があった。太陽に照らされてギラギラ光るその河は僕を駆り立てた。僕は恐らく寝巻きであろう半袖短パンのまま部屋のドアを開け、すぐあった階段を降りた。途中で居間が見えたが誰かいる様子はなく、僕は適当に赤いサンダルを引っ掛けて外に出た。

 家の外は雨上がりの匂いがした。地面も所々濡れていて水溜まりも見えた。けれど、空は青かった。空のブルーと河のシルバーと街のグレーはどこか冷たい感じがしたが、それは一様に「冷たい」という言葉で片付けてはならない冷たさであるような気がした。

 ふと「あなたこんなところで何してるの」という声が聞こえ、僕は肩をトンと叩かれたかのように振り返った。

「河にたそがれるなんてあなたらしくないわね」

「君はまさかツインテールの作家さんですか」と僕は言った。彼女は「ツインテールだけど作家ではないわね」と言った。僕は「恋の傀儡」について彼女に訊いたが、彼女は「何それ、変なタイトルね」と言って「私はそんな小説なんて書いたこともないし、これから生きていく上でも書かないと思うわ」と続けた。僕は、恐らく「ここ」の彼女は小説を書かないのだな、と思った。

「ところで、君の隣にいるポニーテールの子は、君の妹さんかな?」と僕は言った。

「ええそうよ。私の妹よ。ほら、挨拶しなさい」

「初めまして」とツインテールの彼女の妹は言った。「妹のちかと言います」

「ちかちゃんか、覚えておくよ」と僕は言った。

「じゃあ私たちこれから商店街で晩御飯の買い出しだから、もう行くね」とツインテールの彼女は言った。「わかった。いってらっしゃい」と僕も返した。ポニーテールのちかちゃんは軽くお辞儀をすると姉と並んで去っていった。

 姉妹の後ろ姿がかなり小さくなってから僕は「あれ」と呟いた。「ちかちゃんって、僕の妻の名前じゃなかったっけ」

 僕は黒いタブレット端末のメール画面を必死に思い出そうとした。

「いいや待てよ、もしあのポニーテールのちかちゃんとタブレット端末の向こうにいたちかちゃんが同一人物だったとしたらだ。あの喫茶店のような場所での会計のときにツインテールの作家さんが僕を見かけたらすぐに、身内だと気づくはずだ」と僕は呟いた。そして、やはりただの偶然なのだな、と思った。

 そのあとしばらく僕は河川敷を中心にぶらぶらと歩き回った。本当に静かな住宅街で、道中見かけた大きな緩い坂を上ればその先にも家が立ち並んでいたという密集ぶりだった。駄菓子屋に子供たちがたむろしていたり、夕方になると買い物鞄を肘に提げた主婦が立ち話をしていたりと、覚えのない思い出を僕に甦らせるものばかりだった。沈み行く夕陽を見ながらどこからか聴こえるチャルメラの音に耳を澄ませ、魚を焼く香ばしい匂いに腹を鳴らすと、僕は無性に家に帰りたくなった。来た道を戻り、木造二階建ての「僕」の家に入ると僕は、階段を駆け上がって部屋に飛び込み、大の字になって寝そべった。なんだかとても悲しくて、目の奥が熱くなっていたのがわかった。

「どうして僕は泣いているんだろう」と僕は言った。「わからないな」

 僕はゆっくりと目を閉じ、まぶたから零れた温かい涙をこめかみに感じながらふっと眠りについた。


 目覚めると案の定、眠る前と違う場所にいた。今度はどこだと思いながら体を起こすと、僕は白い大きなベッドの中にいた。まだ夜が明けて少し経ったくらいの時間帯で、僕はぼんやりと青い世界を眺めていた。すると、僕の隣で何かがもそもそと動いたような気がして見てみると、裸の女性が寝ていた。

 僕は目を丸くした。その寝ていた女性の顔が、あまりにもポニーテールのちかちゃんに似ていたからだ。ほぼ同じと言っても過言ではなかった。そして気づけば僕自身も裸であった。

 僕は怖くなって、とりあえずちかちゃん似の裸の女性を起こさないように慎重にベッドから抜け出し、床に脱ぎ捨てられていたスーツを急いで着た。

「あれ」と僕は言った。自分がいる場所に見覚えがあったからだ。目覚めた瞬間に、自分はホテルにいるのだな、と頭の隅で気づいていた。けれど、カードキーに箔押しされた筆記体の「六十」という算用数字を見て、その気づきは混乱に変わった。このホテルの一室は、僕がラブ・マリオネットという洒落た名前の喫茶店のような場所でほどよい苦味のコーヒーを飲んだ日に宿泊した部屋そのものだったのだ。

 僕は必死にその日のことを頭の中から引っ張り出そうとした。しかし、まるで睡眠中に見た夢を起床の瞬間に忘れてしまうように思い出せないのだ。

「駄目だ、このままではいけない」と僕は呟いた。何がいけないのかはわからなかったが、僕は血眼になって「手がかり」を探した。

 ふと僕は、黒いタブレット端末のことを思い出した。僕はまるで貧民が腹這いで富豪に金をねだるかのように自分の荷物を漁った。

 すると「んもう、うるさいなあ」という恐らくちかちゃんのものと思われるねっとりとした声がした。僕は呼吸が上がりだし、冷や汗が滝のように流れ出た。

 やっとの思いで黒いタブレット端末を見つけると、小刻みに震える左手で電源を入れた。電源が入るまでの一瞬、僕はまずメール画面を確認しようと決めた。そしてすぐに電源が入り、僕は「メール」という言葉を探した。しかし、僕の考えはまるで「恋の傀儡」で描かれた十代の恋愛のように甘かった。電源を入れて真っ先に表示されたのはパスコード入力画面だったのだ。

「パスコードなんて僕は知らない」と僕はビブラートのように震わされた声で呟いた。

 僕の声に反応するように「もう、こんな朝早くからどうしたのよ」とちかちゃん似の裸の女性が体を起こしながら言った。僕はまるでこの世の全てを否定するかのように首を横に振り回しながら、じりじりと後ろへのけぞった。

「何よ、この世の終わりを見たような顔して見ないでよ」とちかちゃん似の裸の女性は言った。

「あ、あなたの、名前を、教えてください」と僕が言うと、彼女は「何冗談言ってるのよ。ちかでしょ、ちか。忘れたの?」と言いながら全裸のままベッドから抜けた。

 僕は微妙に顔を逸らして「とりあえず、何か着てください」と言った。ちかちゃんが服を着ている間、僕はなんとか落ち着きを取り戻しつつあった。その落ち着きに便乗して、僕は黒いタブレット端末のパスコードを思い出そうとしていた。

「駄目だ、全くわからない」

 僕は静かに立ち、服を着ているちかちゃんの背中から少し離れたところまで歩いた。

「何よ、後ろから襲ったりしないでね」とちかちゃんが言うと、僕は「そんなはずないですね。それよりちかちゃん、このタブレット端末のパスコードってわかりますか」と訊いた。ちかちゃんは「大体想像はつくけどわからないわ。でも、あなたはこのパスコードを毎日変えているってことは聞いたわね。いつも次の日の日付にしてから朝御飯を食べてるって。私それ聞いたときおかしくて笑っちゃった」と言った。

「次の日の日付。ちかちゃん、今日は何月何日ですか」と僕は訊いた。ちかちゃんは「八月三十一日」とだけ答えた。僕はパスコード入力画面に左手で「八、三、一」と打った。すると鍵が開くエフェクトがかかり、僕はパスコードを解くことに成功した。僕はすぐさまメール画面を開き、そこに表示されたメールの差出人の名前が「ちかちゃん」になっているものを探した。それは一番上にあった。そのメールには「じゃあ今日もあのホテルでね」と書かれていた。

「今日もあのホテルでね、つまりこんな感じの朝は初めてじゃないのか」と僕は呟いた。「何当然のこと言ってるのよ」とちかちゃんが言ったが、僕は気に止めなかった。

「ちかちゃん、質問していいですか」

「いいわよ、もちろん」

「あなたには姉がいますか」

「姉?」とちかちゃんは言い「姉なんて逆に欲しいくらいよ。私は一人っ子」と言った。

 僕はちかちゃんの答えを聞いてさらに困惑した。ちかの姉が「恋の傀儡」を執筆したツインテールの彼女だと推測していて、これに外れはないだろうと確信していたからだ。

「あれ、よく考えればそうかな」

「何がよ」

「ツインテールの彼女とちかちゃんが並んで歩いてたとき、ツインテールの彼女は小説を書いていないと言ってた」

「ツインテール?」とちかちゃんは言った。「私も基本的にツインテールだけど、ツインテールの彼女って誰?」

 僕は頭の中が弾け飛びそうだった。「ちかちゃんあなたは、ポニーテールじゃないんですか」

「ポニーテール?」とちかちゃんは笑いを口元に含みながら言い「私ポニーテールなんて生まれてこのかたしたことないわよ」と言って笑った。

 僕はもう考えることを放棄したかった。誰がポニーテールで誰がツインテールで、何が夢で何が現実なのか、僕にはもう考えられなかった。考えれば考えるほど、見ていた風景も印象的なシーンも僕が思ったことも蟻地獄に沈む蟻のように消えていくのが本当によくわかった。

「一体どうしたのよ」

「僕の中で、僕自身も含めていろんなことが矛盾しているんです。まるで矛盾だけで世界が形作られているような、そんな心地です。何が夢で何が現実なのか、わからなくなりました」と僕は半泣きになりながら言った。

 ちかちゃんは一度くすくす笑い「何が夢で何が現実かって?」と言った。「そんなの簡単じゃない。あなたが信じたいものが夢で、信じたくないものが現実よ」

「それはつまり、どういうことですか」と僕は訊いた。ちかちゃんは「まあとりあえず、椅子に座ってビールでも飲みながら話しましょう」と言って冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。


「それで、なんの話だっけ」

「何が夢で何が現実か、という話です」と僕は言った。

 ちかちゃんは「思い出した。じゃあ改めて言うけど、あなたが信じたいものが夢で、信じたくないものが現実よ」と言ってビールを一口飲んだ。

「あなたに決定権があるなら、あなたが好きに決めちゃえばいいのよ。たったそれだけのこと。けどね、あなたが楽をしたいがために夢か現実かを決めるのはよくないことね。それを正しく決められなかった人は、自分の命を自分で絶つの。」とちかちゃんは言って僕の目を二秒見た。

「私はあなたに死んでほしくないから言うけど、あなたの中で酷い矛盾が起こっているなら、その矛盾を構成するもののどれかは現実で、それ以外は夢よ」とちかちゃんは言った。僕は「最強の矛と最強の盾の内、どちらかが現実でもう片方が夢ということですか」と訊いた。

「まあ簡単に言えばそういうことね」とちかちゃんは言って、またビールを飲んだ。

「夢って憧れるでしょ。何でも自分の思い通り。けれどそれって、あくまで夢でしかないのよ。私たちは現実の中で夢を実現しなければならないの。夢でしかできないことを現実でできるようになるために努力しなければならないのよ。でも、六割以上の人はその努力を失敗に終わらせて一生を終えるの。それならどうして老人たちは笑っていられると思う?」

「わからないです」

「そうね、私もわからない。けれど私はこう思うの。みんな、努力を失敗に終わらせるまでのプロセスを楽しんできたからじゃないかって。もちろん、笑えないような生活を送る人や、もう二度と笑えなくなってしまったような人もいるでしょうね。でもそんな人たちでさえも、この世の理不尽さを嘆きながら、負けるために戦っていると思うの」

「負けるために戦うだなんて、そんなこと言われたら僕は、この世の全てが哀れに思えてきます。そんな世界で努力なんてしたくありません」

 ちかちゃんは鼻で笑い「あなたなんにもわかってないわね」と言った。「どんな世界に旅をしても努力しなきゃ失敗もしないし、そのプロセスを楽しむことすらできないのよ」

「でも努力をしないせいで失敗している人も沢山いますよ。そういう人たちはどうなるんですか」と僕は言った。

「その類いの失敗と私が言った失敗は少し違うわね。損得勘定だけで言えば、あなたが言った失敗の方が得をするわ。けれど、私が言った失敗は失敗までのプロセスが――」

「そのプロセスって何ですか。得する方があるならそっちを選んではいけないのですか」と僕は訊いた。

「選ぶのは自由」とちかちゃんは即答した。「でも、努力して失敗しようとしない人なんて腐ったも同然よ」

 ちかちゃんは鋭い目で「トランプ遊びのポーカーと一緒。勝とうが負けようが手札は決まってしまうの。けどね、カードの見せ方によってそのゲームは楽しくもつまらなくもなるでしょう。一度に全て見せてしまうのか、どうすれば面白くなるか考えて一枚ずつ見せていくのか。そのカードを見せる順番が、私の言うプロセス」と言った。

 僕はちかちゃんとの会話の中で初めてビールを飲んだ。そして「つまり僕はどうすればいいのですか」と言った。

「失敗しなさい。周囲の変化に気づきなさい。誰かが言ってくれたことを思い出しなさい。何が駄目で何が正解で、何が増えて何が減ったのか、考えてみなさいよ。あなたならできるから」とちかちゃんは言ってビールを飲み干した。

「僕のビール、まだ残ってますよ」

「あなたが飲みなさい」

 僕はちかちゃんに言われて、残っていたビールを一気に飲み干した。

「ありがとうございました。ビールを飲み干したらなんだかスッキリしました」

「それならもう大丈夫ね」

「僕、もう行きますね」と僕は言った。そして鞄と黒いタブレット端末を手に、部屋の扉へ向かった。

「あ、そうだ。あなた、絶対忘れないでよ。私はツインテールだから」と言ってちかちゃんは笑い、故意的に髪を揺らした。

「髪の束が一本増えたんですね。よかったです」と僕は言った。

「それどういうこと?」

「僕今何か言いましたっけ」

「言ったじゃない。髪の束が一本増えたんですねって」とちかちゃんは言った。僕は、脳内であまりにも突然思考が繋がったことのショックで、黒いタブレット端末と鞄を床に落とした。

「わかりました。ちかちゃん、僕わかりました」

「何がよ」

「では僕は帰ります。恐らくツインテールのちかちゃんにはもう二度と会えないと思います」

「ちょっとそれどういうことよ」

 僕はちかちゃんを無視し、荷物を拾って勢いよく部屋を出た。


 僕はホテルの外に出ると、黒いタブレット端末で「ラブ・マリオネット 喫茶店」と検索した。そして現在地から目的地までの地図を表示し、それを頼りに歩き出した。所要時間は十分と表示されていた。

 ラブ・マリオネットという名前の喫茶店に着くと僕は、ただ高揚した。そして僕は入店した。相変わらずのシックで落ち着いた雰囲気だった。

「いらっしゃいませ」

 僕はまっすぐレジへ向かった。

「お客様、どうかなさいました?」

「この店に、ツインテールの店員っていますか」と僕は訊いた。

「ツインテール。一人だけいますよ」

「その人とお話をさせていただけませんか」

「少々お待ちください」

 しばらくして、「恋の傀儡」を書いたはずのツインテールの作家さんが出てきた。

「こんにちは、初めまして」とツインテールの彼女は言った。「ここ」では初対面なのか、と僕は思った。

「こんにちは。ツインテール、よく似合ってますね。ところであなたは、小説を書いたことがありますか?」と僕は訊いた。ツインテールの彼女は「小説ですか。私、実は本を読むのが苦手なんです。だから、書くなんてことはまずあり得ないですね」と苦笑いするような表情で言った。しかし僕は屈しなかった。すでに一つの答えに辿り着いていたからだ。

「では、一つお願いしてよろしいですか」と僕は言った。

「私に可能なお願いであれば是非」

「ポニーテールにしてもらえませんか」

 ツインテールの彼女は驚いたような顔で「ポニーテールですか」と言った。

「そうです。僕は椅子に座って一時間ほど眠ります。その間、ずっとポニーテールでいてほしいのです」

「それはまた奇妙なお願いですね」

「どうかお願いします」

 彼女は少し唸って「店長に訊いてきます」と言って店の奥に消えた。

 僕は、かなり待つかもしれないと思っていたが、ほんの数分でツインテールの彼女はポニーテールになって戻ってきた。かなり可愛らしくなったと僕は思った。

「それでは、席はこちらになります」とポニーテールになった彼女は僕を案内した。

 僕は席に着くと「では一時間、お願いします」と言った。ポニーテールになった彼女はにっこり笑って、また戻っていった。

 僕は荷物を全てテーブルの上に置き、ネクタイを緩めて目を閉じた。いつもより寝付きが悪かったが、いつの間にか僕は眠っていた。


 目が覚めると僕は、大の字になって寝そべっていた。体を起こすと、壁には水着姿の女性が艶かしい格好で映るポスターが貼ってあった。僕は立ち上がり、向こうがほんのり透けて見える白いカーテンを開けて、ギラギラ光る河が見えるか確かめた。

「よかった。戻ってこられた」と僕は独り言を呟いた。僕は、次はポニーテールのちかちゃんとツインテールの彼女を探そうか、と思った。僕は二人がどこにいるか考えた。すると、ついさっきのことを思い出すように簡単に「じゃあ私たちこれから商店街で晩御飯の買い出しだから、もう行くね」というツインテールの彼女の言葉を思い出せた。僕は商店街を目指そうと決めた。

 とりあえず大きな緩い坂を上れば商店街があるだろうと僕は考え、半袖短パンに赤いサンダルで坂を上った。子供たちが騒いだり、主婦らしき人たちが世間話をしたりする以外に音をたてる要素がないのではないかと思うほど、静かな静かな坂だった。坂の両岸には家々が立ち並び、涼しそうな小道が見えることもあった。しかし僕は坂を登り続けた。

 とうとう僕は商店街らしき場所すら見つけないまま坂の上まで来た。坂の上には広場のような場所があり、ベンチがいくつも置いてあった。僕は一番隅のベンチに座るべく、広場のような場所の端まで歩いた。隅のベンチに座ると、何も遮るものがない広いだけの青空が視界に広がった。僕は、ずっとここにいるのもいいかなと思った。地上に平行に流れる雲が形を変えるのを僕はずっと見ていた。

 すると「あなた、ここで何してるの」という聞き覚えのある声が聞こえた。僕は声のした方に目をやった。そこには、ツインテールの彼女とポニーテールのちかちゃんが買い物袋を持ちながら立っていた。

「奇遇だね」と僕は言った。

「どうして空に見惚れてるのよ、あなたらしくないわね」

「そうかな。僕はよく空を見るよ」

「隣、座っていいかな」とツインテールの彼女は言った。「もちろん」と僕は答えた。二人は僕の隣に並んで座った。

「私ね、正直言うとこの場所とっても好きなんだ」とツインテールの彼女は切り出した。

「へえそうなんだ。僕もこの空は好きだな。青いグラデーションがかかった布に生クリームをこぼしたみたいなこの空が」と僕はまるで独り言のように言った。

「ところであなたは、ここで何をしてるの」とツインテールの彼女は言った。

「そうだ。僕は君たち二人を探していたんだよ。一つのお願いを聞いてもらうためにね」

 ツインテールの彼女は「どんなお願い?」と言った。僕は「君にポニーテールになってほしい」と言った。

「いいわよ、別に」とツインテールの彼女は言って、一度髪止めをほどいてからポニーテールを作った。「これがあなたのお願い?」

「実はもう一つやってほしいことがあるんだ」と僕は言い「僕がこのベンチで寝ている間、その髪型のままここにいてほしい」と続けた。

「寝ている間って、どのくらい?」

「一時間」と僕は言った。

「構わないわよ。いいよね、ちか」

 ちかちゃんはこくりとうなずいた。

「ありがとう。じゃあよろしくね。できればここにいたかったけど帰らなきゃならないからさ」

「よくわからないけど、あなたが寝ているときにキスしてもいいかしら」

「目が覚めるから駄目だよ」と僕は言った。

「冗談よ。誰があなたにキスするのよ」と言ってポニーテールになった彼女は笑った。僕はそれを見届けると、うつむいて目を閉じた。しばらく周囲の音が聞こえていたが、次第に音同士の区別がつかなくなって僕は眠った。


 電話が鳴って、僕は目を覚ました。体を起こすと、自分がホテルにいたことがわかった。電話がモーニングコールであることを察した僕は、受話器を取ってすぐに「ありがとうございます」と言って電話を切った。

 僕が今やることは決まっていた。それは黒いタブレット端末の向こうにいる「ちかちゃん」にショートヘアーになってもらうことだった。僕は黒いタブレット端末に電源を入れ「八、三、一」とパスコード入力した。そしてメール画面を開いて知っている通りの手順で「ちかちゃん」にメールを送信した。中身はとても単純に「今すぐショートヘアーになって僕にその姿を見せてください」という一文だけだった。

 返信はすぐに来た。「今すぐはさすがに無理ですよ。数時間待ってね」という内容だった。数時間待つ間、僕は何をしようか考えた。カーテンを開けると外はかなり晴れていて、空の下に出ないのは少しもったいない気がした。そうして考えると答えはすぐに決まり、スーツを着て僕は外に出た。僕は何となく覚えているラブ・マリオネットまでの道のりを思い出しながらゆっくり歩いた。

 ラブ・マリオネットという喫茶店は僕の思った通りの場所にあった。すぐに僕は入店し、シックで落ち着いた空気に包まれながら、隅にある二人用の小さなテーブルに座った。

 少しして、店員の一人が僕のところに来て「お客様、ご注文は何になさいましょうか」と言った。僕は「アイスコーヒーを一つ」とだけ言った。

「かしこまりました」

 アイスコーヒーはすぐに出てきた。僕は迷わず砂糖を一個入れ、全て溶けるまでかき混ぜた。混ぜ終えてスプーンを受け皿に置き、左手でコーヒーカップを持つと、僕はそのコーヒーを一口飲んだ。ほどよい苦味の美味しいコーヒーだった。

 カップを置いて黒いタブレット端末を見ると、一通の新着メールが届いていた。僕はそれを落ち着いて開き、中身を見た。そのメールに文章はなく、恐らく「ちかちゃん」と思われるショートヘアーの女性が手で顔を隠している一枚の写真だけがあった。僕はほっと溜め息をついた。

「ここに来てよかったよ」

 僕が無意識に口にした独り言は、髪型をしっかりセットした若い男の店員の耳に届いたらしく、彼はにやけながら店の奥に歩いていった。

 僕は「ありがとう」という一文のみのメールを返信し、ほどよい苦味のコーヒーを長い時間をかけて味わった。そしてコーヒーを飲み干すと、百四十円をカップの横に置き、香ばしいコーヒー豆の匂いに包まれながら、滑らかに眠りについた。


 僕が目を開けると、膨らんだ蒼いカーテンが元に戻る瞬間が丁度見えた。すると目の前にいたポニーテールの彼女が「約束だよ」とうつむき加減に言った。僕はほぼ反射的に「わかった」と言った。僕が周囲を見回すと、薄明るい教室の中にいることがわかった。黒板には大きく「自習」と書かれているが、真面目に勉強しているように見えるのがほんの数人、あとは皆友達と駄弁っていた。蒼いカーテンが六割の光を遮断していても、風に揺れた隙間から十割の光が時折射し込み、教室に光の直線を描いていた。カーテンを揺らすだけの隙間風にピラピラと音を立てて捲れている日捲りカレンダーは、八月三十一日を映していた。

 僕が自習という文字を眺めていると、不意にチャイムが鳴った。駄弁っていた生徒の内の男子は声を上げて教室を飛び出した。どうやら学校が終わったらしい。窓の外には帰っていく生徒の背中が見えていた。

 ポニーテールの彼女は帰り際に「じゃあ図書室でね」と僕の耳元で囁き、教室を出ていった。その瞬間僕は、ポニーテールの彼女と話したことや「恋の傀儡」のこと、僕が彼女の悩みらしきことを聞いてあげる約束をしたことなどを至極はっきりと思い出した。僕は慌てて図書室の場所を調べ、三階の図書室に行った。


 僕が図書室に入ると、ポニーテールの彼女はまだいなかった。僕が椅子に座ってから二分くらいして、ポニーテールの彼女は来た。

「ごめん、待った?」

「いいえ。全然待ってませんよ」と僕は言った。

 ポニーテールの彼女は僕の隣に座り、僕は窓の外の家並みを見ながら彼女が切り出すのを待った。しかし、彼女があまりにも話しづらそうだったので、僕はとりあえず「それで、どうしたの?」と訊いた。ポニーテールの彼女は一つ一つの言葉を区切りながら「私ね、世界一とか絶対とか十割っていう言葉が嫌いなの。厚かましくて」と言った。

「もしかしてさっき、嬉しいけどどうしてもお世辞に聞こえちゃうって言ったのは、そのことだったのか。僕は九割九分って言ったな。なんかごめんね」

「あなたは何も悪くないよ。これは私が背負う問題だもの。それでね、だからかもしれないけど私は六割が一番信用できるの。たとえば、君は世界の誰もが認める美人だって言われるよりも、君は世界の六割の男性が認める美人だって言われる方が嬉しかったりするのよ」

「君の可愛さは僕の中で五割五分だよ」と僕は言った。

「あなた最高ね。今日は本当にありがとう。誰にも打ち明けられない悩みだったの。本当にありがとう」

「僕は君の感謝を六割だけ受け取って残りは空へ飛ばすよ」と僕は言った。

「もう」と言ってポニーテールの彼女は顔を逸らし「好きになっちゃいそう」とまるで呟くように言った。

「僕は君のこと好きだよ」

「どうして?」

「そうだな。長い旅路の中でいつの間にか好きになったみたい」と僕が言うとポニーテールの彼女は笑った。そして笑いを堪えながら「私もあなたのこと好きよ」と言った。

「そうだ。僕はね、その長い旅路の中で思ったことがあるんだ。僕、旅路に迷い込めば迷い込むほど君との距離が遠ざかって違う女性との距離が近づいた気がしたんだ。旅路の一番深いところでは僕と君は初対面で、僕は他の女性と一緒にいた」

「その長い旅路はここで終わったの?」とポニーテールの彼女は言った。

「ここが最後の通り道になるよ。僕は迷った道を引き返して旅路の一番浅いところまで来たんだ。だからここを抜け出せば君ともっと近づけるような気がする」

「ここを抜け出すってつまり――」とポニーテールの彼女がいいかけて、僕が「君の魅力の六割に気づいて恋をした僕がこの世界からいなくなるってこと」と割り込んだ。

「そんなの認めない」とポニーテールの彼女は言った。僕は「お願いが二つある」と言って彼女を見つめた。

「一つ目、ショートヘアーになった君を見せてほしい」

「認めない」

「二つ目、最高のキスで僕を目覚めさせて」

「認めな――」と彼女はいいかけて止めた。

「僕はもう帰らなければならない。帰って夏休みの宿題を終わらせなければならない。八月が終わる頃に読めって言われている本も読まなければならない」

 ポニーテールの彼女は下を向いたまま立ち上がり、図書室のカウンターに置いてあるペン立てからハサミを抜き取った。そしてピンクの髪止めを外し、自身の髪を静かに切った。バサリと音を立てて床に落ちた彼女の髪の毛は花火のように床に広がった。彼女はハサミを元に戻し、下を向いたまま僕の前に歩み寄った。そして無言のまま顔を上げた。

 僕は息を飲んだ。彼女のショートヘアーは、僕がこれまで見てきた女性の中で一番似合っていて、美しかった。

「これでいい?」と彼女は今にも千切れてしまいそうな声で言った。

「ごめん、これだけは本気で言わせてほしい」と僕が言うと、ショートヘアーの彼女はうなずいた。

「今の君は世界一美しいよ」

「うん」とショートヘアーの彼女は泣き笑いしながらうなずいた。そして「それじゃあ二つ目のお願いだね」と言った。

「ごめんね、無理なお願い聞いてもらって」と僕は言った。

「もう、最高のキスで目覚めさせてなんて、眠り姫じゃないんだから」

 僕は椅子から立ちながら「君のおかげでやっと髪の束がゼロになったよ。ありがとう。さようなら」と言って目を閉じ、ショートヘアーの彼女に口づけした。


 唇に何か柔らかいものが触れたような気がして、僕は目を覚ました。僕は一冊の本を腕に抱き寄せながら本棚の上で横たわっていた。ぼんやりと目を閉じていると、遠くでは鳥が鳴き、時折車が通る音が聞こえ、どこかで食器を合わせる音がした。たまに秋の香りを含んだ風が吹き、時計の針が進む音がした。僕はもう一度本棚の上で横になり、今度は天井を眺めた。ガラス張りの丸天井の向こう側からは圧倒的な光が注ぎ込み、僕とこの本の部屋の全てを照らしていた。いつか見たカーテンのように蒼い空が悠々と白い雲を包む光景を、僕は全てを忘れたようにずっと見上げていた。






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[良い点] およそどの物語にもない魅力が、この話に具わっているところです。全体で一つのメッセージを伝えてくれているみたいで、でもなかなかそれが見つからないから、つい何度も読んでしまいます。久々に物語に…
[良い点] この作品は僕のなかでは92点だ。 100点をあげたいけれど、この先の発展(8点)を待ってます [気になる点] 残り8点をゆっくり待ってます。 [一言] コーヒー飲んでゆっくり考え、いい作品…
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